気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

幸せと人間

2009-05-10 17:00:46 | 心の力学

●幸せとは何か

 我々皆誰でも、また多分、意識ある存在すべてに共通する願いは「幸せでありたい」ということでしょう。色々意見が異なるといわれる、様々な個人であっても、これだけは共通したものです。人間は須らく、意識する・しないに関わらず、いわゆる「幸福」「幸せ」を求めていると言ってもてもいいのです。

 はたして、社会、国家、世界のなかで、「幸せ」でありたいと思わない人がいるものでしょうか。地球上あるいはその他の諸世界であっても、程度の違いはあったとしても、幸せでありたくないという存在はいるはずもないでしょう。

●誰でも幸せを求めている

 不幸の代表のような極悪と呼ばれる人々、自己欺瞞そのもののような性格や生活を経験している猜疑に満ちた人々、いびつ極まりない自己中心な行為をしているエゴイスティックと云われる人間達も、「幸せ」を求めているからこその、極端なその激しい思いと行動をしているものでしょうか。悪(ワル)といわれる人々も、善良といわれる人々も、その時々の自己を演じている、あるいは演じざるを得ない有様も、いずれにしても、「幸せ」を求めているからに他なりません。人としての表現の大きさ・小ささ、深さ・浅さに関わらず、それぞれが精一杯の自己表現をしながらも、どこかで「幸せ」を求めていることには変わりがないのです。

●条件付きの幸せが欲しい?

 現代社会の趨勢にあっては、いわゆる物質的な豊かさが幸せになる秘訣であると考えているかのようです。たしかに我々は、大なり小なり、当たるも当たらぬも、意識的・無意識的にも、そのような世の中に生きてきたのは否定など出来ないものです。

 人類の創造の結晶たる学問も芸術も、今では現世の利得・ゲインを得ることに特化されてきているようです。数学も物理も工学も、文学さえも、それを使っての現世利益(りやく)に結びつけることが、いわゆる経済的な「善」とも捉えられています。生活への努力には、必ず現世の利益がピッタリと付いてくるはずであり、それが本来当たり前であるということのようです。

 人生の努力が経済の利益になり、富として還元され、それぞれの個人の「幸せ」の手段となる「富や名誉」につながると考えているからです。

 「自分のやりたい事をやり、それでお金が儲かり、また有名になれば、それも「幸せ」だ」・・という考えです。これには多くの人々の賛同があるものでしょう。我々は、大なり小なりそのような、「成功」=「幸せ」の観念の中に浸かっていることに気付くのです。

 しかしながら、多くの人々の羨望の的である?権力者、富豪、セレブ、有名人、成功者といわれる人が、本当に幸せかどうかは、もう十分にわかりそうなものです。全てではないにしろ、そのような世間での成功を獲得したと言われる人達は、幸せどころか、表面のパフォーマンスを維持する為の、ある意味艱難辛苦の連続を経験していることに気がつくでしょうか。

 一見して正当?であると感じる、幸せ=物質的成功?の観念では、「・・・・ならば・」という条件を設定している事に気がつくでしょうか。成功、金銭、名誉を得たあかつきの「幸せ」なのです。いわゆる、「・・たら、・・れば」の幸せです。条件付きの「幸せ」とも云えるでしょう。

●「幸せ」に条件が必要か

 成功や地位や富や、それから得られる快感や安堵が、幸せである・・という観念が支配的であるため、その幸せを求めて様々な社会・経済活動が行なわれます。至極当たり前であるとも誰しも感じるのですが、そこに、なぜか、「幸せ」を当てはめる誤謬に気がつかざるを得ないものです。条件を付けられた「幸せ」を獲得すべく様々な社会的労力を注いでいるのが、我々であったも言えるでしょうか。「幸せ」を、物質、環境、人間関係の良否などの条件の向こう、ベールの向こう側に敢えて置き去りにしているようなものです。本来の幸せとは、似て非なるあり方です。

 多くの人々がそういう風に思っているような感じがしている、・・という架空の想定を、これまた大勢の人間が信じているからこその事であるでしょうか。

●幸せは「そのうち得られる」・という誤謬

 個人の幸せは、全てが御膳立てされた理想社会、均一的な画一的な幸福社会等で、はじめて得られるものであるという考えもどこかで出てくるでしょう。だからこそ革命や変革、社会改革が必要だと言う考えです。それは、外の条件が変れば、自分も幸せになるだろうという観念です。過去の唯物史観にも密接な観念体系でもありました。自分の幸せは、外から「来る」ものという依存心です。

