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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは・・何か(9)意識・気付き

2017-04-08 18:30:27 | 意識の拡大
誰でもふと気づけば、
いつの間にか歳をとっている自分に気が付くだろう。

鏡で顔を見ると、明らかに若いころとは違うことがわかるが、
鏡を見ている私は、そうそう変わっていないことに気付くはずだ。

内側は変わっていないが、外側が老けて見えるなあ、
あー、結構年をとったなあ、と思うことがあるはずである。
これは年齢にはかかわりなく、誰でも経験しているはずだ。

・・
あなたはどうだろうか?
いつまでも青年、少女の頃のままであろうか?
いいや、そうではあるまい。

内側は、つまり鏡のこちらがわは変わっていない、
こちら側というのは、鏡の前の体・・ということではなく、
それを観ている・・わたし・・の<意識>である。

そう、私の意識・・は、
年齢や歴史、環境変遷、人生の変化にかかわらず、<不変>なのである。

いやいや、長年の経験を積んだので、若いころとは違うよ・・、
・・と言うかもしれないが、
ここでのわたしは、記憶の量や内容ではなく、

自分への「気づき」そのもの・・ということ。

外見の変化を観察し、それを知るのは誰だろうか?
顔や姿が変わったことを・・最終的に・・「気づいている」・・者だ。

生まれてから、物心ついて、さまざまな経験で、
精神の働きが成長し、記憶が増えたとしても、

それらの変化を知っている・・識(し)っている、
意識、あるいは「気づき」自体は・・不変なのである。

自分がどんどん変わってきたことを知っている者、
意識自体は・・変わっていない・・、不変なのである。

不変というか、不動というか、静寂というか、・・絶対というか、
なんとも表現できない、それ。




不変の、それは誰なのか?
誰だ・・といえば、すぐにこの自分の体のイメージで、

私という個人か?とか、どこかの人か?となるが、
まったく、そうではなく、

「あー、私は歳をとったなあ・・」と、いつも、
気づいている・・のは誰か、あるいは何か?ということだ。

結局のところ「不変の・・わたし」なのである。

あるいは「気づき」そのもの・・ということだ。
そう、気づきは・・変化せず、変化することを知る・・者。

それは「こころ」、「思考」、「イメージ」ではく、
それら自体に・・気づく・・者のことだ。

それに、気づいただろうか?(笑)


身体は変化する・・・・
環境は変化する・・・・
こころも、ころころ変化する・・・
そう、心、想念、思考の束、あれやこれやのイメージ、
思考は、意識に生じる大波小波のように、変化、変遷そのもの。

しかしながら、それらすべてに「気付いている」のは誰か?

あれはこうだ、これはそうだ・・等と言うこと、あるいは思うことは、

本当に常に、目まぐるしく変化しているし、
まさに変化そのものだ。

毎日も、毎週も、毎年も・・・瞬間・瞬間それは「変化」そのもの。

それらの変化に気付いている、
「あー、すべてが変化しているなあ・・」と気づいている者は、
逆に、といえば相対的になるが、

変化に気づいている者自体は・・・不変なのである!

変化は、何m、何kg、何日、何枚などと、測量、測定などすることが可能だが、

その・・変化に気付いている者・・は、測定、観察不可能である。
なぜならば、物量変化・・自体に気づくもの、観るものそのものだからだ!

「意識」、あるいは不変なる「気づき」・・こそが、変化せず、常に在る・・。

いや、常在・・常に在る者・・普遍の存在・・ともいえる
在る者・・といっても、人間の肉体個人ではない。
そういう「目に見える物」ではなく、物や事象を・・観るもの・・だ。

それを「意識」、「気付き」等と言っている。
-------

誰でもふと気づけば、
いつの間にか歳をとっている自分に気が付くだろう。

鏡で顔を見ると、明らかに若いころとは違うことがわかるが、
鏡を見ている私は、そうそう変わっていないことに気付くはずだ。

内側は変わっていないが、やだな~ずいぶん老けて見えるな・・、
あー、結構年をとったなあ、
などと思うことがあるはずである。
これは年齢にはかかわりなく、誰でも経験しているはずだ。

鏡に映し出される変化している自分の顔や姿、
それを見ているのは、
あなたの目ではなく、網膜ではなく、
視神経ではなく、神経情報を受ける頭脳細胞ではない。

それら機能を通じて、観ている者が・・わたし・・である。

わたしは・・私個人、肉体細胞、身体機能ではなく、
<意識>、<気づき>である・・と、そいういうことである。

そして、気づき、意識・・は、
歴史や時間の変遷、空間、環境の変化に影響されることはなく、
言い換えれば、

意識、気づきは、相対的、物量的なものではないことに気付くならば、

いわば時間や空間、観測される物量、物質の次元のものではないため、

それを知覚し、それを含み、またそれを貫き、また超えている。

そう、意識において、わたしは根源、または真我でもある・・。

実に、なんということだろうか!

