気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

次元の壁は意識の壁

2009-05-24 15:54:11 | 宇宙的気付き

●三次元世界とは

 地球は三次元世界であると云われていますがこれには誤解があるようです。より正確に言えば、我々の現代社会を構成する人類の集合意識での世界認識が、縦横高さと重さの感覚を元にしたものであり、それが三次元的であると言うことでしょう。

 思うに、世界は決して三次元ではなく、我々の「認識作用」や「中心となる観念」が三次元的なのだということが的を得た解釈です。三次元とは、物量で計ることをよりどころとした観念が根にある世界、物質のみをよりどころにした世界、まさに経済、物、人、金・・という概念が溢れている今の、この世界のことです。

●自ら囲った三次元世界

 世界・宇宙はだだっ広い空間で構成されているという認識が、人類集合意識内で単に幅を利かせていると思います。なんとなくそう感じていることでしょう。この世界はXYZの3次元と時間で構成されているという常識、すなわち人類集合意識にある暗黙の観念体系を表しています。

 アインシュタインの相対性理論も、次なる世界認識の飛躍的なステップというよりは、ある意味では「壁」として利用されてしまっているようなものでしょう。「この世には光を超える速度はない!」という重い壁を作り出しているのに気付きます。そう、「三次元+時間」の次元の根本には光速度の壁があるのです。これは近づけば近づくほど無限に重くのしかかる壁となっているものです。これが次元の壁だと考えている識者も多いことでしょう。アインシュタインには、その気は無かったはずですが。

●多次元という拡大世界への入り口にある人類意識

 多次元という概念は、今我々が観測できるこの(物理的?)宇宙以外にも、別個の宇宙が存在する可能性のことを示しているのかもしれません。ある意味では、今は観測できないし、見えないけれど確実に存在する別の世界の可能性を意味しているのだと考えられます。

 また意識のレベルに応じた様々な表現を可能とする別の世界も、異次元世界とも言えるでしょうか。今スピリチュアルの世界で言われている「次元上昇」「意識の変容」「シフト」なるものは、まず間違いなく意識レベル、認識レベルの飛躍的拡大の意味があり、物理的な多次元宇宙とは少々意味合いが異なるかもしれません。もっとも、確かに認識レベルが拡大すれば、物理的な多次元宇宙の理解も可能となるでしょう。

 次元は認識次第で現われるものであり、その根本には「意識」があり、特に人間の意識作用である「想念」が大きく関与しているのです。

●空(間)はからっぽではない

 空間は「空」(くう)です。空(くう)には様々な可能性、充満されたエネルギーが潜在しているという、古代から伝わる直感認識に、ようやく現代科学が気付き始めている段階と云えるでしょう。

 D・ボームの電子充満説、アービン・ラズロの宇宙全一性の主張、また、リサ・ランドールの異次元への科学的・数学的模索等も、単に、古代から既に理解されている世界認識に追いつこうとしているだけのことです。EUのCERN施設などは、密かに異次元を模索していることを伺わせています。知らぬは一般大衆ばかりなり、というのはいつもある話です。いつもいつも結果の後にぞろぞろとついてゆく「子羊集団」が、実は我々だったのかも知れないということに気付けるでしょうか。

 

●意識で充満する空間

 「観察する意識」が密接に絡んだ素粒子の世界と同じく、次元認識も「意識」というものを度外視してはなかなか進展できないと思われます。なぜなら、そのことを気付く気付かないに関わらず、我々は既に次元を超えている存在であるからです。超能力、予知、テレパシーなど、我々の周囲で起きる不可思議な現象は、まさに時空、あるいは次元を超えているとしか思えないわけです。

 また、そのような超常現象をあげつらうまでも無く、我々は毎日毎日眠りの中で多次元世界を見聞きしているのですが、いつもながら『忘れる遊び』が出来るのが、今までのこの地球という時空の特色と言ってもいいのででしょう。夢なども単なる脳の発火によるものでは到底あり得ず、まさにここに有りて、かつあらゆるところに偏在可能な、普遍的な意識の遊びとも云えるものです。どっこい、これは言いすぎではないのです。

 

●空(間)は無限に変化するキャンバス

空(くう)は「こころ」のキャンバスという表現が相応しいでしょうか。『無いと言えば無いし、有るといえば有る』・・・ 融通無碍 まさに、これが空(くう)の存在意義と言えるでしょう。いつもどこかで禅問答のようになるのは仕方がないものです。『無いと言えば、無いし、有るといえば、有る』 ・・・? このような表現をせざるを得ない「空(くう)」の有様は、まさに論理を超えており、なるほど、「空」(くう)であるが故かもしれません。宇宙は我々が主張してきた「論理」では動いていないのです。ましてや、汗まみれの善と悪の綱引きで運営されているわけでもないのです。

『愛と調和に満ちた「創造主の思い」が顕現している』  というのが真実です。簡単すぎるでしょうか?もっと苦労が必要でしょうか?

