●こころを観る意識次元へ移行する時
人はこころをもっている。
そのこころとは、動物とは違うより複雑で幅広い想いや感情であり、意識的存在:人として生きている証なのだ。
それは高度な有機組織体に備わった次元観察の窓のようなものである。そのこころの窓を覗いている、すなわち世界を見、聞き、感じながら発する意識作用を有する人間は、すなわち想っている、感じているところの人間は、実は全てを包含する宇宙意識そのものの個別化された有り方なのだ。
普通に思っている「自分」とは、そのときどきの限られた人生という体験群とそれに対する想いや感情の記憶だ。
いわゆる個我の「あなた」とは、人生の記憶断片でしかない。すなわちその時々の「仮の自己」というべきものである。この限られた人生以外のフェーズでは、それは「あなた自身」ではなく、単なる「記憶」として残るだけのことである。
過去という記憶も、未来という希望も、つねに今の瞬間にあるのだ。
覚者の特徴は、自己のアイデンティティーは過去でも未来でもなく、全て今の瞬間にあることをほぼ完全に理解している人のことである。
また今の瞬間は、無限の可能性そのものであり、その可能性をその時々での出来うる限りの最高の真・善・美で飾ることが出来ることに気づいている存在のことである。
見る聞く嗅ぐ、味わう、感じることが出来る、大きなこの世界というあなたの小部屋を、いかようにも飾り付けるのは常に「今」のあなたの「こころ」によるのだ。
●何をしているかが「分からない」・・ことが問題
我々は「仮の自己」を維持し太らせる為だけに、世界という舞台で様々に騒ぎまくっているのかもしれない。騒ぎが何かを生み出すとでも勘違いをしているのかもしれない。
我々の多くが、まるで一時のお祭りに興じている若者達であるとも考えれば、なにもどうということもないかもしれない。
生きるとか死ぬとか、怖いとか許せないとか、悪辣だとか善良だとか・・そのような感情の爆発を、それを、あたかも生きている証だと誤解しているのであろう。
言葉を変えれば、現前する宇宙の顕す大いなるいわば「親こころ」には未だ気づくことはなく、また自分の「こころ」にも気づかず、その創造主の属性である自らの「こころ」自体を、無意識のうちに担ぎ上げで遊んでいたのだともいえるだろうか。
無意識の人々が終始するのは、自分に対する他者の行為と自己利益の勘定のみであり、それをもとに人や世界が良いとか悪いとか、裁くとか訴えるとか・・そのような方向、すなわち他者のあり方と自己保存の利益に、意識的エネルギーを費やしてきたようだ。
それは本来の方向ではないために、多くがいわゆるネガティブなエネルギーとして現象に結実してしまう場合が多いかも知れない。
●自らの土台、舞台を壊すべからず
争い、諍い、戦争、騙し、略奪、環境汚染・・すべて自己保存に特化した個々の集合的なあり方から来る結果である。
それもこれも、根にあるのは「自己は肉体であり、それをまず他よりも優位に維持しなければならない・・これが各自の至上命題である・・」等という極めて卑小な固定観念である。
その極めて卑小な固定観念を、人間の尊厳だとか、民主的だとか、公平だとかという「偽りの絹」を着せて社会を構成しているのではないか。
人間の生きる権利や尊厳の前に、それを包含し、それを生かし続けるところの大いなる大自然の尊厳はどうしたのだろうか!
