気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

波動で構成された諸世界

2008-08-01 08:27:39 | 宇宙的気付き

 自分の経験では、夢という状態、その中でも顕在意識が部分的に働いている状態での映像体験が良くある。場合によっては、銀河の向こうや、あちらの世界?にも瞬時に居ることに気付くような、とてつもなく自由自在な形態もある。これはなんだろう、単なる夢なのだろうか・・と考えていたわけだが、今はある程度その仕組みが理解できそうだ。ヒントは波動という森羅万象の元にある存在形態であるとも考えられる。夢に限らず、現実の五感感覚主体の生活自体も、同じような波動の存在形態の体験の一部であるというのが、おそらく当を得た理解ではないだろうか。

●夢の映像と現実の映像

 夢は毎日見ているが、その多くを忘れてしまう。それは多分に夢というものを、どうということもないことであるとか、突き詰めれば、所詮脳内物質の反応でしかないなどという、仮説によるものだと思われる。夢の体験では確かにそのような漠然とした感覚は誰にもあるものだ。漠然としたものを、そのままにしているのは、自分の心の働きに全く気付いていないからだ。そうでなければ、夢等を無価値なものとして、無意識に打ち捨てる生活はしていないと考えられる。我々は毎日の生活で、五感による視覚映像を見たり、音声や皮膚感覚などを確かに感じているが、夢の中でも映像や音声のような感受が出来るのはどういうことなのでしょうか。 それらの感受方式には全てに同質な、波動による「知覚」という真実があると考えられる。

●夢も現実も波動の感受である

 ここの記事で何度も出てきたように、我々は波動の世界にいることは妥当な判断だろうと思う。物質も究極は波動で理解され、光も電磁波という波動である。音声も空気振動という波動だ。もっとも堅個と感じている物質というものも、波動によって構成されているということが事実ならば、我々の身体を含むこの世界は、あまねく波動で成立っていると考えておかしくない。現実生活での五感で感受する刺激と、夢や変性意識状態で感受する刺激は、波動としての性質から見れば、実は同質ではないかと考えられる。

 現実生活の映像と夢や変性意識下の映像が果たして違うものなのでだろうか。 TVやラジオ、携帯電話、衛星放送なども波動の原理により、映像や音声を伝える事が出来る。夢での映像や頭の中でのイメージ等も、同じような仕組みではないかと考えて無理はないだろう。但しその波動が単に電磁波・音波などという、既知の波動とは異なるだろうというのは推測できる。我々の3D(次元)世界は、電磁波などで代表される波動帯にあるということであり、夢や変性意識、テレパシーや遠隔認識などは、それとは異なる波動帯によるものであるというアナロジー(類推)は、当を得た考え方だろうと思われるのだ。

●霊界と現実3D世界のちがいは、周波数帯域のちがい

 そう考えてみれば、今のこの認識空間も、実は我々の感覚での受信周波数が、ある波長帯に集中しているだけであるともいえる。FMラジオの80Mhz帯では、1つの放送番組しか聞こえないのと同じことだ。我々の主関心事が、この3D世界の諸現実にあるからこそ、その波長帯の映像、振動を体験しているのである。すなわち意識を集中=同調しているのだ。我々は、ここしかないと思っているがゆえに、この世界にフォーカスしているとも思われる。我々が、かつて産道を通って生まれ出て来るときに、この3D世界、このフォーカスレベルへの意識の自然な同調過程を経てきたのだろう。

 私が自身が個人的に体験することで得られた、様々な夢映像や感覚、ちょっとした新たな認識や気付きなどは、夢を覚えていよう・・と意図したことことがもともとの原因であり、その結果、いつも肉体五感で感受している周波数帯域を、少しばかり広げたことになったのだと思われる。夢など無価値と考えていれば、その夢からの感受など、ことごとく忘れてしまうのも当然なのだ。長い間そうのようであり、多くの人々もそうであるに違いない。気がつかないということは、眠っていると言うこともできるだろう。意図・注意等しなければ何事も現れることはない・・意識原理がここにもある。

 実は超意識、潜在意識では自由自在のようであるが、顕在意識に気付かせなければ、この世界への顕現化が出来ないことになる。潜在から顕在へ、未知から既知への行為は創造と同じことであり、人間の行なうべきものである。そのためには「同調」という言葉には何か大きな意味がありそうだ。同調、共感、アクセス、・・愛なども同じ方向の意識と考えられそうである。

●こころによるチューニング

 夢はそのままでは、多くの人々がそう感じているように、実にあやふやな場合が多いが、夢そのものを意識してゆくに従い、その夢・情報という映像・音声・感覚等の中の、粉飾部分と真実部分が判定できるようになるだろう。そのためには、その仕組みをおぼろげながらでも理解していることが大切である。