なるほど、真理は・・いつでも、どこでもあるものだ。
常在の真実は・・一時の幻想の絵巻を観ている者であり、

痺れるような刺激や、目くるめく快感、
顔をゆがませるような苦痛とは、全く無縁のものでありつつ、

いつでもどこでも・・在る・。


わたしは何か?と問うている、あなたは何?






わたしとは・・何か(8)根源からの質問

2017-04-04 08:57:20 | 意識の拡大

子供の時から仕込まれる、人生の基本路線、あるいは基本ストーリー、
それが幸福を得る道だと、そういう宣伝の・・実は苦悩の道、

しかしそれは、そこからいつか抜けることができるための、
そう実際それは、幸福追及の道という名の・・苦悩や苦痛だったのである。

子供の時からまず親から教わり、皆でわいわい集まって、
気づけばそこでお互いが競争するよう仕向けられ、
いつか仲良く?こずきあい、傷つけあい、涙を流す。

人生で苦痛や苦悩がつきものになるのはそこにある。
個人がバラバラだからなのである。
個人の権利、自由な主義主張、これら一見まともであるが、
それらはあらぬ方向に導かれることも可能な思考によって、
いとも簡単に、
全体から「分離」した、個々別々のわたし達の集団を作り上げる。

私、あなた、彼、彼女という個人がそれぞれ完全分離しており、
自己生存、自己主張、自己尊重を訴えつつも、
その秩序を保つための組織、国家、企業が必要とされる。

大衆の役割としては、結局は、
国家社会のために、あるいは企業組織、資本家のための
人的エネルギー資源のようなものになってしまう。

肉体個人の生存が大事ならば、
死んだら終わりだろ?、死にたくなければ、それを受け入れる・・と、
まあ、そんな仕組みなのである。

それが明らかになってきているということだ。
現世界を静かに観察している人々は頷けるだろう。


スピリチュアル系で、今人類は2つに分かれている等という話があるが、
それは、
わたしは肉体である・・と信じているのか?、
いや肉体ではなく、それ以上の存在である・と信じられるか?
という、そういう、
ある意味での、宇宙の進化システム上の進級命題であるともいえるだろう。

誰にとっても意味のなさそうな、お金にならなそうな、
人間関係を好転させるためになりそうもない、

根本的な問いを、いま行う時にある。

わたしとは誰か、わたしは何か?
そもそも・・わたしという自己認識、とは何か?
自分自身に・・気づいている・・ことはどういうことなのか?

まず言えることは、問いは、思い、思考によって行われるということであり、

肉体自体がものを言って、問いかけているわけではないことを、
知らなければならない。

頭脳神経がものを言っているなどという、
結局は思考に過ぎない唯物観念、
物質機能としての肉体自我の側面に引き戻されてはならない。

まず「思考」に・・気づかなけばならない。
それはまた、こころ、マインドとも言っている。

「わたしは肉体である」としているのは「思考」なのである。
わたしは肉体だというのは、
けっして真実でも事実でもない。

たとえ、
「あれ、そうなのか?、えーどうなのか?・・」としているのも思考なのである。
つまり、自分を規定しているのは、
思考、思い、想念である事に気づく必要があるということだ。

いつでもどこでも可能でありながら、
不可思議にも、あるいはよこしまな悪い勢力?のおかげで(笑)、
社会、世界がドン図まりの、行き止まりまで来てしまい、
とうとう、
おのれの中にあるトンデモナイ事実を、
数千年来気づかず知らずに来たそれを、
今・・思い出すのか、眠ったまま行くか・・と、そういうことでもある。

「わたしとは何か・・?]と問うている、あなたは何?




