今回は宇宙文明に関連するものです。1950年代~1970年代まで、特異な活躍をしたUFO研究家にジョージ・アダムスキーがいました。彼は宇宙船・円盤に乗ったということで、その衝撃の体験談を発表し、米国その他で賛否両論が巻き起こったようです。賞賛や陰湿な嫌がらせや、とにかく大きな台風のようなものが巻き起こったわけですが、本人の他界により今はその記録や余韻を留めるだけになっているようです。
コミュニケーションの進展しつつあった前世紀の中ごろに、宇宙からの情報提供という事件が起きたことは、ある意味で最も大きいインパクトであったかも知れません。逆に、あらゆる情報の溢れる現代で、このようなことがあったとするならば、それは多分あっという間に、他の溢れる情報に上書きされてしまったことでしょう。結局分けがわからない情報の渦の中に、貴重なものが流されてしまっただろうとも思います。
このアダムスキーの体験談や思想などが真実であるのかどうかは、実に体験した人間にしかわからないわけですが、特異な体験、思想であればこそ、逆に真実であるかもしれないという信憑性に気付くかもしれません。見た、聞いた、らしい、みたい、ウソだ、ほんとだ・・といういつもながらの表層だけでの観念でそれを捉えずに、理性をもって思索する、主観を交えず観察する、そして直覚で捉える・・という意識を総動員した判断が必要であると思います。今ではこのコンタクティーの体験を知らない人も大勢います。しかしながら、このような体験が、地上の1点から拡大して大きな輪となり、地球全体に伝播された波は今も消えずにあるようです。何かの意図が無ければこのような波紋は起きなかったでしょう。その現象を起こす、その意図をどう捉えるか?というところに「大きな扉」のキーがあると思われます。それはなんだと思いますか?
下記は「Inside the Space Ship」(UFO同乗記:ジョージ・アダムスキー(角川文庫) ) という本からの抜粋です。温故知新というように、古い・新しいという時間経過感覚は、真実からみれば、たんに海の表面の波のようなものであり、本質は常に時間に関係ないようです。
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UFOに同乗したときに会見したという、大師と言われる宇宙存在からのメッセージの抜粋です。米国での体験談でありますので、多少キリスト教的表現も伺えますが、何事においても、時代や文化的な表現などの装飾によらない、その真髄を感じることが大切ではないかとも思います (●サブタイトル・・は本記事作者の付加文です。)
●生と死について
地球と同じように、他の惑星でも死はおこる。
しかしわれわれはそれを死とは言わない。
また地球人のように去りゆく人を悼みはしない。
この別離は状態や場所の変化にすぎないことを知っているからだ。
ある家から別の家に引越しするのと同じだと思っているからだ。
●肉体は仮の住まい
ある場所から別の場所に行くのに、家をかついで行くことは出来ない。
死によってこの世界から他の世界に移るのだ、我々は家である肉体をもっていくわけにはいかないのだ。
地球人の肉体を構成している物質は地球の所有物であり、地球を維持するためにそこに残らなければならない。
だが地球から他の星へ移るとき、その世界はそこに存在する必要と条件に応じて、肉体という家を建てるだけの材料を貸してくれるはずだ。
●宇宙は無限・人はその顕在
地球人が考えている「宇宙」は実に狭い、「宇宙」を無限なるものと考えることができないのだ。
なのに永遠という言葉を使っている。
永遠とは、地球人の定義によれば、始めも終わりもないことだ。
とすれば「宇宙」はどれだけ広いのか。永遠と同じだけ広いのである。
とすれば、人間はかりそめの姿ではなく、永遠の権化だといえよう。
我々はこの真理を体得しているから、常に永遠の今に生きている。真理とは常に現在だからである。
●人間とはなにか
われわれの意識的知覚はかなり進んでおり、至福の念を持たなくては人々の間に座っていられないくらいになっている。
われわれの前に人々が立っていること自体が至福なのだ。
というのは、われわれは人々を単に人間とは見ず、人間を通して生きてきた姿で現れた「神の叡智」として見るからだ。
あらゆるものに対してわれわれはこのような見方をしている。
われわれは、「神の叡智」が、極小なものから極大なものまで、ありとあらゆる存在の成長を通して、自らを表現していると見ている。・・・・中略・・
眠っているときですら、一瞬たりともわれわれはこの「神の現前」を感じないことはない。
これが人間という種族の本当の目的なのだ。
人間はそのためにつくられたのだ。
他の万物はそれぞれ特殊な分野で全体に奉仕しているけれども、人間は鉱物その他の元素が、「神の叡智」の最高形態を表現できるほどまでに発展した姿なのだ。
・・・以上抜粋終わり。
百歩や千歩譲ろうとも、この宇宙は壮大な生命の場であることは自明とも思われます。遠くを知らなければ身の周りのことがわからないわけはありません。宇宙の果てに行かなければ宇宙全体が理解出来ないというのは、有限の時間・空間に縛られている思想だろうと思います。今この瞬間にあるわれわれの知覚範囲、生活、生きてあること等は、全宇宙が同意してこそ在る・・ともいえる訳であり、宇宙の法則と言われるものは、今われわれ自身が体現していることに気付く必要があるのだと思います。
宇宙文明とは科学技術の高度に発達した文明であると言うのは、誤謬にすぎません。科学技術は宇宙や生命、そして自分とは何か、という問いに対して、その時々で真摯な答えを出し続けていく過程で得られる副産物にすぎないでしょう。この地球学習圏においても、人間とはなにか?という問いに答え始めなければならない時期が、もうそこにきているようです。