気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

幸せと人間

2009-05-10 17:00:46 | 心の力学

●幸せとは何か

 我々皆誰でも、また多分、意識ある存在すべてに共通する願いは「幸せでありたい」ということでしょう。色々意見が異なるといわれる、様々な個人であっても、これだけは共通したものです。人間は須らく、意識する・しないに関わらず、いわゆる「幸福」「幸せ」を求めていると言ってもてもいいのです。

 はたして、社会、国家、世界のなかで、「幸せ」でありたいと思わない人がいるものでしょうか。地球上あるいはその他の諸世界であっても、程度の違いはあったとしても、幸せでありたくないという存在はいるはずもないでしょう。

●誰でも幸せを求めている

 不幸の代表のような極悪と呼ばれる人々、自己欺瞞そのもののような性格や生活を経験している猜疑に満ちた人々、いびつ極まりない自己中心な行為をしているエゴイスティックと云われる人間達も、「幸せ」を求めているからこその、極端なその激しい思いと行動をしているものでしょうか。悪(ワル)といわれる人々も、善良といわれる人々も、その時々の自己を演じている、あるいは演じざるを得ない有様も、いずれにしても、「幸せ」を求めているからに他なりません。人としての表現の大きさ・小ささ、深さ・浅さに関わらず、それぞれが精一杯の自己表現をしながらも、どこかで「幸せ」を求めていることには変わりがないのです。

●条件付きの幸せが欲しい?

 現代社会の趨勢にあっては、いわゆる物質的な豊かさが幸せになる秘訣であると考えているかのようです。たしかに我々は、大なり小なり、当たるも当たらぬも、意識的・無意識的にも、そのような世の中に生きてきたのは否定など出来ないものです。

 人類の創造の結晶たる学問も芸術も、今では現世の利得・ゲインを得ることに特化されてきているようです。数学も物理も工学も、文学さえも、それを使っての現世利益(りやく)に結びつけることが、いわゆる経済的な「善」とも捉えられています。生活への努力には、必ず現世の利益がピッタリと付いてくるはずであり、それが本来当たり前であるということのようです。

 人生の努力が経済の利益になり、富として還元され、それぞれの個人の「幸せ」の手段となる「富や名誉」につながると考えているからです。

 「自分のやりたい事をやり、それでお金が儲かり、また有名になれば、それも「幸せ」だ」・・という考えです。これには多くの人々の賛同があるものでしょう。我々は、大なり小なりそのような、「成功」=「幸せ」の観念の中に浸かっていることに気付くのです。

 しかしながら、多くの人々の羨望の的である?権力者、富豪、セレブ、有名人、成功者といわれる人が、本当に幸せかどうかは、もう十分にわかりそうなものです。全てではないにしろ、そのような世間での成功を獲得したと言われる人達は、幸せどころか、表面のパフォーマンスを維持する為の、ある意味艱難辛苦の連続を経験していることに気がつくでしょうか。

 一見して正当?であると感じる、幸せ=物質的成功?の観念では、「・・・・ならば・」という条件を設定している事に気がつくでしょうか。成功、金銭、名誉を得たあかつきの「幸せ」なのです。いわゆる、「・・たら、・・れば」の幸せです。条件付きの「幸せ」とも云えるでしょう。

●「幸せ」に条件が必要か

 成功や地位や富や、それから得られる快感や安堵が、幸せである・・という観念が支配的であるため、その幸せを求めて様々な社会・経済活動が行なわれます。至極当たり前であるとも誰しも感じるのですが、そこに、なぜか、「幸せ」を当てはめる誤謬に気がつかざるを得ないものです。条件を付けられた「幸せ」を獲得すべく様々な社会的労力を注いでいるのが、我々であったも言えるでしょうか。「幸せ」を、物質、環境、人間関係の良否などの条件の向こう、ベールの向こう側に敢えて置き去りにしているようなものです。本来の幸せとは、似て非なるあり方です。

 多くの人々がそういう風に思っているような感じがしている、・・という架空の想定を、これまた大勢の人間が信じているからこその事であるでしょうか。

●幸せは「そのうち得られる」・という誤謬

 個人の幸せは、全てが御膳立てされた理想社会、均一的な画一的な幸福社会等で、はじめて得られるものであるという考えもどこかで出てくるでしょう。だからこそ革命や変革、社会改革が必要だと言う考えです。それは、外の条件が変れば、自分も幸せになるだろうという観念です。過去の唯物史観にも密接な観念体系でもありました。自分の幸せは、外から「来る」ものという依存心です。

