太陽に行ったという、人によってはまるで意味不明で全くどうでも良いような、夢のような夢でないような個人的な体験話の後半である。
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私が「太陽へ行こう・・・」というある意味で不埒な?意図をもった瞬間に、
・・・すでにもうどこか違う雰囲気の世界にいることに気付いた。
その世界での視界はずいぶんと薄暗く感じるのだが、これは謂わばわたしの意識の眼のフィルター・あるいは翻訳機能の未熟さによるものだと思われた。
私の場合、俗に言う霊的視力あるいは眼球経由の視覚映像でない知覚、あるいは言われるところの松果体レベルでの直接視のような場合には、あたかも白黒の映像のように見えることは以前からの自分の経験で知っていたからだ。
いわゆる<内面で直接観る>というような感じの視覚認識である。
世間に五万とあるようなアイフォンや携帯電話のような明確なフルカラー映像でないのは、自分の意識上の<知覚フィルター>が未熟なせいなのだと思われる。
あるいは、周波数同調が慣れないために「同調が今一つ」であるとも言えるだろうか。
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そこは巨大な切り立った山岳地帯?のような雰囲気であり、またそれら山と山の頂きの間には何か大きな放電現象のような、エネルギーの橋渡しかあるいは弧を描いたようなものが起きていたようである。
ここは一体どこだろうかと一瞬思ったが、行こうと意図したところは太陽であるはずなので、やはりそうに違いあるまいとも思った。
私の視点は、まるで音のない超音速ジェットのように太陽?内の時空を自由に滑空・移動していたのだが、
そのうち 「あれれっ・・・なんとなく場違いなところにいるのでは?」 という通常感覚が頭を持ち上げて来ていた。
こういう時には、大体肉体意識が目覚めかけていることを示している。
つまり変性意識状態から、日常の顕在意識の方に移行し始めているということを示しているのだ。
要は睡眠状態から覚醒状態へとシフトし始めているということなのだ。
そうしている間に、例によって少し怖くなってきたので、そろそろ切り上げようという想いが生じてきた。
高速に移動するわたしの<視点>はあたかも人工衛星が1回だけ天体周囲をスイングバイするような形で帰還ルートに乗ろうという感じで動いていたのだったが、
ふと、太陽地表面と思しき辺りに意識を向けると・・・
なんと!大勢の人型の白いシルエットのようなものが見えてきたのだ。
人の形・・というか、人間のような存在形・・というか、そういう意識的な存在達が地表でこちらを見上げている (えっ?!)・・・そんな風景・ビジョンなのである。
「太陽に人のような存在がいる???そんなはずは・・・?」 とか何とか多少びっくり気味な衝撃も感じつつ、
早く帰ろうと焦りつつも移動しながら見える地表面とおぼしきあたりに、明らかに多くの人存在形のような者達が見えたのだ。
またその上、その全ての存在達がこちらに気付いていることがなぜかわかった。
そうして、それも・・・・どうも・・<手を振っているように>見えるのだ。
その手を振る仕草のような人型存在から伝わってきたのは、
根源からのと言うしかないような・・あるいは「慈愛のこころ」のこもったと表現するしかない・・・・・そういう波動感覚であった。
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その時感じた想いは、良くいわれる<無条件の愛>としか言いようがない、極めて・・極めて暖かいものであった。
こんな重大な感覚は今までなかなか味わったことが無いような、ハートの根本からの感覚・・とでも言おうか。
それは、そう・・・まさに、無条件の愛・・・という表現がふさわしい直接的な感動波動のようなものだったのだ。
太陽は灼熱ではなく、実は暖かかった・・・等という「落ちの話」ではない。
・・・・気付けば・・・
いつの間にか布団の上で目が覚めている自分に戻っていたのだった。
大体、こういう意識の旅行?のような体験(夢)では、「行き」はなかなか突発的あるいは面倒なのだが、その反面「帰り」はほとんどあっという間であることが多い。
要は状況にもよるのだが、夢以降の謂わば多次元的?なレベルの意識状態から普通の意識、即ち顕在意識、あるいは肉体意識に戻るのは「あっ」という間であることが多い。
そうそう・・それが単に夢の証拠だよと言われそうだが、夢の全てがそうではないことは自分が感得・察知するしかないのも現状である。
前回で提示したように、夢を良く覚えておくような経験のある人ならば、夢とはそれが何でもかんでも夢というフェーズで片づけられるものでもないこと、
夢⇒明晰夢⇒体脱現象・・そして次元間の意識的遷移・・というような謂わば多層に重なった次元とも言うべきそれの微妙な質的違いがわかるものである。
なるほどこれは実際経験してみなければ、なかなかわかるものでもないし、多分これは<意識>が時間や空間という一種の物理的エネルギー形態を超えていることから来るものだろうと思われる。
そういう意識的経験、あるいは内面経由と言われるダイレクト情報の取得等も、潜在意識の造りあげるところの特殊な夢だということで片づける思考に終始する人もいるだろうが、
しかしながら、何でもかんでも単に夢と片付けて終わりでは、決して本来の科学的な精神とは言えないと思うし、
