気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

創造と人間

2009-03-28 17:09:54 | 宇宙的気付き

 意識的存在としての我々の行なうべきことは、眼を見張り、耳をそばだて、翻ってさらにそれを可能としている自分自身の存在、いつも奇跡としての「今」に在る「わたし」、今の自分自身を知る努力を通じて、大いなる自分自身の無限の可能性に「着実」に気づき始めることであると思います。

 この地球という生命圏の中に進行している、大いなる物語の真っ只中にいることに驚き、あらためて感謝を感じ始めることにもなるのではないでしょうか。このような、いわば「知覚による外の世界の認識」、また内面の「自己観察」を通じて気づきが深化・拡大してゆくものです。

 この「観察」というのは、何もせずにただ見ることではなく、実在を実在として認識する行為のことなのです。単に肉体という感覚だけに束縛されず、その時々の身体、様々に現われるこころ模様、永遠の魂からの衝動をトータルに認識・体験するということです。そのためには、今のこの瞬間を瞬間として意識する必要があろうというものです。

 我々は、いわば宇宙創造の確認者ともいうべき存在であり、無限に展開するこの大いなる創造の観察者であるという言い方も、あながち間違いではないと思うのです。

-----------

「光の12日間」等で知られているゲリー・ボーネルはアカシックレコードにアクセスすることができると言います。また時を同じくして、ここでも紹介した科学・哲学者であるアービン・ラズロは、Aフィールド(アカシックフィールド)の存在を導入することで、素粒子の不可解な挙動を説明し、それから必然的に導かれる宇宙の全一性を提唱しています。それらの内容、時期などの整合性等も鑑み、わたし個人として大いに共感ができるのです。

今我々が、かなり際立った時点にいるのを感じることができるでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・

以下は、「アトランティスの叡智」と題する、最近のゲリー・ボーネルの著からの抜粋です。人類にとって永続してきた第1義的なテーマは「創造主と人間」に関することでしょうか。創造と人間に関する理解は、意識的、無意識的に関わらず、我々の因って立つ根源というものでもありそうです。神と人間、その認識レベル上の虚実は、人類の歴史の中にまばゆい光と冷たい影を落としてきた事には否定の余地がありません。神が外にあると言う漠然とした思い込み、これは唯物的な世界観の対極ではなく、実はそれそのものの土壌であったのでしょう。

今、ここにも真理の光が当たっているような気がします。

-----------------------

「アトランティスの叡智」ゲーリー・ボーネル(徳間書店)より

・・・・・・・p057・・・

「叡智の道」のテキストは続きます。

創造主は(個人の人格と)関わらない。しかしながら、我々は創造主によって毎瞬、毎瞬駆り立てられている。

創造主に特定の形はない。しかしながら、創造主は全ての既知のそして未知の形である。

創造主は無限である。

しかし、各々の創造物の中、創造主自身が課した制限の力のうちに創造主は存在する。

創造主は知られているもののすべてである。

そして自らの創造である一つ一つの特定のものに関しては明らかに気づかないのだ

創造主を積極的に理解しようとするとき、テキストに示されているこの中心となるたった一つの信念が非常に重要です。:我々は創造主を自分自身の始まりの源であることを認識している。そして創造主は我々個人には『意識的に』気づかないのだ。

「創造主は私たち一人一人を認識していない」という考えに多くの人々が衝撃を受け、完全に間違いだと思うでしょう。それなら聖書や他の経典に書かれていることはいったい何なのだと?神が面倒見てくれないのなら、誰が私たちを見守てくれるのだろうか? 私たちが日日正しく徳の高い生活を送っているかどうかを、誰が見てくれているのだろう?無慈悲な行動をした人々をいったい誰が審判を下し、罰してくれるのだ? 天国行きの人と地獄行きのひとを振り分けてくれるのは誰だろう?   この信念が正しいとしたら、山ほどの疑問が沸いてきます。

・・・

(確かに傍線の部分は、一見かなり衝撃的な表現とは思えます。創造主・根源存在たるものが、我々人間を意識していない?・・)

・・中略・・・

・・・・p062・・・・

さらに「叡智」より:神は我々を自らの姿に似せて創った。(ゆえに我々はただちに始まりの瞬間からの)自己自身を知ることができる。これこそ真の創造主の本質ー解放である。

我々は創造された瞬間から完全に自由な「全体」であり、ただちに創造における私たちのユニークな位置に気づくことができる

創造主は我々を通して自身の創造の『証人』となり我々自身となる。創造主は我々のことを案じることはない。(なぜなら)我々は創造主自身の鋳型であるからである。

・・・・・・・・・以上抜粋・・・・・・

 

 上記の一見謎の表現は、『創造主』なる者は、『人間』を他者として意識してはいない言うことを意味しています。創造主はその無限であるがゆえに、我々1つ1つとして、無限に自分自身を現しているのです。それが人間という位置であるわけです。

 自覚するのもしないのも、誰かのせいではなく、一に、「あなた」にこそ、その全責任があるようなものです。別の側面から言えば、それは宇宙創造の申し子である人類・霊長類の誇りでもあり、責任でもあるのかもしれません。

 それであればこそ、うらぶれた情けない姿も、神々しい姿も、自由に演じられることができるのです。何を経験するのか自由自在でありながら、不思議にも、それを自覚していない状態、それが今の人類の大方の有り様でもあるようです。

 今この瞬間に生きている、存在している・・という真実にだけは、せめて、もうこれ以上の蓋をしないようにしたいものです。我々は、あるがまま、何物も獲得する必要のない存在であることをそれこそ必死で「思い出す」ことが、この地球生命学園のテーマでもあったのでしょう。

多くの人々は、たとえ今は忘れていても、ここに入園してきた時があったのです。

 なお、数万年以上の間、営々と続けられてきたこの地球生命学園は、今すでに変わりつつあるようです。それを信じる・信じないにかかわらず、我々を受け入れてくれているこの地球に対して、今こそ、心底感謝すべき時なのではないでしょうか。同じこの無限の『創造』に参加している一員として。

Chikyu0085_2

 

本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。