誰でもふと気づけば、
いつの間にか歳をとっている自分に気が付くだろう。
鏡で顔を見ると、明らかに若いころとは違うことがわかるが、
鏡を見ている私は、そうそう変わっていないことに気付くはずだ。
内側は変わっていないが、外側が老けて見えるなあ、
あー、結構年をとったなあ、と思うことがあるはずである。
これは年齢にはかかわりなく、誰でも経験しているはずだ。
・・
あなたはどうだろうか?
いつまでも青年、少女の頃のままであろうか?
いいや、そうではあるまい。
内側は、つまり鏡のこちらがわは変わっていない、
こちら側というのは、鏡の前の体・・ということではなく、
それを観ている・・わたし・・の<意識>である。
そう、私の意識・・は、
年齢や歴史、環境変遷、人生の変化にかかわらず、<不変>なのである。
いやいや、長年の経験を積んだので、若いころとは違うよ・・、
・・と言うかもしれないが、
ここでのわたしは、記憶の量や内容ではなく、
自分への「気づき」そのもの・・ということ。
外見の変化を観察し、それを知るのは誰だろうか?
顔や姿が変わったことを・・最終的に・・「気づいている」・・者だ。
生まれてから、物心ついて、さまざまな経験で、
精神の働きが成長し、記憶が増えたとしても、
それらの変化を知っている・・識(し)っている、
意識、あるいは「気づき」自体は・・不変なのである。
自分がどんどん変わってきたことを知っている者、
意識自体は・・変わっていない・・、不変なのである。
不変というか、不動というか、静寂というか、・・絶対というか、
なんとも表現できない、それ。

不変の、それは誰なのか?
誰だ・・といえば、すぐにこの自分の体のイメージで、
私という個人か?とか、どこかの人か?となるが、
まったく、そうではなく、
「あー、私は歳をとったなあ・・」と、いつも、
気づいている・・のは誰か、あるいは何か?ということだ。
結局のところ「不変の・・わたし」なのである。
あるいは「気づき」そのもの・・ということだ。
そう、気づきは・・変化せず、変化することを知る・・者。
それは「こころ」、「思考」、「イメージ」ではく、
それら自体に・・気づく・・者のことだ。
それに、気づいただろうか?(笑)
身体は変化する・・・・
環境は変化する・・・・
こころも、ころころ変化する・・・
そう、心、想念、思考の束、あれやこれやのイメージ、
思考は、意識に生じる大波小波のように、変化、変遷そのもの。
しかしながら、それらすべてに「気付いている」のは誰か?
あれはこうだ、これはそうだ・・等と言うこと、あるいは思うことは、
本当に常に、目まぐるしく変化しているし、
まさに変化そのものだ。
毎日も、毎週も、毎年も・・・瞬間・瞬間それは「変化」そのもの。
それらの変化に気付いている、
「あー、すべてが変化しているなあ・・」と気づいている者は、
逆に、といえば相対的になるが、
変化に気づいている者自体は・・・不変なのである!
変化は、何m、何kg、何日、何枚などと、測量、測定などすることが可能だが、
その・・変化に気付いている者・・は、測定、観察不可能である。
なぜならば、物量変化・・自体に気づくもの、観るものそのものだからだ!
「意識」、あるいは不変なる「気づき」・・こそが、変化せず、常に在る・・。
いや、常在・・常に在る者・・普遍の存在・・ともいえる
在る者・・といっても、人間の肉体個人ではない。
そういう「目に見える物」ではなく、物や事象を・・観るもの・・だ。
それを「意識」、「気付き」等と言っている。
-------
誰でもふと気づけば、
いつの間にか歳をとっている自分に気が付くだろう。
鏡で顔を見ると、明らかに若いころとは違うことがわかるが、
鏡を見ている私は、そうそう変わっていないことに気付くはずだ。
内側は変わっていないが、やだな~ずいぶん老けて見えるな・・、
あー、結構年をとったなあ、
などと思うことがあるはずである。
これは年齢にはかかわりなく、誰でも経験しているはずだ。
鏡に映し出される変化している自分の顔や姿、
それを見ているのは、
あなたの目ではなく、網膜ではなく、
視神経ではなく、神経情報を受ける頭脳細胞ではない。
それら機能を通じて、観ている者が・・わたし・・である。
わたしは・・私個人、肉体細胞、身体機能ではなく、
<意識>、<気づき>である・・と、そいういうことである。
そして、気づき、意識・・は、
歴史や時間の変遷、空間、環境の変化に影響されることはなく、
言い換えれば、
意識、気づきは、相対的、物量的なものではないことに気付くならば、
いわば時間や空間、観測される物量、物質の次元のものではないため、
それを知覚し、それを含み、またそれを貫き、また超えている。
そう、意識において、わたしは根源、または真我でもある・・。
実に、なんということだろうか!
なるほど、真理は・・いつでも、どこでもあるものだ。
常在の真実は・・一時の幻想の絵巻を観ている者であり、
痺れるような刺激や、目くるめく快感、
顔をゆがませるような苦痛とは、全く無縁のものでありつつ、
いつでもどこでも・・在る・。
わたしは何か?と問うている、あなたは何?
