気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

夢の話(1) 潜在から顕在へ

2012-08-05 14:37:38 | 宇宙時代の考え方

たとえば夢とは何だろうか。

 

ここで言うのは、「夢があって良いですね・・・」とかいう夢でなくて、いわゆる寝ている時に実際に観るものである。

 

一般に言うならば、肉体が活動していない状態での、意識上の経験のことを「夢」と言っていいだろう。

 

夢は確かに日常的な物的反応を主体とする現実的経験ではない。

 

しかしながら夢を観ている自己の自覚、あるいは観ていた記憶など、『意識的な働き』や夢の対象があるわけであり、そういう意味で夢は意識上の<経験>であるということだ。

 

なるほど、夢は往々にして、時にハチャメチャで意味不明の展開ストーリーや、ちぐはぐな断片的映像や思考や感情で構成されているように見えるだろうし、

 

夢等は価値も意味もない単なる就寝中のランダムな脳活動とでも思っている人も多いだろうし、また夢自体をほとんど覚えていないという人も多いかもしれない。

 

たまに夢の内容を憶えていても、それが現実生活でのような、わかりきったストーリー性や、因果関係などが明確でないランダムなビジョンやイメージの繋がりのように感じるかもしれない。

 

要は、現実の生活とは無関係の、制御されない単なる脳内活動を<夢>としてカテゴライズしているだけであるということだが、

 

それはまた、物的経験以外は意味のないことであるという先入観念にすぎず、またここにも、人間は単に物質の有機的に集合した肉体でしかないという、謂わば3次元物質としての集団的な自己暗示、自己規制が暗在していたのだ。

 

それはどういうことかと言えば、夢を単なる無意識的な「脳内活動」であるとした漠然とした観念が行き渡っているということである。

 

あなたはどうだろうか?

 

ちょっとわかった風な科学的解釈?それを比喩的に言うならば、夢を観ていることなどは、まるでコンピュータ(脳)がそこにあって、そのコンピュータの中で電気信号が回っているにすぎないというような認識が常識的な見解となっていたということだ。

 

当然ながら、人間の無意識下のランダムな「脳内活動」の結果が夢であるという、一見常識的な自己限定思考によって、確かに夢は夢としての位置づけでしかなかったのだろう。

 

これらもある意味で低位の集合的な自己認識による共通現実である。

 

共通現実というのは、皆でそうだと・・あるいは集団で思いこむことで現実を造り出しているということである。

 

創造は自己認識であり、すなわち自己の想いの現象化であるから、その通りでしか顕れようがないことになる。

 

また多くの人は肉体活動の休止している状態を、何もない状態とボンヤリ位置付けてしまっているために、意識の働きには間違いないところの「夢」から有意味な情報等も得られないということでもある。

 

肉体が活動している時の意識、それを「顕在意識」というならば、その「顕在意識」とは人間が起きている状態での、五感の働きを通じた「意識の働き」であるわけで、これに対して「夢」というのは潜在意識での働きということである。

 

つまり顕在意識とは、五感のセンシングを中心とした意識の働きであるということであり、日常の起きている時の生活全般がその顕在意識で回っているといっても良いだろうし、またそれに対して夢は潜在意識が中心となっているわけである。

 

五感での感受を「情報」の感受とするならば、我々の顕在意識での生活全般は、主に見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる等の五感、謂わばそれも極めて限られた振動数帯域の情報を身体が感じとり、身体細胞や脳細胞がそれらの情報処理をしているということでもある。

 

それらの身体細胞の情報処理の結果が、・・・見た、聞いた、嗅いだ、味わった、触れた・・という経験になるということだ。

 

また、それらの経験に関して起きる自発的な高次の『意識の働き』すなわち認識の働きが生じ、様々な経験について何か・・思った、感じた、考えた・・という思考や感情等が生じるのである。

 

つまり、日常においては、五感の情報の取得の様々な組み合わせと、それらに対する様々な顕在意識的な<認識>が起きているということである。

 

・・・

一般に夢というものは、あるいは夢に限らず、体が眠っているか五感が休止している状態での『知覚』に関しては、通常の肉体の五感情報を経由しない・・・直に、内面に発生する様に見える脳内活動の様相を呈しているわけであり、

  

例えば夢などもあまり価値も意味もない、単なる偶然の脳内活動であるとしている理由はここら辺にあると思われる。

 

五感が直接関与しない脳内活動など、単に心理的なもの、意味のない偶発的なものと考えるわけである。

 

・・・・

ところが、五感情報を元にしないダイレクトな情報の授受、直感認知あるいは常識では考えられないような遠隔での知覚等が存在していることは間違いがなく、非公式ではあるが各国レベルでは盛んに研究されているのも事実である。

 

テレパシーや未来予知や遠隔知覚、リモートビューイングなどは実際に非公式でありながら間違いなく研究段階や試行や実践段階にあるのだ。

 

