この世においてもお互いが深い付き合いのある人々は、
魂レベルにおいても深い絆(きずな)がある場合が多い。
それはまるで人生という総合演劇の出演者たちが、時間・空間の異なった人生においても、様々な別人格、別の役割を担って登場するようなものである。
そういう人たちを「魂のファミリー」といって良いだろう。あなたにもこの世の現実上の親兄弟・親戚などがいるように、はるかに広範囲・歴史・時間を越えたレベルの、魂における親兄弟・親戚・近親者・親友・盟友なども存在しているのである。
・・・
下記は、臨死体験において、神秘的存在、あるいは亡くなった身内や友人など、他者に遭遇する体験告白である。
・・・「臨死体験 9つの証拠」(ブックマン社)より抜粋 p18~
「ほかの存在や人間に囲まれていた。見覚えがある気がした。家族や古い友人のように、遥か昔から一緒だったように感じた。霊的あるいは魂の家族とでも表現すれば良いのか、人生でとても大切だった人たちと、長い間、離れ離れになったあとで再会したみたいだった。みんなおたがいに愛と喜びを爆発させた。」
「目には見えなかったけれど、父がすぐ横にいた。姉もすぐ近くにいた。左側だったと思う。ほかの家族もいたが、もっと見ることは出来なかった。姉や他の家族は左側だった気がする。姉と父以外ではっきりわかったのは祖母だけ。ほかにもいたが誰だかはっきりしない。」
「母と娘の声が聞こえた。娘は亡くなった当時、まだ2歳くらいだったが、聞こえた声はもっと成長したものだった。ふたりが私の名前を呼んで、体が空気の流れの中を進むように素早く移動した。風にさっと運ばれたように、一瞬すごく明るい光が見えたと思ったら目の前にビーチが現れ、やがてそこに母と娘が立っているのが見えた。娘は成長した姿だった。」
このように、、「他の存在に遭遇しましたか?」という質問に、57.3%が「はい」と答えている。死者との遭遇は、友人や恋人ではなく、ほとんどが身内だった。中には、見覚えがある気がしたがあったことのある人かどうか、定かではなかったと語る体験者もいる。そのうち何人かは、臨死体験から生還後、写真などで死んだ身内だったと確認できた。体験者が生まれるよりも何年も、ときには何十年も前に亡くなった身内だと判明したケースもある。
・・・
この3次元世界でもどんな人にも、人と人とのつながりがあるように、
時空を超えた魂にも、家族、ファミリー、縁故、繋がり、ネットワークと言っても良い集合体が存在しているということだ。
魂という存在は単発・単独なんかではなく、膨大な集合形、いわば集団を形成している。
これを”霊団”などと呼ぶ人もいるし、ロバートモンロー(ヘミシンクで)は、I THERE:向こうのわたしたち・・と呼んでいる。
魂の仲間たち・ファミリー達は・・・もちろん赤の他人の集団ではない。
赤の他人どころか、自分に最も近しい存在ばかりの集団である。
自分に最も近しい・・とはどういう意味だろうか?
もう一人の自分、またべつの自分、別バージョンの自分達と言っても良いだろう。
・・・
自分:わたし・・のことを「肉体個人」であると認識している人にとってはまったく理解できない。
自分を魂・意識であり、物質・時空を超えた存在であると認識している人にとっては、ある時、ある場所、ある時代の自分も、過去の自分も、今の自分も・・、究極は・・別人格の赤の他人も、あるいは無数の別の自分という理解も可能であろう。
つまり、赤の他人様も・・本源においては・・わたし・・なのである。
そして、そういう少しづつ、あるいは大幅に異なったわたしたちの集団は、それこそ無限・無数に存在しているということになる。
・・・
そういう意味で、仏画、曼荼羅絵図は、実際にはその魂のネットワーク図を示しているといえるのである。
魂の集合団は多次元に渡った集合形を成していて、その中には、極めて高次の魂から、発展途上の幼い魂まで存在しているようである。
それらの魂のファミリー・集団は、多次元レベルにわたって、部分集団をも形づくりながら経験・転生しつつ、個々の魂の経験を蓄積しつつ相互に霊的進化をしているのである。
根源・創造のもとは・・ただひとつであるから、それらの魂の集合形、霊団、多次元的ファミリーは、
それぞれのわたし・・を中心として・・気付ける限りの高い次元から低い次元までの無数の<わたし>の集団とも言えるかもしれない。
わたしとは、究極では無数のあなたでもあるわけだ。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます