本日は『セスは語る』の抜粋をご紹介します。この書はいまから30年以上前、1970年代にアメリカで出版されたものです。ニューエイジ思想のさきがけとも感じるものですが、その内容は相当に深遠なものであると思います。深遠と言っても、わけがわからない「山のあなたの空遠く?」にあるものではなく、我々人間とは一体何か?を懇切丁寧に語りかけてくれる偉大な存在の息吹を感じるものです。
当初は、またまた怪しげな、流行のチャネリングと称する情報の書籍化されたものだろうか、また、どこまでが本当で、どこまでが個人のフィルターによる歪曲なのだろうか?という感覚を持ちながら読んだものです。
それでも、しっかりと理解してみようという意識をもって通読したのですが、まず感じたのは、これは地球というカテゴリー、文明を超える、何がしかの、遥かに大きな存在からの贈り物とではないかと言うことです。相当な意識レベルの「教師」の講義を聴講しているような、そんな雰囲気を感じるのです。
さずがに、部分部分では眠くなってしまう、理解困難なところもありますが、単なるチャネリング本では?という自我が表明するところの表面意識に騙されず、またそれを鵜呑みにせず、自分で確かめる事を可能にした自己の「好奇心」に謝意を感ぜざるをえません。何事も、噛り付いても理解してみようとすることで、やはり確実に何がしかの成長はあるものでしょう。
どこにでも、どんな形であろうとも、多くの教師や仲間達がいるのだと思います。それが嫌いな他人であろうと、親であろうと、ペットであろうと、悩み多い世界であろうと、すべてがすべてのためにあるようです。それにどれだけ気づけるか?そんなものではないかと思います。それを行うことが出来るのは、皆々、自己という無限の存在であるからこそなのでしょう。
『セスは語る』 魂が永遠であるということ ジェーン・ロバーツ著 ロバート・F・バッツ記録
Seth Speaks ,The Enternal Validity of the Soul
―――――――――――――――p152-154
(書籍からの抜粋文章に対して小タイトルを、勝手ながら付帯させています)
●魂とは存在そのもの
魂とは、あなたがたが所有している何かではなく、あなたがたの存在そのものを言います。わたしは普通、「魂」(ソウル)という言葉より、むしろ<存在>という言葉を好みますが、その理由は単に、後者のほう(存在)はそれほど、特定の誤った解釈が結びついていないことと、その言葉の含意に前者(魂)ほど組織化された意味での宗教色がないからです。
●魂とは内なる自己そのもの
ここで一番に問題にすべきことは、あなたがたが魂あるいは<存在>という時には、往々にして何か完成された、よって発展性のないもので、あなた方自身というよりはあなた方が属しているもの、という捉え方をしていることです。
魂あるいは<存在>とは、換言すればあなたがたのもっとも内奥にある、大きな力を秘めた「内なる自己」であり、それは絶えずそして永遠に変化し続けます。それは大事にしまわれたまま代々受け継がれてゆく遺産などではなく、息づき、応え、好奇のこころに満ちているのです。そしてあなたの知るところの肉体や世の中を形づくり、「何かになろうとしている状態」であるのです。・・・・。
●今の自我は、自己を忘れるゲームをしている
魂あるいは<存在>は、絶えず変化を遂げながら、常に学びつつある状態なのです、また、時間や空間と連携してではなく、主観的体験に連携して発展し続けています。それは聞こえほど不可解なことではありません。読者の方々は、「全体自己」が間違いなく知っていることを、意識的な「自我」が素知らぬ振りをするというゲームをさせられているのです。・・・・。
●自我は、物質的見地から悟る傾向をもつ
自我というのは、確実に「全体自己」の一部なのですから、基本的にはそうした知識を把握していて当然です。けれども「自我」は極めて集中的に物質的現実に焦点を合わせているため、そうした情報が物質的見地からも採用できると踏むまでは、知らぬ存ぜぬを通すことに決めているのです。・・・・。
あなたがたの自我-(言い換えれば、あなたがたが自分自身であると考えている「外なる自己」ということになりますが、)-の部分は、自らの安全を確保し、一見自分を統率し続けているかのように見えます。れはまさに、あなた自身の人格の「内なる層の部分」が絶えず自我を支え、肉体の機能を保ち、内と外の状況から差向けられる種々のおびただしい刺激との情報交換を怠らずにいるからに他ならないのです。・・・・。
●肉体も無数の意識ある細胞・要素で出来ている事実
自身の身体には無数の細胞があるにもかかわらず、あなた方はその肉体を「単体」と呼び、自己の所有物であると考えます。確かに肉体は内から外まで、あなた自身によって形づくられたものです。しかし、あくまでも「生きた構成要素」で肉体を築いているのであって、その究極の最小粒子にさえも息づく「意識」があるのです。・・・
こうしたことからもお分かりのように、あなたという存在には際限というものがありません。あなたであるその魂あるいは<存在>が、自らを囲い込み、真の自由を否定するような境界を、どうして設定できるでしょう。
――――――p158-161
●自我は、限定が好きで変化を嫌う
多くの人が、魂を永遠不滅性を付与された自我であると思っています。それはあなたがたの知る自我は自己の小さな部分にすぎないということを、あなたがたが亡失しているからなのです。よって、この人格の小さな部分は、いわば先へ先へと際限なく投射されるものと考えられています。あなたがたの現実(リアリティ)の次元が、ほとんど理解されていないため、あなたがたの概念も限定されてしまうのです。
「永遠不滅性」を思いやるとき、どうも人類は、そのままの自我が発展していくことを望むようですが、そのくせ発展にはつきものである「変化」に関しては否定的です。魂のなんたるかを自問することもなく、宗教心から自分には魂なるものがあると信じる人々もいます。
●魂は知覚し表現し創造する
魂とは、何よりもまず知覚し創造するものなのです。あなたがた自身が魂であることを、いまここで再認識してください。つまり、あなたの内側にある魂が、いまここで知覚を行なっているのです。魂による知覚のしかたは、現在も、あなたが物質界に誕生する以前にも、また物質界から死去した後も、変わる事がありません。ですからあなたの内なる自己である魂という代物は、基本的には肉体的な死の後でも、その性質や知覚の仕方などを急激に変化させたりは致しません。
―――――――――――抜粋了
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生きること死ぬことは、魂の「知覚し、創造する」表現の1コマであるということは、事実そうなのでしょう。今、生の只中にあるということが、まさにそのものをズバリ表しているのです。今大切なことは、我々の生活の中にありながら、勇気をもって、より大きな視点からの眺めを取り入れることです。それが次元上昇ということでしょう。より大いなるものからの視点で己を観るということです。
籠の鳥が外に出るのは自力であり、わざわざ、そのために「忘れること」を自ら行なっているのでしょう。より大いなる自分に気づく為のの亡失というルールを、自ら設けて実施している我々、人類皆には賛嘆しかないのです。
つらつら考えるにつけ、永遠なる存在としての自分を忘れる・恐れることが出来るゲームとは、一体全体、何たる面白い思いつきなのでしょうか。本来の自己を思い出せば、さらに大笑いなのではないでしょうか。
そろそろ目覚める時期でもあることは間違いのないところでしょう。実のところ、皆々そう感じているのではありませんか。
大いなるわたしという存在は、今そこにも、ここにも、どこにも在るのが、実は本当のことのようです。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。