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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

宇宙時代の思想の一端

2008-05-04 10:28:25 | 偉大なる先達の言葉

Mir_sts63_j 今回は宇宙文明に関連するものです。1950年代~1970年代まで、特異な活躍をしたUFO研究家にジョージ・アダムスキーがいました。彼は宇宙船・円盤に乗ったということで、その衝撃の体験談を発表し、米国その他で賛否両論が巻き起こったようです。賞賛や陰湿な嫌がらせや、とにかく大きな台風のようなものが巻き起こったわけですが、本人の他界により今はその記録や余韻を留めるだけになっているようです。

 コミュニケーションの進展しつつあった前世紀の中ごろに、宇宙からの情報提供という事件が起きたことは、ある意味で最も大きいインパクトであったかも知れません。逆に、あらゆる情報の溢れる現代で、このようなことがあったとするならば、それは多分あっという間に、他の溢れる情報に上書きされてしまったことでしょう。結局分けがわからない情報の渦の中に、貴重なものが流されてしまっただろうとも思います。

 このアダムスキーの体験談や思想などが真実であるのかどうかは、実に体験した人間にしかわからないわけですが、特異な体験、思想であればこそ、逆に真実であるかもしれないという信憑性に気付くかもしれません。見た、聞いた、らしい、みたい、ウソだ、ほんとだ・・といういつもながらの表層だけでの観念でそれを捉えずに、理性をもって思索する、主観を交えず観察する、そして直覚で捉える・・という意識を総動員した判断が必要であると思います。今ではこのコンタクティーの体験を知らない人も大勢います。しかしながら、このような体験が、地上の1点から拡大して大きな輪となり、地球全体に伝播された波は今も消えずにあるようです。何かの意図が無ければこのような波紋は起きなかったでしょう。その現象を起こす、その意図をどう捉えるか?というところに「大きな扉」のキーがあると思われます。それはなんだと思いますか?

 下記は「Inside the Space Ship」(UFO同乗記:ジョージ・アダムスキー(角川文庫) ) という本からの抜粋です。温故知新というように、古い・新しいという時間経過感覚は、真実からみれば、たんに海の表面の波のようなものであり、本質は常に時間に関係ないようです。

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 UFOに同乗したときに会見したという、大師と言われる宇宙存在からのメッセージの抜粋です。米国での体験談でありますので、多少キリスト教的表現も伺えますが、何事においても、時代や文化的な表現などの装飾によらない、その真髄を感じることが大切ではないかとも思います (●サブタイトル・・は本記事作者の付加文です。)