要は、五感というものを経由しないダイレクトな情報の受信と発信は現実に存在しており、一般常識ではすぐに受け入れられないことと合わせ、その多くが極秘に情報を収集するという軍事的な目的にも関与しているために、非公式という隠れ蓑を着ているのである。

 

またそれらが未だ公になっていない理由を善意的に解釈すれば、

 

それらは完成された研究課題でもあり得ず、また意識に関する事象を扱うがゆえに主観的な要素が大きく介在することで、数字や計測的な客観説明が困難である傾向があることも非公式下で進めざるを得ない理由かもしれない。

 

肝心なのは、そういう<常識>範囲外の、直接的な情報授受、コミュニケーション、知覚などが、何処か遠くの無関係な事象であるということではなく、明らかに我々の身の回りにある事象であるということなのだ。

 

それは断片的であっても実際は誰でも経験していることであるが、常識という無知によって偶然の出来事と思いこんだり、あるいは全然気付かない場合もあるだろう。

 

テレパシー的、シンクロ二シティー的といわれるような体験もそういう五感を超えたところで起きる直覚知がベースにあるわけであり、五感を超えた知覚というものに気付かなければ、それは存在しないということにもなるだろう。

 

例えば、

 

夢で見たような感じの出来事が日常で起こった。

 

ある情景、状況が以前どこかであったような不思議な感じの体験。これはデジャビュー(既視感)などと呼ばれている。

 

ある時誰かのイメージが不意に湧いたと思ったら、数日後その人と合うことになったとか。

 

カレーが食べたいと「ふと」思うと、大体の場合晩御飯がカレーだった・とか。

 

今日はなんだか嫌な日だなと感じたら、その日は仕事でさんざんだった・とか。

 

地震のことが急に気になったら、数日後地震が起きた・とか。

・・・・

実際には、数え上げればキリがないほどあるのだが、それらに気づいていないとか、あるいは自分のこころ、即ち自己の内面をほとんど観ないような人々は、そのような事象があることさえも知らない場合があるわけだ。

 

ここが肝心なところであろう。

 

要は、気付いてそれを認めなければその事象は身の回りに顕現して来ないということだ。

 

すなわち認めなければ顕在化して来ないわけである。

 

ここにも観測者の行為によって観測対象、あるいは現象の挙動が変わるという、あるいは認識によってそのものが顕れて来るという、謂わば意識的な創造の原理・原則が適応されるのである。

 

本当のところは、要するに<認めないものは現われない>ということだ。

 

ここで注意すべきは、一般にはこの逆で 「現われないから⇒認めない・・・」 としていることだろう。

 

また本当のところは、<知らないものは見ること(知覚)が出来ない>ということなのであり、

 

同じく、一般常識ではその逆の 「知覚できないから⇒知らない」 としていることなのだ。

 

簡単に言えば、超感覚的に知る・知覚するということは『積極的』な意識によって起きることであり、待っていて何もせずに知ることのようなものではないということである。

 

これは厳密に言えば、勝手に想像することがそのまま現われるというわけでもなく、何かに意識を向けることによって初めてその先に対象が知覚されるということであり、

 

超感覚的な知覚では、簡単に言えばレーダーと同じく、意識的サーチに依らなければ対象は認知できないということである。

 

妄想の類とは全く違うところの、意識的観察による事実の直覚的知覚のことである。

 

至極当たり前であるが、なかなか気付かない根本原理である。

 

またこういう五感を経由しないダイレクトな情報の授受などは、昔からしっかりあったわけであるし、今更科学に遡上させてあーだコーだという事もまさに遅きに失したようなものである。

  

やはり多くの場合が肉体活動次元の五感情報やそれにまつわる思考にフォーカスしていて、それに終始してしまっているということである。

 

これはある意味で、それに気付かずに3次元的な制限された観念に手足を縛られているということでもある。

 

目が覚めていて肉体活動している間が、現存在の全てであると思い込まされているということでもある。

 

言葉を変えれば、表面意識、顕在意識のみが<わたしの意識>のすべてであると思いこんでいるということでもある。

 

今は誰でも知っている用語であるはずの「潜在意識」については、とんと無頓着を決め込んできたのだとも言えるかもしれない。

 

潜在意識は文字通り「潜在」であり、「無」ではない。

 

実のところ、潜在意識を<顕在化>させることが「意識の拡大」なのである。

 

ある段階までは膨大で複雑で、ある意味で多次元的な潜在意識を知ることによって意識が拡大するということも言えるだろう。

  

現状結果に不満たらたらでありながら、あいも変わらず外の世界を血眼になって追跡・追従するだけ、あるいは自己の可能性を見ようともしないあり方は、

 

それは自分の直下を掘れば湧き出すような豊潤な地下水脈がありながら、カラカラの砂漠の上で水をいつまでも求めるようなものである。

 

