あなたは例えばこの世界を、今どう観じているだろうか。
ところで、
あなたやわたし達が魂であるならば、まさに永遠に属するところの魂にとって、
いったい全体、学ぶことが必要なのか?という風に感じるかもしれない。
いわゆる神や根源意識なる「それ」は、全てを知り、全てで在り、全てを為し得るのであれば、どうして今更「学ぶ」あるいは「進化」等ということがあるだろうと、いぶかしむかも知れない。
全知、全能、遍在のものが、例えばどうしてわざわざ個別の種にその身をやつし、自らを窮屈な土の中に投じてのちに、無意識の意識から成長を始め、再び日の当たる世界で目を覚ますようなことをするのだろうか。
例えばこの世界に生れてくるようなこと、
どうして何もわからず、何も知らぬ無垢な赤ん坊に生れ、そして分けもわからずその所作の行き着く結果もわからぬ大勢の人々の中で、ある時は叩かれある時は揉まれる経験をしたいと思うのだろうか。
どうしてわざわざ無明なる世界で、光を求めて動き回る人々で満ちた、このような世界に生れてくることを体験しようとするのだろうか。
理知的な人であればあるほど、
この世界の明らかに愚かな有様に気付きつつ、どこか厭世的な気分になりながら、さっさと滅んでしまえば良いのにとも考えることもあるだろう。
どうしてこんな歪(いびつ)で、それこそ生きにくい世界が存在しているのだろうかと悩む時もあるだろう。
しかしながら思うかもしれない、・・・・確かにそれには意味がある・・と。
・・・・
そうやって、どんな意味があるのだろう?と意識的に、あるいは無意識的に思案しつつも、目先の生活に追われているようなものなのだが、
そうした自らの生活に追われ追われて人生を経てゆくことで、この世界が嫌々ながらも病みつきになる魂たちが多く出ることになるのが常であったようだ。
嫌なのに・・病みつきになる・・とは一体どういうことかと言えば、
重い身体を持ち、混乱した思考に周りを囲まれ、ざわめく外の人々の慣習に内面から縛られることで、無知と不自由さの中に埋没するということだ。
人々の乱雑に発するところの思考と行為の中に埋没するということだ。
極限された集団思考によって、いわゆる3次元と4次元の間で閉じ込められつつ、まさに浮いては沈むような生と死の繰り返しを演じることになる。
これはすなわち、光の僅かにしか届かない地のなかに自らで「種」を撒くということなのである。
そうして無知がゆえに行ってしまうような、自らの愚かな行為によるカルマの反動をも繰り返し受けながら、幾多の生を生きては死に、それでも次第にようやくその行為と結果の関係が理解されてくるようになる。
まさに、そういう世界では『人生』とは、何十回、何百回の『生』と同義なのである。
いわゆるムーの時代あり、アトランティスの時代あり、エジプト、ペルシャの時代あり、・・・
古代中国の時代あり、名もなき幾多の砂漠や山岳の民の時代あり・・・
あるいは生と死の狭間の時代あり・・・・・。
実のところは、こうして我々魂たちは時間空間を超えて、自由自在にあらゆる時代あらゆる文化文明を体験をしているのだが、多くはそれに気づいていないということでもある。
あなたはどうだろうか。
なるほど、無知・無明から始めるが故に、この地の世界を卒業するための人生など1度きりで収まるものではないのだが、あろうことかその無知なるがゆえに、人生は1度きりだその都度考えていることが多いのである。
しかしながら、カルマで生成される幾多の人生を繰り返しつつ、その繰り返し自体の御蔭でその幾多の人生を経てきた自分に、いつかどこかで苦笑しながら気付くことになるだろう。
次から次へとこの世界に希望しつつやってくる無数の魂たちの、楽しくも・陥ってしまったところの、相変わらずの無知と無明の思考の群れに遭遇しつづけ、やっとのことでそれに『飽きる』ときがやってくる。
なるほど、この世界での無知なる自己の有り方にもどこかに意味があるとしていたからこその幾多の生であったわけなのだが、
そこには実はどんな意味も無かったという気付きに至る瞬間である。
どんな意味も無いとはどういうことだろうか?
それは意味や意義を最初に求めるような思考や観念に依らず、否応なしの幾多の経験・体験を経て初めて醸成されるものということである。
魂の学びとは、思考によらず、観念によらず、
まさにそれは経験を経なければ醸し出すことが出来ないことなのだ。
またそれは撒かれた種が、暗い土の中の養分を吸収しつつ、ようやく陽光輝く光の世界に這い上がってくるようなものなのだ。
地球という学び舎はそういう特殊なところであるともいえるだろう。
なるほど、不自由な身体と極限された混乱した思考に満ちた世界であったこの地、地球は大きな、土・地の球体世界である。
その有限球体の地は、魂たちにとっては実に得難い学び舎なのだ。
時間空間を遥かに超えた魂存在が、わざわざ狭い時間空間に捉われるような、極めて特殊な経験をすることが出来る<場>とも言えようか。
その為にこそ、赤子のような無知から始めなければならないわけである。
赤子は無知や無力であるがゆえに可愛く、そのあどけない笑顔のなかに穏やかであるが無限の可能性を感じさせるはずである。
あなた方もわたしもそうやってきただろう。
私は誰? ここはどこ? さえも思い至らぬ状態から始めるわけである。
そうしていつか、
わたしとは何か?
どこから来て、どこに行くのか?
今、何をすべきなのか?
・・・という疑問符が生じてくる意識に至るのだ。
それは、意識せざる『意識』から、
意識せる『意識』へと変移を遂げたということでもあり、
あるいは夢遊のような無責任で無自覚な、あなたまかせの無意識から、
『わたしは常にわたし』であるという自覚的な意識に至ったということだ。
多分あなた達もそうだろう。
自らが撒いた種、あろうことか自己の一部をこの地に自らで投げ入れて、
そこに意識を持ち来たり、その自らの地を這うような苦楽と静と動の体験と経験を通じて、
再び自由自在な<われ>を思いだすような、全くあり得ないような学びが行われてきたのだ。
・・・
そういう生々しい学舎である地球を安易に「悲しみの星」と言うなかれ。
なかなか気付かぬ人類という幼子の群れを長く受け入れることは、
まさに母なる大地にしか出来ないことである。
地球、それはまさしく幼き魂達の為の、あり得ないほどの愛に満ちた学び舎にほかならないのだ。
学び舎における何もかも、
物も財産も、名誉も権威も、肉欲も、情も、嫌悪も、憎しみも・・・・・・
ただ、一時(いっとき)の学習教材なのである。
そしてそれらに対するこだわりと執着も、元々は持っていなかったものである。
人は皆本来、自由自在の高みを謳歌するまでに至った魂の同胞(はらから)なのだということに、あなたも気付けることだろう。
この世界には幼子は実に大勢いたとしても、憎むべき奴らや他者などいるわけも無く、
宇宙においても、さらに大きな世界であっても、ただ有るのは、
それぞれの視点の、そして様々な段階での<われ>または<わたし>なのである。
そうして、
この荒い荒い、物だ金だと言われる世界においてこそ、
執着も偏執もなく、ただ淡々と生きたことがあるとするならば、
嗚呼、それは何という得難い経験となることだろう。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。