気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

人と宇宙

2009-03-14 11:40:37 | 宇宙的気付き

 「汝自身を知れ。そうすればすべてがわかるだろう」 という言葉を、誰しも聞いたことがあると思います。「なるほど」、という、どこかこころの奥からの直感的な納得のようなものを感じながらも、一体なんだろうか、どうすれば自分を知ることが出来るのだろうと、その瞬間で考え、結局はよくわからないという、こころの反応で終ってしまうようです。一体全体自分を知るという事がどんなことなのか、なかなかすぐに理解できるものではないようです。

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フリー百科事典「ウイキペディア」より抜粋

古代ギリシアの賢人の中でこの格言の作者と言われたことがあるのは少なくとも以下の6人である。

  ・ヘラクレイトス ・ピュタゴラス ・ソクラテス ・アテナイのソロン ・ミレトスのタレス

デルポイの最初の巫女といわれる神話的詩人フェモノエの言葉とする文献もある。また、ローマの詩人ユウェナリスは、中庸や自己認識についての議論においてこの格言を引用し、天からの(de caelo)教訓であると述べている(『諷刺詩』11.27)。

自分自身を理解するということは結局のところ他者をも理解するということであるから、この「汝自身を知れ」という格言は人間の行為・道徳・思考を理解するという理念を表すものと拡大解釈されることがある。しかし、古代ギリシアの哲学者は、決して人間の精神や思考を完全に理解することはできないと考えており、ゆえに自身を完全に知るなどということは考えられなかった。よって、この格言は人間の理解という大きな理想を語ったものではなく、普段の生活を送る中で自分が立ち向かうところの人間的性質の諸相を知るということ、たとえば、自身の習慣・道徳・気質を自覚し、自分がどれだけ怒りを抑制できるかを把握する、といったようなことを指しているものである。

また、この格言には神秘主義的な解釈もある。その場合、「汝自身」というのは「己の分をわきまえぬ自惚れ屋」を意味しているのではなく、自己の中の自我、つまり「我あり」という意識を意味している

この格言はラテン語では普通 "nosce te ipsum" という。

----------------以上抜粋

●直接知と間接知

 我々は日常の単調な五感の刺激による生活を繰り返しており、その小さな窓からの世界観だけではなかなか気づきや意識が広がらないものです。観点を自在に拡大縮小できるのは人間の想像力、思考の賜物ですが、その無限に自由な想像力を、宇宙、自然の中に現われている「意識」に同調するような方向で使うことで、様々な真実を直感的に把握することが出来るのではないかと思います。

 古くからある瞑想、観想、修行などの方法は、その直覚知への試みです。「直覚知」でも科学の観測による「間接知」でも、「それがそうだ!と実感する意識になることが目的であるのは同じことなのです。まさにそうだ・という認識までの行程です。証拠を提示してゆくことで認識を得るのが、いわゆる科学的と言われてきた方法でしょう。疑いを友として歩いた道のようです。

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ただ「直覚知」は、イメージの一人歩きや思い込みとの混同に気をつける必要があり、科学等による間接知の場合は、「細分化による混乱」や「考えすぎ」に注意が必要です。

真理へのそれぞれ異なる道ですが、最終的に 「まさにこれだ!と感じる」までの道のりです。

 

●人体も無限に近い数の素粒子の集まり

人間は有限の容積を有する身体をもっていることは、どんな人にも理解できます。その時空的に有限のエリアを占有するだけの人間の身体も、素粒子・原子で構成されているのは、ミクロの有様を覗ける顕微鏡を見たことがない人でも否定はしないものです。

身体を構成する細胞は数兆以上と言われており、それを構成する原子の数は、それはもう数える、カウントするというレベルを超えています。さらにそのような原子を構成する素粒子・クオークの数など到底想像することなど出来ません。

 

●全ては意識的であり必然である

 それらの途方も無い数の素粒子たちは、我々の身体構造を作り上げているのが事実なのです。それらが、宇宙開闢以来の様々な粒子の相互作用、化学作用で偶然に寄り集まったものであると考えることは、正当でしょうか?

何も書いていない白いノートを置いておいたら、いつの間にか人間の精巧な小説になっていた・・というのと同じようなものです。例えそれが数十億年の間の出来事と云えども、無機的宇宙の諸法則による偶然の産物と考えることに一体全体正当性があるものでしょうか。

 ただ単純に、素直に考えて、そこには大きな意図、意志があるからこそということでしょう。何も意図しないものがこの世界に起きるはずが無いと考えても決しておかしくはないのです。天気が変り、気分が変るのも、それは偶然でなく、眼に見える見えないに関わらずその原因があります。例えば、天気の変化は擬人化された風神雷神の意図ではなく、宇宙の中の何がしかの意識によっているということであり、それらは複合された法則の現象化ということも言えます。

●日常にある意識的必然性

 我々の日常のあり方と同じく、宇宙全体に意識、意図があるものと考えておかしくありません。原因が無ければ結果は出ないという因果律は、物と物の相互の因果関係だけでなく、意識とその顕現にもあるのです。

 人間のこころと実際の生活での結果の照合は、その、こころの複雑さゆえに、かなり解りにくいと考えられますが、この、人間に顕著に現われている、こころ、意識作用というものは、我々の認識する世界の原因であるということに尽きるのです。

 食事も睡眠もトイレも最終的には意図によります。怒りも悲しみも意識作用でしょう。憎むも憎まないも笑うも笑わないも、意識的・無意識的に関わらず、そう意図しています。意図していないと思うのはどうも間違いで、それを単に制御していない・に置き換えるべきでしょう。意識・意図なくして人間の社会は構築など出来ようはずもないものです。要は、各自の意識・意図に気づいていない分だけ、何事も野放図であり、それらを偶然として片付けるしかないのです。