 外側の環境の変化で得られる良きものが、万一あったとしても、それは肉体的な生存の安心感や安堵感などかもしれず、しかしながら、確かに、個人個人、それが「幸せ」と考えている場合は、それはそうかも知れません。

 各自の幸せは各自の幸せであるにもかかわらず、それを他人や外の世界に求めることの異常さに気付くべきではないでしょうか。自分の内面に求めるものが、自分の外にあると漠然と信じている意識状態、幸せは獲得するものであるという「信念」でもあります。それはいわゆる「支配」に甘んずる人々の依存心を示すものです。支配者に誉めてもらいたいという幼子のような心理が、獲物をどれほど獲得したのか?という競争ルールの中での歪な生き甲斐となってしまうわけです。表面だけの小奇麗な虚飾に彩られた社会という、現代のコロッセウムの格闘士?は、もう、安楽と幸せの違いに気付くべき時なのです。

 個人個人の、その時々の「幸せ」が、個人以外のところ、社会のなか、多様な物質の中から獲得して得られる・・等ということは、実際ながら有り得ようもないのです。獲得して得られるのが「幸せ」なのでしょうか。また待ちわびて何者かに与えられるものが「幸せ」なのでしょうか。それは「幸せ」ではなく、いつも現われかけては消えて行く蜃気楼、あるいは刹那の快楽や安楽さ、安心感でしかないのでしょう。

●幸せは単に肉体の安楽ではない

 幸せは実は「こころの状態」であると言う話は良くあるものです。まさにそのとおりであるとも思われるでしょう。しかしながら、その「こころの状態」になるためには、またぞろ、外部条件が必要だということにしがみ付くこともあるでしょう。肉体維持の為には環境が必要であるということもまさに事実ですが、それは、「幸せ」とは違うことに気付く必要もあるでしょう。

幸せは、心の状態であると気付きながらも、それでも「物」が先で「こころ」が後という捉えかたです。こころ自体が意識的、無意識的であっても、その環境を作り上げていることが理解されていないために、「物」がやはり先に来てしまうものでしょうか。

●幸せは瞬間瞬間の創造に気付いていること

 どうという事もない出来事、当たり前の家族の会話、懐かしい記憶、子供達の屈託の無い姿、チョッとした他人の親切、何かをやり遂げた後の満足、夕日の残照、移り変わる木々の葉に見入る時・・・例えば、そのような状況に何かしら感動したことはあるでしょうか。どこにでもある、誰にでもあることです。

何時もそこにあった、「当たり前」にただ単にフト気付いただけのことなのですが、誰しも、このような当たり前のことに感謝し、幸せを実感することがあるのではないでしょうか。

 ひょっとして、今の瞬間瞬間の自分を取り巻く「幸せ」に気付けない我々は、あたかも盲目の先物取引業者のようでもあり、実にこころ楽しくないものではないでしょうか。常に未来に求め続けることばかりで、逆に、溢れるばかりの、今のこの世界の贈り物にさえ気付く能力がなくて、一体どんな幸せを得られる力があるのだろうかとも考えられるのです。

●有難う・・幸せに感謝するこころ

 あり得ない、あり難い、このありのままの宇宙、自然の世界を、そのまま見る事ができなくて、いきなり世界を切り刻み、加工しながら、「幸せ」なるものを追い続けてきたのが我々の文明であったと言えば、それは言い過ぎでしょうか?

 眼を見張り、こころを駆使して、今在ること、もう既に与えられていることに、ただ「感謝」出来る事が、それこそが「幸せ」とも言えるのではないでしょうか。それこそ多くの人々の、ある意味で「共通」する幸せであるかもしれません。当たり前のすぐ周りの幸せを見ず、遥か遠くを見るこころあり方には、そのとおりに、常に身の周りや世界に、不満や不足が現象化しているのは火を見るより明らかでしょう。

●幸せはいつも、「今ここに」在る

 人間は、自分のこころを如何様にもできるように生まれています。様々な感動も、感謝も実は、まさに「幸せ」の表明である事に気付けるでしょうか。今この瞬間にある状況を不足や不満と考えるか?本来有った当たり前の「幸せ」に感謝出来るかどうかが、まさに天と地を分ける「こころ」のあり方なのです。