 すなわち、どれが自分の心の投影物か、どれが真なる情報かを判定するには、自分のこころの働きというものを出来るだけ認識していることが重要なカギになる。自分の思考・感情等を理解して選別等が出来なければ、場合によっては支離滅裂な映像の断片になってしまう。それは、あたかも知らず知らず草ぼうぼうにしてしまっている沃野のようであり、その中を迷ってしまうようなものだ。広く見渡す為には、常識という壁の向こうを見ることができる、1段高い意識、見識が要求される。

●夢は高次領域への窓

 例えば地震予知や将来の出来事なども、事前に「夢」や「なんともいえぬ感覚」で予知することがある。現実に起きうる出来事の青写真も、実は高次ともいえる周波数帯にあるようで、今はまだ不可思議な過程を通じて、その振動数を低下させる事により、次元を降下して現れてくるらしいことも理解出来るかもしれない。  物質的な3D世界では、五感感覚によって周到に用意された感受作用で非常に判りやすくなっており、たとえ自分のこころが如何様にあろうとも、五感による存在感そのものは微動だにしないようだが、少し違う波動域では、我々の意識作用であるこころのあり方が、その世界認識を決定する傾向が大きくなっているようだ。言葉を変えて言えば、こころの働きによって感受される波動域がはっきりと異なってくるようであり、あたかもどのような周波数帯に同調するのか、ダイアルを廻すのに必要な責任や習得すべきスキルが増えてくるような感じがある。

●波長域の異なる様々な作用  

 世界の国々等では、ESPやリモートビューイングなどもかなり認知されているが、これも当たり前といえば当たり前と考えられる。他国の軍事機関などが採用していると言うことは、情報収集の決め手でもあるかもしれないということであろう。実際に過去からの一見不思議な現象を捨て去ることなく、科学的な集積や統計を元に検討してみれば、人間本来の能力であると考えることが自然な解釈となるだろう。尚、その能力を扱うにはそれなりの訓練が必要なのであるが、本来、軍事情報など、現実世界での隠された他人の情報を垣間見るのを目的するのではなく、「人間とは何か」という、今思い出さなければならない真実への、1つの開かれた窓であると認識することが大切だ。それらを扱うには、絶対的な必要条件として、自分自身のこころの働きをしっかりと観察できる「意識」を持たなければならない。  つまり広い意識を持たなければ、ESPなどから得られる新しい情報には対処できないわけであり、狭い利己的な了見で間違って使えば、その効果は必ず自分達に戻ってくるだろう。

 なおリモートビューイングやモンロー研のヘミシングも、意識周波数の変調を元にした次元間の情報取得や世界への一時的な移行であろうと考えられる。これらは意図的なトライアルであり、逆に夢の多くは偶然のものであるということだろう。

●こころは単に同調器

 身体も、こころも一時の生命・意識の表現形態であり、マインドとも言われる。マインドを自分と思っている間は、それから目を背けるかもしれない。あまりにもコロコロと動き回る感官のこころに同調せず、それをツールとして観ることが大切だ。マインドはあなた自身でなく、与えられているものであると気付けば、それをしっかりと観察できるはずだ。  いつもいそがしく動き回るマインド、それはパラボラアンテナのようであり、感官の作用と反応、すなわちマインドを自分自身と勘違いしてそれと一体となり目を回すことで、不快になっている自分自身に気がつくだろう。

●こころ・意識作用を現すのは、永遠に在る「わたし」という気付き

 色即是空、色は無限の現れであり、空は空であるがゆえに全ての根源であり、それを統合するのは、わたし、という気付きと言えるだろう。そのわたしという根源的気付きは、それでも、何層ものレベル次元にわたって1つ貫かれている実在原理といえる。

そう、生きとおしなのは、「わたし」であるからだ。

 Nature2003

 

 

 

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(「わたしは在る」 ニサルガダッタ・マハラジ  より

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私は映画のスクリーンのように明白で空っぽだ。

画像はその上を通り過ぎ、明白で空っぽのままの状態を残して消えていく。

どの点においてもスクリーンが画像に影響されることはない。

また、画像もスクリーンによる影響を受けはしない。  

スクリーンは画像を遮(さえぎ)り投影する。  

スクリーンが画像を形づくるのではないのだ。  

それはフィルムと何の関わりもない。  

フィルムはフィルムとしてひと塊(かたまり)の運命なのだ。  

だが、私の運命ではない。  

スクリーン上の人びとの運命だ。

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あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついている。  

すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。

この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。  

それ以外何も存在をもってはいないのだ。  

これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。

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