いつの間にか歳をとっている自分に気が付くだろう。
鏡で顔を見ると、明らかに若いころとは違うことがわかるが、
鏡を見ている私は、そうそう変わっていないことに気付くはずだ。
内側は変わっていないが、外側が老けて見えるなあ、
あー、結構年をとったなあ、と思うことがあるはずである。
これは年齢にはかかわりなく、誰でも経験しているはずだ。
・・
あなたはどうだろうか?
いつまでも青年、少女の頃のままであろうか?
いいや、そうではあるまい。
内側は、つまり鏡のこちらがわは変わっていない、
こちら側というのは、鏡の前の体・・ということではなく、
それを観ている・・わたし・・の<意識>である。
そう、私の意識・・は、
年齢や歴史、環境変遷、人生の変化にかかわらず、<不変>なのである。
いやいや、長年の経験を積んだので、若いころとは違うよ・・、
・・と言うかもしれないが、
ここでのわたしは、記憶の量や内容ではなく、
自分への「気づき」そのもの・・ということ。
外見の変化を観察し、それを知るのは誰だろうか?
顔や姿が変わったことを・・最終的に・・「気づいている」・・者だ。
生まれてから、物心ついて、さまざまな経験で、
精神の働きが成長し、記憶が増えたとしても、
それらの変化を知っている・・識(し)っている、
意識、あるいは「気づき」自体は・・不変なのである。
自分がどんどん変わってきたことを知っている者、
意識自体は・・変わっていない・・、不変なのである。
不変というか、不動というか、静寂というか、・・絶対というか、
なんとも表現できない、それ。

不変の、それは誰なのか?
誰だ・・といえば、すぐにこの自分の体のイメージで、
私という個人か?とか、どこかの人か?となるが、
まったく、そうではなく、
「あー、私は歳をとったなあ・・」と、いつも、
気づいている・・のは誰か、あるいは何か?ということだ。
結局のところ「不変の・・わたし」なのである。
あるいは「気づき」そのもの・・ということだ。
そう、気づきは・・変化せず、変化することを知る・・者。
それは「こころ」、「思考」、「イメージ」ではく、
それら自体に・・気づく・・者のことだ。
それに、気づいただろうか?(笑)
身体は変化する・・・・
環境は変化する・・・・
こころも、ころころ変化する・・・
そう、心、想念、思考の束、あれやこれやのイメージ、
思考は、意識に生じる大波小波のように、変化、変遷そのもの。
しかしながら、それらすべてに「気付いている」のは誰か?
あれはこうだ、これはそうだ・・等と言うこと、あるいは思うことは、
本当に常に、目まぐるしく変化しているし、
まさに変化そのものだ。
毎日も、毎週も、毎年も・・・瞬間・瞬間それは「変化」そのもの。
それらの変化に気付いている、
「あー、すべてが変化しているなあ・・」と気づいている者は、
逆に、といえば相対的になるが、
変化に気づいている者自体は・・・不変なのである!
変化は、何m、何kg、何日、何枚などと、測量、測定などすることが可能だが、
その・・変化に気付いている者・・は、測定、観察不可能である。
なぜならば、物量変化・・自体に気づくもの、観るものそのものだからだ!
「意識」、あるいは不変なる「気づき」・・こそが、変化せず、常に在る・・。
いや、常在・・常に在る者・・普遍の存在・・ともいえる
在る者・・といっても、人間の肉体個人ではない。
そういう「目に見える物」ではなく、物や事象を・・観るもの・・だ。
それを「意識」、「気付き」等と言っている。
-------
誰でもふと気づけば、
いつの間にか歳をとっている自分に気が付くだろう。
鏡で顔を見ると、明らかに若いころとは違うことがわかるが、
鏡を見ている私は、そうそう変わっていないことに気付くはずだ。
内側は変わっていないが、やだな~ずいぶん老けて見えるな・・、
あー、結構年をとったなあ、
などと思うことがあるはずである。
これは年齢にはかかわりなく、誰でも経験しているはずだ。
鏡に映し出される変化している自分の顔や姿、
それを見ているのは、
あなたの目ではなく、網膜ではなく、
視神経ではなく、神経情報を受ける頭脳細胞ではない。
それら機能を通じて、観ている者が・・わたし・・である。
わたしは・・私個人、肉体細胞、身体機能ではなく、
<意識>、<気づき>である・・と、そいういうことである。
そして、気づき、意識・・は、
歴史や時間の変遷、空間、環境の変化に影響されることはなく、
言い換えれば、
意識、気づきは、相対的、物量的なものではないことに気付くならば、
いわば時間や空間、観測される物量、物質の次元のものではないため、
それを知覚し、それを含み、またそれを貫き、また超えている。
そう、意識において、わたしは根源、または真我でもある・・。
実に、なんということだろうか!
なるほど、真理は・・いつでも、どこでもあるものだ。
常在の真実は・・一時の幻想の絵巻を観ている者であり、
痺れるような刺激や、目くるめく快感、
顔をゆがませるような苦痛とは、全く無縁のものでありつつ、
いつでもどこでも・・在る・。
わたしは何か?と問うている、あなたは何?