自らの存続を基本から支えている大自然を、汚してなにか良いことでもあるわけはない事ぐらい、大の大人が気づきそうなものだが、生活の為に繁栄の為にという「お題目」を信じ込んでいるカルトの信者のようなものではないか。
多くの人にとって大切な肉体は、元々大自然の精妙なプロセスから生み出されているのだし、人はことさら何もせずとも、その目的を果せるように本来仕組まれているのだが、その仕組みに無理やり干渉し、イビツに変形させてしまうことを、人類の叡智だとか、創造への参加だとかという風に誤解している文明の有様を見よ。
そうして、肉体表面レベルの意識に固定されている多くの我々の有様を見よ。
●徳のない文明は消え去る
先の文明が滅び、洞穴生活からようやく這い出し、極めて深い自己反省をしなければならなかった人々が、曲がりなりにも築き、踏襲してきた地球各地の古い民族の諸文化を、それを未開と称して根だやしにした現代文明は、その存続の「徳」というべきもの、いわば質草をすでに失ったのかも知れない。
大地は滋養をそがれ、川は赤く汚れ、大気は不純物が混じり、海は薄い毒に犯されている現実に、我々は気付かないわけにはいかないだろう。
自然をどう汚しても、誰かが何かがいつか取り返しをつけるだろう・・等と言うような責任転嫁の資本主義的自己主張はもう一切やめなければならないときではないのだろうか。
我々の生きてあるこの地球という生命圏が、以前とはすでに違うことを理解する必要がある。自然界の活力の衰退は、例えば年配の人々はわかり易いはずだ。人類の犯して来た無知の行為の結果は、すでに我々の身の周りの世界に現れている。
大きな変化は、決して気のせいではないのだ。
●フィードバック機能による調和の維持はいつもある
またその不調和にたいする地球のフィードバック的な修正、地球の自浄作用が起きていることにも気付く必要があるのだ。
地球は巨大な物量の丸い土の塊ではなく、我々と同じような身体と意識をもった生命体である。ぺちゃくちゃ喋らないからといって、単なる物質の塊と考えるのは無知蒙昧のなせる業である。
人間を肉の塊であるとボンヤリ思っている者達は、地球も同じようだと考えるだろうか。
あなたや私たちがそうであるように、病んだ身体やこころは、それが癒されるのが自然の有り方であり、同じく、いわゆるガイアである地球も、その巨大な規模でもって癒しの過程に入っていることは判るはずなのだ。
その癒しのプロセスは人間にとってはなまやさしいものではないのは想定内のはずだろう。地球のちょっとした身震いは、数キロmの地殻の上下動となるし、地球大気の癒しはその循環を微小に変えても、人間にとっては甚大な変化となる。
蒔いた種は刈り取らなければならない定めなのだ。
●各自のこころでフィードバックすべし
今、その不浄の実りを各自の意識の内に潔く刈り取るべきである。
少なくとも大自然にたいする不遜な態度を、尊敬の念へと転換しなかればならない。またなぜそうなのかを自らで問い直し、こころの底で地球や宇宙の調和のあり方を理解しなければならないのだ。
その他大勢の眠れる者たちの顔色を見るのを止め、自己のこころの有り方を振り返り、出来うる範囲で謙虚な想いと行為に切り替えてゆかなければならない時が来ているのだ。
どんな利益があるのか・・等と言う、いまさらながらの問いかけは問題外である。
少なくとも、現象化する自浄作用によって生起するであろう怒涛の濁流に流される愚だけは避けなければならないだろう。
各自で各自の実りと不調和を「こころの段階で刈り取る」ことで、不調和のその大きな現象化は防げるのも宇宙における因と果の法則である。それもこれも全て個々の意識の作用に従って個々の環境に生起することは忘れてはならない。
皆々全て一緒ではないのだ。そのための意識の個別化である。
それに気づかず、知らぬ存ぜぬを通すことは出来ない相談なのだ。自己の蒔いた種は自己で刈り取るのは、すなわち、大いなる創造者の子である個々の意識存在の役目なのだ。
何がどうなるかは、誰か、何処かの他者が決めるものでは毛頭あるはずも無く、全ては意識の湧出点であるところの、あなたやわたし達のそれぞれの役目なのだ。
あなたやわたしたちにある、それぞれのこころの歪をそれぞれで解消し浄化しよう。そうすれば人類意識に浮かぶ小さな泥舟は、その仮の覆いを剥がし、天空まで駆けることの出来る壮麗な姿を自ら現すだろう。
こころを自然に調和させ
穏やかに、
欲少なく、
朗らかな笑いを努め、
人に出来るだけ優しく、
自分にも優しく、
すなわち、
大いなるこころの有り方、大自然に調和したありかた、
歪の少ない自由自在な自己表現を心がけ、
物質に媚びへつらわず、逆にそれを思いを込めて加工、進化、そして昇華させ、
人間お互い同士を自分の鏡像と心底理解し、
無限の愛という生命に少しながらも感謝しつつ、
今のこの偉大なる瞬間を「観続ける」存在に戻る時である。
その前に、いつの世にもどこであっても、
常に必要なのは、自己の自己を創り続けるところの
あなたの「想い」を観ることである。
人は「想い」という「種」の蒔く存在なのだ。
そしてそれを「自ら」刈り取ることの出来る存在である。
今までは、自己が存続すべき肉体であり、そのために何でも掠め取る・・という根本的なエゴ的観念が結実した文明であったが、
これからは、
我々は肉体以上の意識的存在であり、それを生かし続けるところの大いなる大自然、宇宙との調和を根にした文明に転換するであろう、
そんなターニングポイントに「今」我々はいるのだ。
そのような肝心な「今」の時に、眠っていてはいけない・・と思う。
大いなる永遠なる意識存在・・それが人である。