●生と死について

地球と同じように、他の惑星でも死はおこる。

しかしわれわれはそれを死とは言わない。

また地球人のように去りゆく人を悼みはしない。

この別離は状態や場所の変化にすぎないことを知っているからだ。

ある家から別の家に引越しするのと同じだと思っているからだ。

●肉体は仮の住まい

ある場所から別の場所に行くのに、家をかついで行くことは出来ない。

死によってこの世界から他の世界に移るのだ、我々は家である肉体をもっていくわけにはいかないのだ。

地球人の肉体を構成している物質は地球の所有物であり、地球を維持するためにそこに残らなければならない。

だが地球から他の星へ移るとき、その世界はそこに存在する必要と条件に応じて、肉体という家を建てるだけの材料を貸してくれるはずだ。

●宇宙は無限・人はその顕在

地球人が考えている「宇宙」は実に狭い、「宇宙」を無限なるものと考えることができないのだ。

なのに永遠という言葉を使っている。

永遠とは、地球人の定義によれば、始めも終わりもないことだ。

とすれば「宇宙」はどれだけ広いのか。永遠と同じだけ広いのである。

とすれば、人間はかりそめの姿ではなく、永遠の権化だといえよう。

我々はこの真理を体得しているから、常に永遠の今に生きている。真理とは常に現在だからである。

●人間とはなにか

われわれの意識的知覚はかなり進んでおり、至福の念を持たなくては人々の間に座っていられないくらいになっている。

われわれの前に人々が立っていること自体が至福なのだ。

というのは、われわれは人々を単に人間とは見ず、人間を通して生きてきた姿で現れた「神の叡智」として見るからだ。

あらゆるものに対してわれわれはこのような見方をしている。

われわれは、「神の叡智」が、極小なものから極大なものまで、ありとあらゆる存在の成長を通して、自らを表現していると見ている。・・・・中略・・

眠っているときですら、一瞬たりともわれわれはこの「神の現前」を感じないことはない。

これが人間という種族の本当の目的なのだ。

人間はそのためにつくられたのだ。

他の万物はそれぞれ特殊な分野で全体に奉仕しているけれども、人間は鉱物その他の元素が、「神の叡智」の最高形態を表現できるほどまでに発展した姿なのだ。

・・・以上抜粋終わり。

百歩や千歩譲ろうとも、この宇宙は壮大な生命の場であることは自明とも思われます。遠くを知らなければ身の周りのことがわからないわけはありません。宇宙の果てに行かなければ宇宙全体が理解出来ないというのは、有限の時間・空間に縛られている思想だろうと思います。今この瞬間にあるわれわれの知覚範囲、生活、生きてあること等は、全宇宙が同意してこそ在る・・ともいえる訳であり、宇宙の法則と言われるものは、今われわれ自身が体現していることに気付く必要があるのだと思います。

宇宙文明とは科学技術の高度に発達した文明であると言うのは、誤謬にすぎません。科学技術は宇宙や生命、そして自分とは何か、という問いに対して、その時々で真摯な答えを出し続けていく過程で得られる副産物にすぎないでしょう。この地球学習圏においても、人間とはなにか?という問いに答え始めなければならない時期が、もうそこにきているようです。


虚空の舟 その2

2008-04-05 17:24:39 | 偉大なる先達の言葉

虚空の舟、第2回目です。

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力もない

何一つ成就することなく、どんな評判もない

誰を裁くこともないゆえ

誰一人彼を裁きはしない

こんな人こそ完璧な人

その舟は空っぽだ

これがあなたの航路となる

自分の舟を空(から)にしなさい

舟の中でみつかるものは

それが何であれ投げ捨てていくがいい

何も残らなくなるまでつづけなさい

何も残さないことだ

あなたの存在はただ空っぽになるだけだ・・

最初にして、最後のこと、それは空っぽになることだ

ひとたび空っぽになったなら、あなたは満たされる

あなたが空っぽのときには

<すべて>があなたの上に降りてくる

虚空だけが

<すべて>を受け取ることができる

ほかのなにものでもない

なぜなら

<すべて>を受けとめるためには

あなたは空っぽに、いっさいの境界線のない

虚空になっていなければならないからだ

そうしてはじめて<すべて>が受けとめられる

あなた方の頭(マインド)はあまりに小さいから

<神性>を受けとめることはできない

あなたがたの部屋は小さすぎて

<神性>を招待することはできない

・・・・・・・・・・・・・・

みじめな気持ち、 怒り、 自我、 嫉妬、 苦しみ、 痛み、 快楽

見つかるものは何でもだ

すべて投げ捨てなさい

どんな区別もしないで

選択などいっさいしないで

ただ自分を空にするがいい

そしてあなたが全面的(トータル)に、空になったとき

突如としてあなたは全体であることを

<すべて>であることを見るだろう

虚空を通じて<全体>が達成される

---------------バグワン・シュリ・ラジニーシ(虚空の舟)

この言葉のなかに、我々がいま必要な真髄が現れています。色々なものに依存している我々は重りを付け合って眠っているのでしょうか。子供のような心をもった自由な存在だけが、「何でもない人」として、「なにももたない人」として、本当に目覚めているのかもしれません。いや、間違いありません。魂のレベルでは決して誰にも依存していない、キラキラした瞳をもった子供達はそれを教えてくれるでしょう。子供達は虚空の舟のようです。

 

 自我(エゴ)というのは、今回生まれてからの一連の記憶と、この社会で生きるために蓄積した、個人個人の一時的な価値観の集合のことでしょう。それにしてもそれぞれ千差万別ですが、いづれにしても一時的な体験集であり、我々が後生大事に、一生を賭けて追いすがるべきものではありません。それらは体験・修行なのです。地位も、名誉も、富も、肉体も、快楽も、怒りも、悲しみも、体験修行でしょう。それを体験する生きとおしの「存在」がいわゆる「真我」であり、それを経験・学習している存在そのものであり、「私」といえるでしょう。外に気を取られている、本当の自分とも言えるでしょうか。