私自身も以前はそうであったのだが(笑)、夢などは全然見ないと豪語している人々は日常生活が忙しいと誇らしく?表明しているようなものでありながら、

 

また違った観点からいえば、世界という現実に埋没しつつ、自らを単に3次元的肉塊であると無意識的に決め込み、本来人間が進むべき意識の拡大に気付いていないのかもしれない。

 

例えば夢というものを考えてみても、現実といわれる世界でそうであるように、同じく自らの『意識』の経験の一部であり、そうであるならばその夢にも気付き、精査する必要があるはずだ。

 

違うだろうか。

 

ところで、

 

また、「夢」とは潜在意識を読み取り顕在化させるための無意識的行為の1つであり、謂わば無意識・潜在意識における意識行為であり、それは時空を超えた知覚を含んでいるのだ。

 

また同じく夢のような無意識的行為ではなく、こころで制御された意識的な行為がESP等と呼ばれるダイレクトな情報取得なのである。

 

遠隔視、リモートビューイング、確率予知、シンクロ二シティを生じる思念の同時共有等は、ひとまとめに言うならば、ごくわずかな表面意識でないところの、膨大な潜在意識の働きを『顕在化』させたものである。

  

意識の拡大とは、ある意味では情報取得の拡大でもあり、その情報によって自己認識の深化、理解、拡大、進化が可能になるともいえるだろう。

 

自己認識の拡大とは、自己の拡大であり、自己の拡大とは大いなる<わたし>への拡大とも言える。

 

我々がフォーカス、あるいはアクセスすべきは、実に未分化の潜在意識の方向であり、すでに現われた顕在意識の様々な群れ、即ち外の世界の現象の方ではない。

  

我々がこれから真剣に注視すべきは、実にそれぞれの<内面>と言われる方向である。

 

ここまで述べたごとく、内面は外面にメビウスの輪のように繋がっているといえるからだ。

 

往々にして、内面のアクセス、あるいはこころの注視等が非活動的であって価値がないとか、非生産的で無意味であるとかのイメージがあるかもしれないが、

 

それこそ大いなる誤解・誤認であり、ここにも物だけに価値を付与するような3次元的な刷り込み観念があるわけである。

 

例えば、コンピュータを修理するのに、大声で走り回るだけでは到底修理できないだろうし、本体を激しく叩いたりあるいは飾りつけても決して直せるものではなく、

 

ただ静かに、その中身を精査し、プログラムの間違いや書き換えやあるいは壊れた微小部品を交換するようなものである。

・・・ 

 

意識的存在としての人間は、現象の因たる意識の働き、内面の思考、感情を注視しなければならないということだ。

 

思考、感情、想いの生ずるところの<わたし>自身の「意識」を観ることである。

 

超古代からある、瞑想やあるいは座禅、内観等は、そういう自己の依って立つ自らの意識を注視する宇宙で普遍的な意識的行為なのである。

 

毎日毎日そのチャンスがある就寝中の意識の経験ともいえる「夢」も、決しておろそかにすべきではないはずだ。

 

一見意味のなさそうなランダムなビジョンやイメージで構成されるような夢にも、実はその中に極めて高度で複雑なメッセージ・情報が含まれている。

 

夢は、それぞれの自分自身にちょうど合致した、その時その時の魂の拡大・進化の為のメッセージで満ちていることがわかるだろう。

 

夢は肉体レベル、あるいは狭い3次元的周波数帯域を超えたレベルでの意識の経験を顕在意識によって翻訳・意訳したものと捉えても良い。

 

例えば夢も・・・、それをどうとらえるか、どう変換するかは我々の「マインド」こころの働きに全て依存しているのである。

 

今はもう、

まず自らを理解することが世界を理解することになり、決してその逆ではないことをその旨とする人類の時代がきた。

 

意識の進化・拡大により、結果情報処理や記憶等を司る生体組織あるいは遺伝子といわれるDNA構造も必然的に高度化してゆくことになるのが道理である。

 

ただ・・生存のみを目的としつつ、外の現象世界をその表面レベルでいじくり回し、そのプロセスで得られる儚い物質的成果物の蓄積を旨とするような今までの3次元的な表層世界はその役目を終えたのだ。

 

なぜならば、より多くの意識的存在達が、その意識のフォーカスレベルをより広くより多次元的なものに広げてきたからである。

 

この世という世界、日常といわれる世界、あるいはこの3次元世界は、実は多くの次元を含んだところの、広く・深く・大きい世界の表層でしかないのである。

 

そして「意識」とは、その全てを貫いているところの根源の気付きといっても良いかもしれない。

 

例えばあなたもその意識的な気付きなのであり、意識のレベルはそれぞれ異なっていたとしても、鉱物も花も動物ペットや空も大気も、なにもかも全てそうである。

 

それがまさに基本中の基本ではないだろうか。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。