 外側の環境の変化で得られる良きものが、万一あったとしても、それは肉体的な生存の安心感や安堵感などかもしれず、しかしながら、確かに、個人個人、それが「幸せ」と考えている場合は、それはそうかも知れません。

 各自の幸せは各自の幸せであるにもかかわらず、それを他人や外の世界に求めることの異常さに気付くべきではないでしょうか。自分の内面に求めるものが、自分の外にあると漠然と信じている意識状態、幸せは獲得するものであるという「信念」でもあります。それはいわゆる「支配」に甘んずる人々の依存心を示すものです。支配者に誉めてもらいたいという幼子のような心理が、獲物をどれほど獲得したのか?という競争ルールの中での歪な生き甲斐となってしまうわけです。表面だけの小奇麗な虚飾に彩られた社会という、現代のコロッセウムの格闘士?は、もう、安楽と幸せの違いに気付くべき時なのです。

 個人個人の、その時々の「幸せ」が、個人以外のところ、社会のなか、多様な物質の中から獲得して得られる・・等ということは、実際ながら有り得ようもないのです。獲得して得られるのが「幸せ」なのでしょうか。また待ちわびて何者かに与えられるものが「幸せ」なのでしょうか。それは「幸せ」ではなく、いつも現われかけては消えて行く蜃気楼、あるいは刹那の快楽や安楽さ、安心感でしかないのでしょう。

●幸せは単に肉体の安楽ではない

 幸せは実は「こころの状態」であると言う話は良くあるものです。まさにそのとおりであるとも思われるでしょう。しかしながら、その「こころの状態」になるためには、またぞろ、外部条件が必要だということにしがみ付くこともあるでしょう。肉体維持の為には環境が必要であるということもまさに事実ですが、それは、「幸せ」とは違うことに気付く必要もあるでしょう。

幸せは、心の状態であると気付きながらも、それでも「物」が先で「こころ」が後という捉えかたです。こころ自体が意識的、無意識的であっても、その環境を作り上げていることが理解されていないために、「物」がやはり先に来てしまうものでしょうか。

●幸せは瞬間瞬間の創造に気付いていること

 どうという事もない出来事、当たり前の家族の会話、懐かしい記憶、子供達の屈託の無い姿、チョッとした他人の親切、何かをやり遂げた後の満足、夕日の残照、移り変わる木々の葉に見入る時・・・例えば、そのような状況に何かしら感動したことはあるでしょうか。どこにでもある、誰にでもあることです。

何時もそこにあった、「当たり前」にただ単にフト気付いただけのことなのですが、誰しも、このような当たり前のことに感謝し、幸せを実感することがあるのではないでしょうか。

 ひょっとして、今の瞬間瞬間の自分を取り巻く「幸せ」に気付けない我々は、あたかも盲目の先物取引業者のようでもあり、実にこころ楽しくないものではないでしょうか。常に未来に求め続けることばかりで、逆に、溢れるばかりの、今のこの世界の贈り物にさえ気付く能力がなくて、一体どんな幸せを得られる力があるのだろうかとも考えられるのです。

●有難う・・幸せに感謝するこころ

 あり得ない、あり難い、このありのままの宇宙、自然の世界を、そのまま見る事ができなくて、いきなり世界を切り刻み、加工しながら、「幸せ」なるものを追い続けてきたのが我々の文明であったと言えば、それは言い過ぎでしょうか?

 眼を見張り、こころを駆使して、今在ること、もう既に与えられていることに、ただ「感謝」出来る事が、それこそが「幸せ」とも言えるのではないでしょうか。それこそ多くの人々の、ある意味で「共通」する幸せであるかもしれません。当たり前のすぐ周りの幸せを見ず、遥か遠くを見るこころあり方には、そのとおりに、常に身の周りや世界に、不満や不足が現象化しているのは火を見るより明らかでしょう。

●幸せはいつも、「今ここに」在る

 人間は、自分のこころを如何様にもできるように生まれています。様々な感動も、感謝も実は、まさに「幸せ」の表明である事に気付けるでしょうか。今この瞬間にある状況を不足や不満と考えるか?本来有った当たり前の「幸せ」に感謝出来るかどうかが、まさに天と地を分ける「こころ」のあり方なのです。