  

●宇宙全体はその中の部分に畳み込まれている

 先般記事にした、アービン・ラズロの唱える「宇宙全一性」の概念を理解出来れば、この「汝自身を知れ」 も少しながら理解が可能かもしれません。

 「宇宙全一」というのは、世界の部分部分が瞬時に全体と連携している、あるいは瞬時の情報交換を行なっている可能性を言うようですが、部分としての個々の要素のなかに、全てが畳み込まれているという表現も可能でしょう。

 瞬時の情報伝達という、無機的な表現でありますが、これは「部分」の中に、「全体」の情報がすべて「在る」とも言えます。瞬時であれば、それら相互の間には、時間と空間は無いのと同じです。瞬時ともいえるの素粒子の情報交換を元にした帰納的な世界観ですが、それが事実としての解明が行なわれれば、実に無限と有限が、全体と部分が一見不可思議な関係として「完全に調和」していることになります。

 何百億光年先の銀河群も今ここに、この宇宙に存在しているということは、やはり何かの瞬時のつながりをうかがわせます。我々の概念である光の速度は有限でも、時空という物理的カテゴリーを超えた別のもの(波動)による「情報」伝達があるようです。その一端の現象を捉えたのが昨今の素粒子の瞬時とも言える情報共有といえるでしょう。

情報共有というのは意思疎通と意訳的に解釈してもいいかもしれません。素粒子レベルでの意識的作用ともいえるでしょうか。

●人間それぞれも宇宙の中心

 そうであれば、我々1人1人が宇宙と繋がっている、1人1人の中に宇宙のすべてが畳み込まれているということは大いにあり得る話ではないかと思います。我々が、ひ弱な肉体という有機的な物質の塊であり、積み木の1つにもカウント出来ないような者である・・という概念は、当然ながら消えてしまいます。

 宇宙のあらゆる情報、諸現象の因、物質的・無機的形態から、組織的有機的形態、それらの総合した生命形態、また生命形態の意識的作用・活動などのあらゆる情報が、その無限の全体宇宙のなかの、1小部分に畳み込まれているということになります。

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仏画の曼荼羅等も、実は存在世界の全て、部分それぞれが中心でありながら、階層構造や有機的なつながりを瞬間的に実現しているということを示しているようです。それらは仏様の序列などではなく、まさに山川草木国土悉皆成仏を表しています。

 個々の完全な個性は、全体性が個に内在しているがゆえのものであり、また全体性は完全なる個々の調和がゆえのものである・・とも解釈できます。

 

 

●宇宙はホログラフィック?

 これは例えば3次元ホログラムの原理と同じであり、ホログラムでは、全体を記録した光干渉記録板を、細かく裁断した場合でも、その細かく裁断した1小部分を再生すると、全体が現われるものです。

 マイケル・タルボットの「ホログラフィック・ユニバース」という著作があります。波動で構成される宇宙、その宇宙の中の微小部分にも、全体が組み込まれているのが、宇宙の有様であり、1つ1つの岩石といえど、人間1人1人といえども、宇宙の全体が畳み込まれているそのようなものと理解することが出来ます。

 宇宙の巨大な物量が組み込まれていると言うことではなく、存在の原因たるものが全てに渡って存在しているということであり、また存在のあらゆる情報や意識の全てが、部分部分にも満たされてあるということでしょう。物量はシナリオの顕現した結果であり、結果の世界の多様性のみに意識を奪われていては、その原因を真に知ることは難しいのです。物量は結果であり、物量それ自体が、物量それ自体を新たに生み出すことは出来ません。

 

●知ることで自己の周りの光が増す

 少なくとも、人間とはなにかということに対する我々の認識が、単に物質的・肉体のレベルであったとしても、その構成微粒子は全宇宙とのつながりを有していることは、驚愕の念を抱かざるを得ないわけであり、その全貌は未だ理解出来ないとしても、今まで見えなかった自分という存在の周辺にも光が当たるようになり、自分と世界を見るための視界が晴れてきたようなものではないでしょうか。今は遥か先にしか見えないとしても、遠くに確実に現われた山々をしっかりと見える位置に来たということも出来るでしょう。

●先達からの悠久につづく叡智

 いままで古代からの叡智として続いてきたメッセージは、それを悟っていた覚者、先達からのものであり、一定の時間という揺りかごの中から、再び目覚め始めたのではないかと思われます。長い時間にしっかりと種を温存してきた悠久の叡智は、今の時代になってようやく土から這い上がり花を咲かせることが出来るのでしょう。

人々は、今ようやく、間違いなく目覚め始めています。

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●宇宙は人間の反転したもの

 ご存知のように、宇宙はあのように無限に広がり、そのなかで数え切れないほどの恒星、惑星を有しています。その宇宙を眺めている我々は、我々自身を眺めているのかもしれません。

 我々人間の人体の輪郭の外側は、全て外の世界、宇宙として認識していますが、実は人間の輪郭の外側とは、人間の輪郭の内側の「反転した」ものだと思えないでしょうか。我々がいるからこそ宇宙があると言う意味でもあります。それも無数の我々があるからこそ無数の宇宙が在るということは、汎神論・唯心論という 「カテゴリーのふた」 をかぶせるだけではすまないものを感じないでしょうか。

 「汝自身を知れ!そうすれば全ては知られるものとなろう」

・・・・・・

ところで、あなたは今この瞬間に、参加していますか?

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本日も、拙い記事をご覧頂きまして誠にありがとうございました。

(200記事めなので絵が多い(笑))