「悟り」という言葉は、現代社会では少し異質で取っ付きにくい、言いにくい言葉に追いやられているような感じもします。自分達にとっては今は遥かに無縁な言葉、言うにも口はばったい言葉になっているかも知れません。そのあえて口はばったい「悟り」を言葉にあらわすとしたらこのようになるでしょうか。
●悟りはいつでもどこでもすぐそばにあるもの
悟りという言葉は何か高尚で、難しく、諸人の手の届くものではないと思いがちです。人類の歴史のなかで、実は相当多くの存在が、その悟りといわれる境涯に踏み込んでいるのは、紛れも無い事実なのです。 ブッダ、キリスト、クリシュナ、マハラジ、良寛、道元、栄西、親鸞、空也、その他古(いにしえ)からの文書を通じて、宗教、科学などのカテゴリーを越えて、今も尚その存在感を伝えてくる方々は当然のことながら、我々の今の共時世界にその存在意志を共有している名もなき多くの人々も、多かれ少なかれ悟りという境涯に至ってるのは間違いありません。
悟りが妙に簡単・明瞭なものかも知れないという感触は、禅問答でも伺うことが出来そうです。わかったようでわからない・・・ここに、すぐそばにある問題と答えがあることが察せられます。何も銀河の向こうに飛んでいかなければわからないことではありません。間違いなく、今ここにあるのが悟りなのです。それだけは絶対に理解できます。
●悟りは本来すでに知っていることをしっかり思い出すこと
悟りというのがいつの間にか、高度な、つかみどころの無い、一般庶民に手が届くものではないという無意識レベルの刷り込みがあることに気がつきます。悟りが特別なものという感覚そのものが、その「虚妄」を表しています。ここにも無知を既知にしようとしない、権威主義的なヒエラルキーの壁が出来ています。いつも大切なものが「遠く」にあるという感覚。悟りなど普通できるもんじゃない・という感覚の壁、はたしてこれは真実でしょうか。
悟りとはなんでしょうか。それは別に肉体が光りだすことでも、心の隅から華々しく現れる天使のファンファーレでもありません。自分は悟りなどとは全く無縁であると感じるならば、あなたやわたしは本来の意識ではないということを知っていることを・・・現しているのでしょう。逆に実は悟りというものを体現しているのが事実のようです。それを意識的に知っているかどうかは別としてですが。
●悟りは自由自在の心境をいう
悟り、それは「今本来在るべき当たり前の意識状態」を言うのだと、本来のあるがままのことを言うの事だと思います。まちがいなく自由自在の意識状態であることを言うのです。 至極簡単な悟りという状態を果たして理解出来るでしょうか。難しそうな理論も、意味深そうな謎かけも、まったく無いのだという思いがけない答えにこそ、なかなか気付かない理由があるようです。ありがたいものは、難しいものだという、無意識の信念に捕らわれている自分達に気がつくでしょうか。
●悟りは力づくの努力を無くした時に現れるもの
あるがままとは、普通のこと・・でもありません。世間一般の通念に縛られていることは、当然のことながら、悟りではありません。あなたやわたしの前を通過する多くの普通の人々が、どうも悟ってはいないだろうと思われるのは、現状での妥当な観察です。多くの人々がいつも疲れているかのごとく肩を下げ、何事にも無関心で無感動であり、自分に不利になることからはいかに逃げおおせるか、いかに少しでも安楽・快楽を得ることが出来るのかに関心があるようです。
●悟りは物や欲などの執着を外した意識
また、幸運にも?悟りなどすれば、何か今の大切な物が失われるようで、怖いと思う意識状態であるかもしれません。とにかく多くの仮想の集団の中で身動き取れないながらも、おのれの足場だけを何とか確保していく為にとりあえず生きているという人々が多いのではないでしょうか。 悟りや、あるがままという存在状態が、自分にとって不利益になるかもしれないという心の現われを感じないでしょうか。本来のあるがままになったら、今ある所有物、地位や財産などが、ひょっとして失われるかもしれないという恐怖以外の何物でもないわけです。要は自分にとって更に素晴らしい方向に行けば、大切な物が失われるかもしれない・・というかなりな矛盾を感じているわけです。
●悟りは生と死が単に相対的な現象であると理解していること