わたしとは・・何か(7)苦悩の向こうへ

2017-04-04 07:26:45 | 意識の拡大
人は皆毎日色々なことを体験している。
生きているということは、
何かを見て、聞いて、味わい、嗅ぎ、感じていること。
そうではないか?
「五感」という世界との窓口で、わたしは様々なものを体験している。

朝起きて、何かで働き疲れ、そして夜は寝る・・その繰り返し、
それが人生の基本サイクルといえよう。
いまもそうであろう。

人は皆、死ぬまでそれを繰り返している。
これは誰も否定できるものではない。

そして、いつかは死ぬ定めにあることを、
生きている間に知ることになるが、
しかしながら、それにどこか違和感を感じつつ、
忌避したい思いを抱きつつ、
その自分の宿命とするものから逃げ回る。

そうだ!、今は生きているんだ、頑張ろう!
ということになり、自己探求という「狭い道」よりも、
世の中に五万と落ちている、「広い道」
大勢の行く方向、主流の生き方に誘いこまれ、
そこにいつの間にか没入してゆく。



たぶんそういう仕組みになっているのだ。(笑)
気づけばずいぶん、苦痛に満ちた、面白いストーリーではないか?

それはその苦悩の向こうを指し示すための、
甘く、また苦い、刹那のストーリーのようなものである

そのストーリーは、こういうことだ。

(つづく)


わたしとは・・・何か?(6)世界は、意識で出現す

2017-04-03 06:10:10 | 意識の拡大
わたしが朝目覚めれば、世界が始まる。
これは、わたしから観た経験則である。
そうではないか?

わたしが目覚めなければ、「わたしの世界」は始まらないのである。

例え大勢の人が、夜通し起きていて、世界はまだあるよと言ったとしても、
それを聞く、知るところのわたしが居なければ、
わたしは、そこにまだ世界がある・・などとは言えないのである。


地球という世界に今回生まれてくる前に、
それがいままで存在していた・・という話を聞くまで、
人類の歴史の記録などというものを教えてもらうまで、
あなたはこの世界が存在していることを知らなかった。

これは主観論ではなく、全ての人にとっての経験則である。

小むつかし気な哲学、主観や客観の議論の範疇ではなく、
全ての「わたし」にとっての「経験則」なのである。
わたしが<気づく>まで、<意識する>まで、
わたしにとっての・・世界は存在していたとは証明できないのである。
そこにあるのは他人の説明である。
他人の意識の語ることが・・有るのみである。

あなたにとっても多分そうであろう。
あなたが目覚めているからこそ、世界が現れてくる。
言葉を変えていえば・・、
今の意識・・があるからこそ、世界・宇宙が認識できる。

世界や宇宙、身の回りの環境の出来事、・・そのすべては
わたしに認識されているからこそ、そこに有る・・のである。

深く眠っているときに、わたしは世界を知覚などしていない。
これも事実である。
そうではないか?

眠っている人を叩き起こせば、すぐに目覚めるのだが、
眠っている時には、「わたし」は世界を知覚していない。

無意識の時には、世界を知覚していない。
意識のあるときには、世界を知覚している。

そういう言い方もできよう。
また知覚していなければ、どうして世界、それが有る等といえよう?
いいや、言えるわけもない。

まったく最重要な、かつ基本的な事実なのだが、
決して世間や学校では教えない(笑)。

世界が先にあって、それぞれのわたしは「肉体」として、
親の元に生まれてくる・・という、親、他者の目線から、
いつのまにか自分を決めているということだ。

親愛のこもった親の目線が悪いわけではなく、
ただ、そこに見えるのが可愛い生きた肉体であるという、
そういう感覚が強いのである。

親にとって、社会の大勢の人々にとっては、
あなたは赤ん坊の「肉体」として、母親の子宮を通じて、
この世界に生まれてきたと言われる。

これは「あなた」にとっては、
あくまでも他者から教えられたことなのである。

あなたの赤子の時の写真を親から見せられ、
「こんなに可愛かったんだよ」と言われても、
それは親からの観測事実を、あなたに伝えているだけなのだ。

そういうこともあって、
大勢の人々が、わたしというものが、「肉体」であるとしているのだ。
つまり他人目線の意識から・・わたしを決めている・・。

生まれた瞬間に、あなたの「意識」が明確にそれを知覚しているのなら、
それは経験、事実と言っていいが、
赤子の時には<わたし>意識は未だ・・芽生えていない。
そうではなかったか?


ややこしいかもしれないけれど、
ここで説明している内容の「趣旨」は、

知覚する者がいなければ、知覚対象は存在しないということ。
そして、わたしの世界を知覚するのは、
<わたし>以外にない・・ということだ。


あなたの世界を観ているのは、隣のお兄さんではなく(笑)、
あなたの意識以外にない・・という、
当たり前のことを言っているのだ。


わたし・・という意識・・が無ければ、
わたしの世界は現れようがない。

大勢の人々、大勢の他の「わたし」がいるのを知覚しているけれども
それらを含め、世界、宇宙を知覚している<わたし>がいなければ、
どうして世界、宇宙が存在していると言えようか?