不足を感じ続け、追いすがり求め続けることが「幸せ」である?と一体誰が言っているのでしょうか?人は不完全であると?一体誰が言っているのでしょうか?それは?・・たしかに自分自身が言っていたということが分かるときに、初めて「幸せ」を感じることになるのではないでしょうか。

 難しい理屈や複雑な観念体系、遠くにある理想、手に届かない貴重なもの等が、何か立派で、高尚なことであるという誤解に依拠した架空の信念から、自らを解き放つべき時でしょう。

 「幸せ」、それはいつも「今」を置いて、他にあるわけもないのです。また自分の中をおいて他人の中にあるわけもないのです。

●皆すべて、既に「幸せ」である

 「幸せ」とは今の当たり前の中に、それこそ宝石のごとき輝きをもって、あなたや私たちが気付く事を待っているのです。何年、年十年、何千年も待ち続けることもあるでしょう。「今」という瞬間は、「ゼロ」であり、その奇跡が「経過時間」という「軌跡」です。 今の瞬間に出てくる現象の連続、記憶が時間であれば、悠久のかなたの古代の時代も、未来の時代も、「今」から湧き出すものであることが理解出来るでしょう。「今しかない」というのは、瞬間、瞬間に全てが有ると言う意味であり、「幸せ」も今しかないのです。

 「幸せ」は「今ここにある」ことに気付くだけがまさに「幸せ」であり、もし不足があればその不足分だけ、待ってくれるのが「時間」という、辛抱強い友達なのかもしれません。

●眼を開けよ、幸せばかりの創造世界を「発見」せよ

 既に与えられている当たり前のものに感謝すべきです。感謝の念の中心にあるのが「今」という瞬間であり、それに気付いていることが「幸せ」といっても良いのです。感謝の念から生ずる現象は、感謝を映し出す時空になってわれわれの世界を形づくります。個人の世界の中心はそれぞれ皆、まさに宇宙の中心であり、個人の信ずるままに現われてきます。

「今」ここに「幸せ」を感じている人々の多い世界、これが、これから経験すべき世界であると断言しても良いと思うのです。まさに時間の有って無きがごとくの世界とも言えるのです。

●影を創っているのは、影絵師である私たち

 一見様々な苦悩に見えるこの世界は、どうしようもない現実ではなく、あなたや私たちの心のフィルターの汚れを示しているのでしょう。幻影たる結果をどうこうすることは、まさに筋違いであり、1人1人のこころのフィルターを取るだけのことなのです。そうすればそこには苦しく怖い幻影が現われようがありません。影絵の「影」を追い回すより、光の当たる自分達1人1人の「こころ」の姿を変えるべきなのです。

●原因たる「自分のこころ模様」を観るべし

 幸せは、まさに今の瞬間、既にそうである!ことを実感することです。外の形(影)でなく、影絵師である人間の「こころの鋳型」を変えるべきなのは明らかではないでしょうか。幸せだらけの悩み?も経験しても良いかもしれません。それでも、世界は汚れに汚れている!と宣言するのでしょうか。それとも、当たり前に、今「幸せ」であるという事実に眼を開け、まさにそうであった・・という宣言が、今この時に出来るでしょうか。いや出来るに相違ないのです。

●有り難いこと限りなし

 なぜなら、苦しみや悩み、幸福など、どのような実感も選択できる、それぞれの「わたし」が「今ここに在る」からです。有り難いこと限りなし。まさにこれからの世界はそうのように、映り変わらざるを得ないのでしょう。

 自己をどこかで忘れた意識の有り方、外の世界の人間関係や、物質レベルの因果関係のみを追っている意識のあり方では、決して理解出来ないことかもしれません。それが出来れば苦労などあるものか・・という考えもまた、あくまでも自分から眼を背けているこころのあり方を示してはいないでしょうか。幸せは、難しい・・・という信念。本当にそうでしょうか。

 単純に言えば、自分に感謝できれば、それが外への感謝となって広がるのが道理です。自分が、今「幸せ」であると心底気付ければ、他者もまた「幸せ」であることに気付くようになるのも道理です。 幸せは、それぞれの中に斉しく在るところの、「こころのあり方」が創造してゆくものだからです。

 

 Flower1008

 本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

  

 

 


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18 コメント

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マッチョマンさん ()
2009-05-11 22:00:53
マッチョマンさん