不足を感じ続け、追いすがり求め続けることが「幸せ」である?と一体誰が言っているのでしょうか?人は不完全であると?一体誰が言っているのでしょうか?それは?・・たしかに自分自身が言っていたということが分かるときに、初めて「幸せ」を感じることになるのではないでしょうか。

 難しい理屈や複雑な観念体系、遠くにある理想、手に届かない貴重なもの等が、何か立派で、高尚なことであるという誤解に依拠した架空の信念から、自らを解き放つべき時でしょう。

 「幸せ」、それはいつも「今」を置いて、他にあるわけもないのです。また自分の中をおいて他人の中にあるわけもないのです。

●皆すべて、既に「幸せ」である

 「幸せ」とは今の当たり前の中に、それこそ宝石のごとき輝きをもって、あなたや私たちが気付く事を待っているのです。何年、年十年、何千年も待ち続けることもあるでしょう。「今」という瞬間は、「ゼロ」であり、その奇跡が「経過時間」という「軌跡」です。 今の瞬間に出てくる現象の連続、記憶が時間であれば、悠久のかなたの古代の時代も、未来の時代も、「今」から湧き出すものであることが理解出来るでしょう。「今しかない」というのは、瞬間、瞬間に全てが有ると言う意味であり、「幸せ」も今しかないのです。

 「幸せ」は「今ここにある」ことに気付くだけがまさに「幸せ」であり、もし不足があればその不足分だけ、待ってくれるのが「時間」という、辛抱強い友達なのかもしれません。

●眼を開けよ、幸せばかりの創造世界を「発見」せよ

 既に与えられている当たり前のものに感謝すべきです。感謝の念の中心にあるのが「今」という瞬間であり、それに気付いていることが「幸せ」といっても良いのです。感謝の念から生ずる現象は、感謝を映し出す時空になってわれわれの世界を形づくります。個人の世界の中心はそれぞれ皆、まさに宇宙の中心であり、個人の信ずるままに現われてきます。

「今」ここに「幸せ」を感じている人々の多い世界、これが、これから経験すべき世界であると断言しても良いと思うのです。まさに時間の有って無きがごとくの世界とも言えるのです。

●影を創っているのは、影絵師である私たち

 一見様々な苦悩に見えるこの世界は、どうしようもない現実ではなく、あなたや私たちの心のフィルターの汚れを示しているのでしょう。幻影たる結果をどうこうすることは、まさに筋違いであり、1人1人のこころのフィルターを取るだけのことなのです。そうすればそこには苦しく怖い幻影が現われようがありません。影絵の「影」を追い回すより、光の当たる自分達1人1人の「こころ」の姿を変えるべきなのです。

●原因たる「自分のこころ模様」を観るべし

 幸せは、まさに今の瞬間、既にそうである!ことを実感することです。外の形(影)でなく、影絵師である人間の「こころの鋳型」を変えるべきなのは明らかではないでしょうか。幸せだらけの悩み?も経験しても良いかもしれません。それでも、世界は汚れに汚れている!と宣言するのでしょうか。それとも、当たり前に、今「幸せ」であるという事実に眼を開け、まさにそうであった・・という宣言が、今この時に出来るでしょうか。いや出来るに相違ないのです。

●有り難いこと限りなし

 なぜなら、苦しみや悩み、幸福など、どのような実感も選択できる、それぞれの「わたし」が「今ここに在る」からです。有り難いこと限りなし。まさにこれからの世界はそうのように、映り変わらざるを得ないのでしょう。

 自己をどこかで忘れた意識の有り方、外の世界の人間関係や、物質レベルの因果関係のみを追っている意識のあり方では、決して理解出来ないことかもしれません。それが出来れば苦労などあるものか・・という考えもまた、あくまでも自分から眼を背けているこころのあり方を示してはいないでしょうか。幸せは、難しい・・・という信念。本当にそうでしょうか。

 単純に言えば、自分に感謝できれば、それが外への感謝となって広がるのが道理です。自分が、今「幸せ」であると心底気付ければ、他者もまた「幸せ」であることに気付くようになるのも道理です。 幸せは、それぞれの中に斉しく在るところの、「こころのあり方」が創造してゆくものだからです。

 

 Flower1008

 本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。