実は、潜在意識の中では、自分達がすでに悟っている存在であることを知っており、本来当然そうあるべきことを、うすうす気付いているのです。ただその本来あるべき状態に移行したとたんに、何もなくなってしまい、または何かが失われるという「怖さ」があるのです。考えても不思議なことです。いつも何かを恐れていること自体が、取り払われるべき、身に着けた「刷り込み」なのです。無意識に作り上げた社会通念という安全装置が、多くの存在達の意識波動を低いレベルで固定しているようです。何も個人が真剣に人生を知る努力をせずとも、大勢の人々の動きの中でひょっとして安穏が保たれると言う期待、これは他者への期待、依存を示すものであり、全体という架空の集合のへの隷属を意味します。 これらを無条件に半強制的に悟らせるのが、いわゆる死といわれる現象です。現世で獲得し身に着けた全てを、無条件に奪ってしまう、一見容赦ない現象なのです。ひるがえって考えると、泣いても笑っても誰にもおとづれる死は、余計なものをきれいに洗い流してくれる「恩寵」と考えることが出来ます。相対的な価値感や信念をきれいにしてくれるありがたいシステムとも考える事ができます。子供達から大切なオモチャを取り上げてしまえば、大騒ぎになり泣叫ぶことになりますが、明日も遊べると考える分別のある子供達は、それを理解する段階になっていることを示しています。
●悟りは、おのれがおのれに意識的である、自立したこころの状態をいう
我々は生と死というそれぞれの瞬間の一定の猶予期間をわざわざ設けており、その有限の舞台の中に自分を投入します。あわせて自分を投影させた瞬間に全てを顕在意識から消してしまいます。なぜならば、全ての始まりはおのれから発したのであることを再現する為なのです。人生の意味は誰の顔を見てもわからないわけです。誰に聞いてもわからないわけです。物など集めて身の周りに自己保存の要塞を築いても、決してわからないわけです。 わたしが生まれてきたと言うことはわたしの意志であり、他の誰の意志でもないのです。
●悟りは、社会の中に居てもその通念に捕らわれていないこと
古来からある出家という行動様式は、なにも社会的なものを全て捨てるという事を意味しません。単に悟りを得た者がそのような風な目で見られることを意味しています。富や権力、あらゆる執着を手放した存在達、自己修養努力や偶然に思える強烈な出来事などをきっかけに心の変容を起こした存在達、彼ら集団の信念体系から抜けた意識をもった存在達は、多くの人々のような執着心が無いように感ぜられるためにそういう風に見られるのでしょう。
●悟りは、子供のような純真な在り方
実は我々は悟りの状態をすでに経験しているのです。皆が皆経験しています。 我々の子供時代を思い出せるでしょうか。どこか遠くの記憶の断片の2つや3つは思い出せると思います。子供時代は、いまだ社会通念という、何か下駄箱のような小さな割り当て意識のようなものに詰め込まれていない状態です。思考や感情がまだはっきりとしていない状態にしても、本来のあるがままで生きていたのです。 無垢のまま、あるがままであることの奇跡的ありかたは、例えば子の親になればそれを観察できるでしょう。無力な赤子と言われる彼らは、無力、無垢のまま、あるがままのいわば「悟り」の意識状態にあったのです。単に彼らが言葉に表さない、思いを流暢に論理的に表現しないだけであり、その代わりに、彼らはしっかり知覚しているものです。それは生命の素の贈り物でもあります。
●悟りは、本来あるがままの無限であるわたしに気付くこと
歴史の中で巻き起こっては消えて行く人類・民族・地域の平均的な信念体系、その中には、恐れ、疑い、不安、逃避、強欲なども多く混在しています。今のあなたの心のトーン・胸や胃の辺りのなにかのホンのチョッとしたもたれ感に、気がつくでしょうか。身体は非常に高度な表現体ですが、その現われがコンピュータのような単純な論理・ロジックで表現しているものでないために、気付きにくいものです。 地球生命学園での学びは、驚くような混乱と絢爛たる幻想を味わった後、それまでに否応となく身に着けた虚妄の信念を潔く、勇気をもって、意識的に外してゆくことではないかと思います。その過程で本来の無限なる存在である自己に気づいていくことになります。次元上昇、アセンション等の流布している概念は、自分自身の表現形態を自在に変えてゆくことを示しており、自己に相応しい表現環境が相応に現れることを示しているのです。周囲が変るから、そのおかげで自分が変ると考えるのとは違うのです。
●悟りは見切りでもある
宇宙・森羅万象の元の元である、わたしは在る、という純粋な気付きが、世界を現し、そしてその世界を無限の視点から眺めるための最高の視座、人間を顕現しています。今多くの人々が体験している生と死、輪廻、カルマなども、もうそれを見切ってしまう勇気も必要でしょうか。
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悟り自体に執着することも、また悟りにならないことです。なにか当たり前の自分や他の人達、世界のありのままがそのまま「悟り」であると思えます。ただ感謝せずにはおれない感覚は「それ」です。
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天真に任す (てんしんにまかす) 良寛
本当のあるがまま、自然のまま、あたりまえのことだ。
一切有為法 如夢幻泡影
(いっさいのういのほう むげんほうようのごとし) 「金剛般若経」
この世のことは全て実体なく「空」である。その「空」を知るものはだれか。