久しぶりにお茶でも頂こうかなと参上しました。
御無沙汰ばかりですみませんです。

今回は、 小沢一郎 辞任ネタに関連して
出張りました。
いやーわからないもんですね。
私は、「小沢首相就任説」を預言的にも常識的にも
信じていたので、
今回のこの こましゃくれた 微罪による
世論操作は、

人間の集合意識の出来の悪さを現しているのか

それとも、ごくわずかな 司法試験+国家試験 合格者さんたちが

自分たちの ちんがらこんまい 権益と刹那の生活を守るために

画策されたのか、まーどうでも良いし 真相は
わからないのですが、

とにかく問題の先送り的手法は、まさに断末魔の様相です。

さらにおもしろかったのは、麻生首相の支持率アップです。

7%のアップの支持率に乗られた方は、
自分は、パブロフの犬じゃない! との 自尊心は いずこに?

自民になっても民主になっても、どっちになっても
光もありゃ 闇もあり でしょうが
「現実」というものを考えた時に
いや
「現実」というものをより持続可能に修正すると前向きに考えた時には
どちらかというと、民主党的解体的出直しが、
Pの好みなんですが・・・。あきまへんでしょうか?

しかしまぁ~、 愛こそ全て の観点により
全受容 したいと思います。

それと、人のことに構っている暇はありません。
エゴとカルマの噴出で実際は大変です。はぁー。

自分が変わらないと、人も変わらない
世界も変わらない という原理原則の下

今後も、顕在意識レベルの呼びかけ等には
応じかねますので、どうか温かくお見守り下さい。
(儀礼を欠いてすみません。)

それから、

WEBBOT予言ですが、
あれは、ネット上の様々なる語彙を
集合意識の非常に有効な大多数のサンプルとして
感情値に変換し、
キーポイントになる変換時期の算出をするという点で
精神世界の画期的発明で、真理の方向途上にある
一つの予言算出手法として評価されると思います。
出来事の方はともかく、変節点(時期)はよくあたってますね~。

実際には、ネット上で発言はしないが、沈黙のうちに
意図を持って世界の行く末を案じて、念じている
強大なる背後意思により、未来線は様々に変化すると理解するのが
正解ではないかと
つまり、沈黙している精神の方が未来線に大きな影響をしているのではとか
色んな事柄が回想されます。

今のところ、そんなことを考えておりました。

この究極の制限服たる人間の肉体を持っている限り
所詮、未来は知りえないんじゃないかと
それは、悲嘆すべきものでも何でもないし
ありがたく修行をさせていただければ良いと。

あるいは、全能の神すらも我々分身のやっていることに
干渉せず、じっと見守っているだけなんじゃないか
とすら思えてきます。

何にせよ頂いた時空間の中で、引き続き
のたうちまわりながら、自分を見つめていく所存であります。

ありがとうございます。
返信する
マッチョマンさん ()
2009-05-12 08:06:41
マッチョマンさん

上記に関する、関連記事として面白い文章を見つけましたので

添付しておきます。

http://soejima.to/

ひとつの見識だと思いますが、真相というのは結局

幾重にも重なった諸相の反映であるという客観的なスタンスが

肝要かと思います。
返信する
Pさん おはようございます (マッチョマン)
2009-05-12 08:20:34
Pさん おはようございます
 いやあ、おひさしぶりです。
まー、いつもの温めの玄米茶ですが、・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そうですね・・・小沢さん、お顔や行動は、無骨たる古武士のようでもあり、
海千山千の政治武具の他に、現代社会にそぐう笑顔やを無理に羽織っている・・みたいな感じでしょうか。
 大体、企業や組織でも、やりて強面(こわもて)の「番頭」がいなくなれば、
ガタガタッとなるものです。
「やりたい」人は、いつも沢山いるのですが、「出来る人」はそんなにやりたいなどと思わない・・みたいなところが逆の真実。おれが、おれが・・は決して頼りにならない。(笑)また、今は、それを経験させてあげる、余裕あるステージでもない。・・みたいな。
・・・・・・・・・・・・・・・・
 「沈黙している精神の方が未来線に大きな影響をしている」・・・なるほど、
現象側での騒ぎは、大体は「結果」であって一次原因たる力たりえず・・でしょう。例えば、沈黙は「金」という言葉も同じく、その現象・現実の流れを知覚している、観ていることのすごさのを示しているのでしょうね。これも表面的な通念では理解が難しいところです。
・・・・・・・・・・・・・・・
副島「道場」は自分も良く見ています。強面の笑いもしない道場主(笑:あーっ!すいません)のようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
朋あり、
遠方より来る、
また楽しからずや。[E:sun]