 マインドというのは日常の五感感覚を元にした、心の働きの全てのことを言います。暖かい、冷たい、痛い、気持ちいい、不快な、嫌な、・・ありとあらゆる感覚・感情・考え・思い等のことです。これも生まれてからこれまで、個人個人で蓄積した相対的なものといえます。外の世界への依存は執着であり、いわゆるカルマの要素なのでしょう。外の世界のありとあらゆる体験自体に、なにか神聖なものがあるという錯覚でありそうです。

 外の世界の経験は、それらが仮想のものであるという、気付きを促すためのものでしかありません。神聖なのは体験する内容ではなく、外の世界の移り変わりを体験している「私」であり、あたかも虚空のようです。人生が、どんなものも、結局は全てありがたいというのは、それを経験している本体:真我を思い出すことが出来るからです。その真我は、この相対的な時間・空間のどこにもない・空(くう)であることに気がつくでしょうか。

 その時々で、あれだ、これだと自己同化を繰り返している自分、その自分を生かしている、意識・働きそのものが本当の私であるのでしょう。あれでもない、これでもない・・と言っている私そのものは、不変であり空であるといえるのです。空(くう)は宇宙すべてを含んでいるのがわかれば、自分が全体であることもわかるはずでしょう。 空(くう)は全てを含むから空(くう)であり、どんなことも在り得る無限の可能性のことでしょう。無限に発散して消えてゆくという間違ったイメージは、これまたマインドの幻想です。

 今ここに在る、ということは永遠に在るということであり、そうであれば、一体何を得る必要があるのでしょうか。マインドは物乞いのように、あれこれ求めて築き上げ、いつも虚しく消えてゆきます。いつも後に残るのは、その人生の記憶のみです。

 今が永遠であるということは、言葉の遊びでは決してありません。事実そのとおりであるわけです。理由などないのが永遠の私なのです。必要なことは、今この瞬間、それに本当に気付くことだけなのでしょう。

私は本当にそう思っています。


虚空の舟

2008-03-30 09:16:06 | 偉大なる先達の言葉

今回は<タオ(道)>からのメッセージです。バグワン・シュリ・ラジニーシの言葉をご紹介します。ほんの薄いバリアしかない、<あちら>と「こちら」の認識・実感のちがいが少しわかるかもしれません。 先を行く方々の残したメッセージは味わい深いものです。言葉を通してでも、真実の波動が生じ、空っぽの心の中に反響を与えるものです。

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「荘子 虚空の舟」より

・・・・・・・・・・・

1つの道は内側に入ってゆく方法だ

この「なんでもない者」を取り除こうとするのでなく

それに目覚めようとすることだ

これこそ荘子が言っていることだ

「空っぽの舟」になるがいい ただ内側に入っていって

自分がなんでもない人間であることに目覚めるがいい

自分が何でもない存在であることに気付く瞬間

あなたは新しい次元に向かって爆発する

なぜなら

人が自分は何でもない人間だと覚醒するときには

その人はまた

自分が<すべて>であることにも目覚めるからだ (虚空の舟・第六話より)

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舟が自分の肉体であり、乗客が「私」であるならば、わたしは「舟」にも乗ることのできる「私」であり、あらゆる景色を観る私でもあり、舟が景色のなかのほんの1つであることを観る私でもあるのでしょう。元々小さな舟は空っぽであるわけです。

 

・・・・・・

保証とは全て不誠実ゆえにあるものだ

あなた方は保証する、約束する、こんなことを言う

「これがその保証です。必ずやってみせましょう。」

が、あなたがそう保証しているあいだ

その瞬間にすでに不誠実がそこにある

完全な誠意はどんな保証もない

なぜなら完全な誠意とはあまりに目覚めているからだ

多くのものごとに目覚めているからだ

まず、未来は未知だ

どうやって保証などできる?

<生>は瞬間ごとに変化している

どう約束できるね?

どんな保証も、どんな約束もこの瞬間のものでしかない

次の瞬間のためにできることなど何もない (同上第四話より)

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つ言えるかもしれないことは、今この瞬間には<無限の未知>がある故に、誰かが保証など出来るものではない、ということでしょう。予測された未来などなく、刻々変ってゆくものであり、そうであるが故に、自分の今を瞬間瞬間観ていることが奇跡なのでしょう。

不確定なる世界を刻々瞬間で、確定させ続ける「意識」をもっているのは誰でしょう。例えあなたや私が神なるものになったとしても、それはいつも始まりであって、決して終わりではないということでしょう。