 

●空間は、「有るといえば有り、無いといえば無い」

想念は空間を越えているのは当然のことです。想念は空間を越えており、いわば絵描きがカンバスに様々な絵を描いているようなものです。空(くう)であるからこそ思いを自在に描けるものであり、空間自体が思いを既定することなどあるはずもないのです。今までの社会は、まさにそのあり得ない・驚天動地の本末転倒の世界を体験をしていたのです。地球が特殊と言われる所以はそこにもあるのが分かるでしょうか。

 

●多次元世界の有り様

時間は想念・意識の「写し絵」である、様々な物質素材の表現・変化のテンポでしかないのです。宇宙に無限にこだましている、意識の紡ぎだす想念という創造波動の集合と同調、干渉などにより、空(くう)に様々な意識の周波数帯ともいえる世界を創り上げます。多次元世界と言ってもいいでしょう。

そこにあるのは類は友を呼ぶという黄金律?であり、それは同調、親和の法則を表し、ある意味では異なる想念周波数帯同志は共存できないことも示しています。想念は必ず表現形を付随させるのです。表現形とは様々な物質形の素材を意味します。それが様々な惑星生命圏や次元宇宙を構成していると考えられます。

その各々の世界の振動率・周波数帯の波動の変化のテンポは、それぞれの世界の時間として現われていると考えられます。当然ながら世界・世界で時間は異なっているわけです。

 

●生まれ変わり:周波数帯間の移行

生まれ変わりというのは、単に、表現系の移行、周波数帯間のシフトを意味しています。その周波数帯間の移行が可能であるということは、我々が、様々な存在世界の周波数帯自体を俯瞰する位置にあることを示しており、すなわち魂のレベルの我々自身は、言い換えれば、根源存在の個別化された意識・魂である「わたし」たちは、空間のみならず時間をも越えているのです。

この地球の時空周囲を取り巻く世界、すなわち現在界、霊界、天界という世界の階層構造も、壮大なる存在世界のごく1部の周波数帯の住み分けでしかありません。存在表現形の異なる世界、周波数帯の異なる世界は、限られた五感では見ようもないのです。ただ、チャンネルが違うだけの事です。

生死、転生を繰り返しながら今生きて在ることは、我々の不滅の意識・魂は、その時々の意識レベルに応じて、どのような世界にも同調できることを示しており、まさにあらゆる波動を内包した存在、宇宙根源の個別化された存在であるわけです。

我々が「光の存在」であるというのは、まさにそれを象徴した表現でしょう。

 

●光速はいつも既に超えている

 地球を含む宇宙に広がる存在界は多次元的であるのが真相でしょう。我々の今の時空、生命に関する認識レベルが限られていると感じるのは、物質偏重の観念体系にフォーカスしているというだけのことです。テレパシー、念動、以心伝心、リモートビューイング、転生の記憶再現、未来予知、さらにUFO現象なども、この物理的・三次元的な世界認識では到底説明できないものです。

このような一般常識を越える、超常現象、超能力なども、世間では未だにもって、不可思議な現象があるとか・無いとか・言っていますが、この期に及んで、その好奇心の無さにあきれる人々も多いに違いありません。我々のこころの働き、意識作用が、光を超えているはずは無いと言う先入観の壁の、こちら側にいたいと思っているだけのことでしょう。

 

●光の壁のこちらの今

我々の意識作用の情報伝達の速度は瞬時であり、また過去や未来にもアクセスすることを意味しています。このような考え方を是とするのは、確かに「なかなか」であるのは理解出来ます。しかしながら、単に光速は物質の速度の限度を意味するだけであり、我々が物質であると認識している限り、決してこの次元を超える事はできません。  

我々の意識が、物質に自己同化することのみを「是」としている限り、どのような科学的数学的証拠を待ち続けても無駄な事のようです。光の壁は、実は自己認識の壁であり、意識の拡大しかそれを超える道はないのも道理でしょう。

 昨今言われているフォトンベルト(光子の帯)や銀河中心からの周期的な変容エネルギーもやはり光・放射に関しているようです。

 

●光の壁の向こうの今

4次元や5次元、第3密度、第4密度・・・といわれるものは、我々の意識の拡大度と相関しているものであり、小学生から中学生へという単純な比喩もそんなに的外れな言い方ではないと感じます。次第に自己責任とその知識、行動表現が変っていく自然なプロセスであるという事は全く同じようなことではないでしょうか。

暗がりはよく見えないのと同じく、その光に満ちた世界というのは、更に多くのことが理解・表現できる世界であることは間違いのないところです。

意識の変容、シフトの壁は、まさに光の壁であり、その壁の向こうには光が満ちているという象徴的表現も良いかもしれません。それがいわゆる高次元、五次元・・などと言われているものでしょう。それは間違いなく、物質偏重ではなく、こころ、意識が主体となった波動性に満ちた世界、より表現度の緻密な世界であり、それがまさに光に満ちた世界というのも、あながち言いすぎではないかも知れません。

我々が、光と善と楽しさの塊であったと心底知ることが、全ての扉を開く鍵となります。光の存在とは、きれいごとを夢見る存在などではなく、あらゆる可能性、あらゆる波動を永遠に内在させた、あなた自身のことでもあるのです。

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 今回も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。