返信する
マッチョマンさん ()
2009-05-12 08:49:25
マッチョマンさん

久しぶりにも関わらず、御丁寧なレスありがとうございます。

>大体、企業や組織でも、やりて強面(こわもて)の「番頭」がいなくなれば、
>ガタガタッとなるものです。

>「やりたい」人は、いつも沢山いるのですが、
>「出来る人」はそんなにやりたいなどと思わない

まさしくその通りだと思います。

さらに一歩、今・ここ に思考を移すならば

小沢一郎は、権力欲からも解脱したんじゃないか?と思います。
「抜けた」感じがしました。
内々には、鳩山由紀夫に禅譲して、自分は裏に回る気かもしれません。

そうするとマスコミの世論誘導は、また岡田よりになるのでしょうか?
まーせいぜい、既得権益擁護の皆さん
あがいて下さい というのが感想です。

そのしがみついている船は、もうすぐ沈み 自分の泳力が試されます。

小沢さんは
最後まで、西松献金が原因じゃない・・・というところだけは
一線を張ってましたね。
自身の引き身と引き換えに、せめて議席の過半数近くを挽回したいと。

自民党がおののいているのは、その「潔(いさぎよ)さ」じゃないでしょうか。 

ただ、こんな状況で、経済がなんとなく株価誘導などで「もって」しまうと
日本の政治状況は、非常に中途半端なものになり
さらに混迷を深めると思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このまま、「タマス」のエネルギーにより
状況が先送りになっていきますと
いよいよ 楽観的なシナリオは、あきらめた方が良いかもしれませんね。

色んな肉体の終わり方があると思いますが
人類の自滅的暴挙も、一応念頭に入れておかなければ

などと考えてしまいました。
返信する
Pさん こんばんわ (マッチョマン)
2009-05-12 22:03:01
Pさん こんばんわ
 P節を聞くことが出来るのも本当にありがたいです。
・・・
そのとおり、楽観的なシナリオはありません。
良い悪いを遥かに超えたものがいわゆる「リアリティー」
それがあるのみです。
今のこの時代、弱肉強食をことさらアピールしながら、
その淋しさを多くの群集に分かってもらいたいという子供達の、集まる地でした。まさに母なる地球でしか受け入れられなかったのです。
母なるこの大地は、意識的な自立を願っているのでしょう。
今はよくわかります。親になって初めて、やっとのことでした。
有難うございます。
・・・
!!何の脈絡もない、REコメント・・・あれー?、すいません。[E:sun]
返信する
マッチョマンさん ()
2009-05-12 23:41:30
マッチョマンさん

何か心に浸みるリコメであり、ありがたく頂戴しました。

もう書くのをやめようかなと思ってましたが
WEBBOTでも昨今警告している、「北朝鮮」ですが

暴発するとしたら、その対象は、「南朝鮮」か「大和の国」しかあり得ません。
周辺で、「弱そうな国」は、その2国です。

日本だって、戦前 膨大なる戦費の累積債務を
各国の分断的統治支配に苦しむ中国への拡大路線にて
解決するしかなかったわけです。
理念というより、背に腹は代えられなかったということ

その意味で、あのような困窮状況のなか
北朝鮮の人民は、武力による自滅的結末を迎えることなく
今までよく耐えてきましたが

そろそろ限界で、ある種の
カタストロフィー的結末を願い、その想念は充満して
限界に達してはいないか?と。

話は変わりますが
GMが倒産するそうですが、
今の日本政府というか国家運営は、かつてのGMそっくりです。
無用の長物に膨大な金をつぎこむ体制を決して
改めようとはしないと。

よくまぁ これだけ全てが揃いも揃って臨界状態にあるな~と。

感心します。

自分自身に関しても、ちょっと「気づく」のが遅かったのかな~ と
反省しようと思います。

が、衣食足りて礼節を知る の部分で

競争社会の現実は
理屈抜きに厳しかったぁ・・・今もまだそれを目にして、そしてこれからも・・・

格調の高い、マッチョマンさんの
あるべき理想 の 覚醒状態 の記述の続く中
「リアリティー」という言葉を、この場にもたらしたのは
Pの責任でもありますが、とても好きな表現です。