それに気付かなければ、その時々の魂レベルでの肝心な何かを見逃すことにもなるだろう。
元来人間は、物を造り、物を集め、単にあからさまな物質的な人生を生きて、そして死ぬためだけに存在しているわけではない。
言わずもがなであるが、あらゆる物事の根底には、気付きや進歩や成長や進化と言われるものがあるのだ。
それは巷で謂われる競争や闘争などでは毛頭あるはずもない、一見困難に見えることの中からも蓮の花が咲くような、無理なく、自然な、当たり前の、嬉しく、楽しい花道を歩くようなことなのである。
意識が拡大するということは、すなわち意識での知覚がより大きな周波数帯域をも含むようになるという事でもあり、良くいわれる魂意識の振動数を上げるということにもつながってくるということである。
表現が難しいけれども、今言えるのは、夢も体脱体験も、そして遠隔知覚(リモートビューイング)等にも、
ある意識状態からある意識状態への遷移が介在することは間違いが無く、
またそれは意識~エネルギー~現象~知覚という存在顕現形式とその認識作用に他ならないのである。
我々の慣れ親しんでいる五感で感じる物質形態も、その存在顕現形式のベースにある波動周波数帯域のごく1部にしかすぎないということである。
そういう意味で五感経由であろうが、それを超える知覚であろうが、それはまさに意識の働きである創造およびその目撃・観察であるとも言えるだろう。
いわゆる常識を超えた、あるいは次元を超えたような現象も、
それは無いのではなく、
未だ十分に知らないだけなのだと考えることのほうがより合理的なのである。
我々は未だ宇宙の事を何も知らない赤子のようなものとこころ得るべきなのだ。
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ところでこの件で後で気付いたところでは、
その時のビジョンでの山と山の間の放電のようなものは、太陽で良く観測される黒点間のエネルギーの流れや、フレアーのような現象と裏腹にあるのかもしれないということだった。
なんとなく太陽の存在形態の一部を感じたことだけは間違いなさそうである。
また、古代から密かに言われ続けてきたように、実は太陽は冷たい、つまり灼熱の世界ではないということはあながち嘘でもなく、
それを表現をするならば、
あるいはやはり太陽も多次元層で構成されているるということだろうし、
我々が普段観測するような灼熱風の太陽は、単にその3次元的表層の姿であろうということだ。
そして、地球惑星圏という存在フィールドに我々という地球人がいるのと同じように、
また多分・・・「太陽人」?なる表現をすべきかどうかは別にして、太陽自体にも集合意識が存在するということではなかろうか。
常に何事も事実は小説よりも奇なり・・・なのである。
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翻って、我々の本来<自由自在な魂意識>そのものが、
架空の地球小説・あるいは造られた小さな観念の中に閉じこもっているのかもしれないということでもある。
ある意味で押し付けられた同じ小説ばかり読んでいることで自己幽閉に陥り、
あっという間の何千年何万年の時を過ぎ、すっかり近視眼的な魂の表現レベルに陥っているということはないだろうか。
例えば今回の記事のような、太陽に意識で行ったら太陽に人的存在がいた・・・というような、普通では明らかに一見荒唐無稽な話を、あなたはどう感じるだろうか。
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また、今回の話とはうって変わって地上的な話になるのだが、
あの「太陽」をあからさまに国旗にしているこの「日本」という国は、そういう意味では真に地上で唯一の国あるいは何かの雛型といって良いとも思うのだが、
それも単なる偶然で済ませてしまうのだろうか。
極めて穏やかではあるが、それを無条件の愛という言葉で言えば決まって軟弱とも揶揄され、誤解されるかもしれない、実は最も強力な光のパワーを発散させる国なのだと感じないだろうか。
常に自らが・自らで宣言するところの、日出ずる国とは、
本来すなわち、超古代と言われる時から伝わる自然との調和を元とする優れた叡智と慈愛の<光>を地球全てに発散させることの出来る意識の人々の多くいる国のことを・・・言うのではないだろうか。
太陽人?とは言わないまでも、日の本(もと)の人々・・・とはある意味でそういう人々のことではないだろうか。
なるほど、世相を観ずれば、・・
今はもう、何もかもが肝心な時に差し掛かってきたようである。
どこか世界の大勢の人々のこころが次第にざわついて来たことにももう気付いていることだろう。
これから人々は自ら自身をどう想い、どう自覚し、どう感じ、またどう選択するのかという、最大の問いかけが必要な、胸突き八町ともいえる時期に差し掛かることだろう。
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ただ覚えておくべきことは、意識的存在とは、すなわち、常にちょうど自らの意識で認識することをその体験とする存在であるということであろう。
人の意識も、そしていわゆる神なる根源の意識もまさに自己創造とその観察という意味では全く同質なのだということ、
ならびに創造は、実にそれが楽しいから<ある>のだということを忘れてはならないはずである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。