そろそろ 歯の浮いたような理想論 より
武者が、死ぬとわかった戦に出る直前の
こんころもち が必要かとも思う次第であります。

そして、マッチョマンさんの上記のコメの「切り返し」の中には
前世からの歴戦の兵(つわもの)としての「覚悟」の経験が
滲み出ており、改めて感心しました。

・・・

あれー?変なのり すみませーん。[E:heart01]
返信する
Pさん おはようございます (マッチョマン)
2009-05-13 08:07:01
Pさん おはようございます
・・うあー、、切り込みがメチャ鋭いぞーー・・・みたいな。(笑)すいません。

 リアリティーは、ここでは、善悪、楽観・悲観を超えている、存在のリアリティ・・と言う方面の意味です。
 ある意味、自分達のこころで蒔いた種を刈り取るという「事実」生成プロセスのことで、その結果、その都度現われる「波の表面・現実・果実」 という意味ではありません。 

 ヤスさんとこの記事で、リモートビューイングのディムス少佐(だったか)が北朝鮮の核使用を予言していましたね。今までの情報・ニュースの履歴を見れば、なるほど最も、有り得る!という感じであり恐怖でもありますね。ちょっと気になるのは、それこそ誰にも分かりそうな人為的なシナリオが動いているような?・・感じがします。
 GM、クライスラー等の巨大企業の沈没も、どこかいやいやながらも?自然の流れのようです。我々の「心の慣性」だけが、それを意外に感じるのでしょう。
 現実の激動のなかで、どこかで破滅を期待するこころが集合意識に増えて出てきているのでしょうか。

 破滅願望も、理想希求も、他者依存でしょうね。
この人生・この時点で解決すべき問題は、各自の「こころ」の中にあります。というのがこの茶屋の1つのテーマです。

 それは、歯の浮いたような「理想論」でなく、自己を見つめ、観察するような、ある意味、あり時期では、最も、嫌で辛いプロセスでもあります。我々が真にできることは、他者への干渉でなく、自己の観照、研鑽しかありません。

 この峠では、そのような信念フィールドから出てくる「ほとばしり」を記事にしているようなものです。この年で、今もっともスピリチュアルに成長している自分が、勝手にですが、わかります。いや、させてもらっているのです。現実の人の意識以外の癒しや援助や、やわらかい指導?のような波動もあるようです。ここいらを、あまり言うと誤解されそうですが。

 なるほど、経済や社会、世界のあらゆる光と影を、真剣に暴露し、闘っている武者サイト?も増えてきたようです。現象のこまかな履歴、証拠を提示して現代社会の本当とウソをクローズアップするような動きも加速してきています。まさに知の方面の変容のプロセスかも。

 「しかし、それで、自分自分はどうするのか?」
 「しかし、それで・・人はどこからきてどこへいくのか」 みたいな。

 峠の茶屋はそこ・修羅場を「外れた場所」にしか建てられなかったわけです。各自がこころの荷物を下ろせる、チョッとした峠の茶屋、幾世の苦労・・・が、たった1杯の茶で癒せるとは思いませんが、せめて旅人の山越えを少しでも楽に出来ないだろうか・・・。(あっれー・・これを、キザと感じないのが不思議なことで、どうにもこうにも・ばか丸出しみたいな・・・・大笑)
・・・・・・・・・・・・・・
 Pさんの、間髪入れぬ二の太刀に、はたして自分は避(よ)けられたでしょうか?刀で打ち返すことが出来たでしょうか?切られてしまったでしょうか?闘いから逃げたでしょうか?・・・・・・みたいな。(笑)
返信する
pさんおひさしぶりです。 (メイ)
2009-05-13 09:13:09
pさんおひさしぶりです。
マッチョマンさんとpさんのやりとりはひさびさに 血がさわぎ^^
いつか肉体から離れる時がくるんだから~なんて ちょっと前は思っておりましたが、今のテーマは蘇りと再生 きっと・・次世代か来世かと思いきや、あらら~時の進みは以外に早い?

pさんご指摘のリアリティーの中で、マッチョマンさんのおっしゃる状態を貫き行動でき、そういう心持でそのリアリティーなのかマトリックスか誘導か洗脳かを観察感知していけることが 今かと感じました。

同時に必要で・・・ありのままとあるがままとすずしかりけり

わかっててしかけるような、明らかにするために泥もかぶっても大丈夫な屈強な戦士があちこちで見かける勇姿に(武者サイト?^^) 私ちょっと最近感動(蚊帳の外っぽいですが)して眺めておりました。

峠の茶屋のおじさんと思いきや・・・。きっとそれが究極の必勝法でしょうね。
次世代ひかえておりまする。
返信する
マッチョマンさん ()
2009-05-13 10:11:31
マッチョマンさん

Pの内面に葛藤と対立があるので

>「Pさんの、間髪入れぬ二の太刀」

などと映ってしまっております。

やっぱり、コメントは時期早尚でした。(笑)

申し訳ないです。

自分の中で自分に対して太刀をふるっているのだと思います。

>リアリティーは、ここでは、善悪、楽観・悲観を超えている、
>存在のリアリティ・・と言う方面の意味

うわ~ 難しすぎです。

そのリアリティ-には確信を持っている「つもり」ですが

私の年代の私の境遇下で、「リアリティー」というと
自分は、何で食べていこう どうやって家族を養おう
これが リアリティ となってしまいます。

かつて、専門性を活かした社会貢献 や 今生の宿命的な仁義
により職業を選択してきたわけですが
今般またも「どうする」と現実に問われております。
そういうカルマは、残存しているようです。

とは言え、何で出てきたかと申しますと
これが自分の「道」かなと思える候補がいくつかに絞れてきたかな~
というところだったものですから・・・。

>自己を見つめ、観察するような、ある意味、ある時期では、
>最も、嫌で辛いプロセスでもあります。
>我々が真にできることは、他者への干渉でなく、
>自己の観照、研鑽しかありません。

この内面の整合性に加えて、現実への応用・適用という
今・ここ に与えられているの「最も、嫌で辛い」状況に感謝しつつ
できることから、コツコツ行こうと思っております。

多分、もう一皮剥けろってことだと思ってます。

私は生きている限りは、3次元現実に対し
覚醒方向の意識の投影をあきらめずに頑張っていこうと思います。

なーんちゃって、実際はエゴに翻弄されてますがぁぁぁ。[E:happy02]
返信する
Pさん こんばんわ (マッチョマン)
2009-05-13 21:32:11
Pさん こんばんわ
 わたしは、以前お話ししたように、ちょうど49歳で会社倒産、転職の激変をまさに体験しました。私の場合は2年ほど前からなんとなく分かっていました。なので激変の前に相当の辛酸を、余計に舐めてしまいました。他の人は信じたくないようで、いくら言ってもそんなことあるわけないじゃないか、お前、危ないんじゃない?などと言われておりました、(笑)、しかし、その時が来たら、もう何にも考えること、悩むことがなくなってしまい、ある意味で「空虚」だったようです。他の人は、そのときに大騒ぎしていました。
 「自分は、何で食べていこう どうやって家族を養おう
 これが リアリティ となってしまいます。」これが、その時がくる前の、2年間続いたのですわー。
 その時がやってきて、不渡り2回・・の知らせを聞きながら、やっぱり来たか・・ですよ。その時の「空」の状態ではもう、何の期待も、不安もなかったようです。それでなんだか分からない間に、すぐにべつの職場を、不思議な縁で、さる方に世話していただきました。行くしかないわけですよ。自分の場合は、1ヶ月しか休みがありませんでしたね(笑)。
 ただ、別の職場では、1からの契約社員からとしてもらったのです。周りは自分より若い奴だらけ、以前の偉そうな管理職などは、当然通用しませんよね。若い人にも、誰にも「ていねい語」、20代の新入社員でも、わたしの先輩ですから。今では一目置かれるおじんですが(笑)
 それで今はおっかあと一緒に、とりあえず、やっと4人の子育てが終り、(身体的にはですが)ホッとしているのです。
 2002年以降、それやこれやで相当な変容のきっかけがあり、内面での相当な学びや援助にも気付きまして、いまのスピリチュアル系で言われている様々なことも、本当のことと、ちょっと違うことも、実によくわかるようになりました。考えなくても分かる、知っているような感覚もどこかあります。多くの見える、見えない援けに取り囲まれています(笑)
もう闘うわけにはいきません・・・みたいな。
・・・
 Pさん、感謝が一番です。本当にすべてありがたいと思うんですよ。これも体験で実証しています。単純ですが、これも本当です。

・・・いや、このようなコメントに接することも、本当にありがたいです。[E:sun]

メイさん にも心から感謝します。[E:sun]
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