自己嫌悪やら、劣等感やら、罪悪感やら、
あなたも時々陥入る?心模様など、
まったくどうでも良い・・こころの「迷い遊び」である。

世界の誰かが、何かをしたとか・・起こしたとか、
争いだとか、賄賂だとか、これこそ新しい商品だとか・・・
・・それらが、
わたしの根源意識にとって、・・どうだというのか?


大宇宙、存在諸世界があって、
わたしは、その中のノミのような小さな存在などという観念、
そういう、マインド、歪んだこころのお遊びは、もう終わったのである。

いわゆる自己への無知の支配していたこの集合意識世界、
実は全ての存在の元・・突き詰めれば、
<わたし>という・・根源的意識の発露・・が無視され、
そのわたしが肉体でしかないという常識観念の蔓延した世界に生まれ、
そこから・・意識としての自らを思い出す過程は、
確かに・・なかなかのものである。

それから目覚めるのも、いわゆる時のかかることだし、
実に、なかなかのものではあるが、

既に<観の転換>がなされたからには、
例えれば、一度、富士山の遠景を観たものは、
たとえすぐにそこにたどり着けなくても、
もうそれを見失うことはあるまい。

わたしが・・在るからこそ、わたしの周囲、世界、宇宙がある。
世界というリアルな幻影、あるいは夢という別の幻影も、
それを観ている者は・・誰あろう・・<わたし>なのだ。

I am that I AM .







わたしとは・・何か(5)私と世界(つづきより)

2017-03-31 06:00:09 | 意識の拡大
こういう話は全く荒唐無稽のように思えるのだが、
普通、人は世界の中に<わたし>がいると・・思っている。

宇宙があって、月があって、太陽があって、恒星、銀河があって、
そして最近は数十光年先に、太陽系と似たような惑星群が発見されたとか、
そういう広大な世界、宇宙の中に・・・

小さなわたしが・・いるというものだ。
世界の中に小さなわたしがいる・・そう思っている。



いやいや、思っているのではない、主観ではなく、
単に「思っている」のではなく、しっかりした観測事実だとしている。
それが「現実」だと・・。
・・・
そうではないか?

しかしながら、それらの観測や観察そのものは、
人間の働きによって行われている。

例え巨大なスペース宇宙のことであっても、
それを知るのは<わたし>という、意識がある人間である。

そう、宇宙という広大なスペースのことであっても、
それを観ているのは・・わたし以外にない!

事実だ、事実だ・・!としているのは、誰か?
人間の意識以外にない。

さらりと言う表現だが、
実に驚天動地のことであることに気づけるだろうか?

宇宙は<わたし>を通して現れているともいえる。

わたしが微小な肉体であるという観念により、
大きさや重さの規模の比較による優劣の観念で染まっているからこそ、
その事実に気づかない。
大勢の人が、大きさ、物量、面積、重さ、
刹那でしかない、目先の肉体維持とそのサバイバルに特化しつつ、
・・そういう現れている「量」にしか目がいかないようになっている。
ということである。

例え巨大なスペース宇宙のことであっても、
それを知る、認識するのは<わたし>という、意識がある人間である。

そう、宇宙は<わたし>を通して現れているともいえる。

宇宙はわたし達のこの手で、肉体の手で造形したものではないし、
こころの中の希望によって、都合よく現れてはいないが、
意識によって映し出されているという事なのである。

科学の世界では、
世界の本質がバーチャルな仮想現実であるという議論がされているが、
その仮想現実の投影されているもと、あるいはフィルターは、
我々の「意識」に相違ない。
これは安易に、「思うえばそうなる成功法則」のようなものではなく、
もっと根源的な世界の出現、あるいは投影システムといえるのだ。


意識が空(くう)なるスクリーンに投影されたものを世界という。
ならば、
その世界を観ている者、あなたという意識は、
世界の元に在るものであって、
世界の中に、スクリーンの中に、ポツンといるわけではないのだ。

様々な世界に自らを投影し、そこに入り込んで、自我を創り、
そのスクリーンの中の小さな登場人物として出現している。

本来世界を投影する、また世界を含んでいる方の<わたし>が、
逆に、その世界の中の、微小で小さな弱弱しい、
私個人という経験を味わっている。

受け入れやすい、普通の言い方をすれば、
それは観点の違い、意識のポジションの違いであると言えようか。

世界の中の小さな私とは、
世界を含む大きなわたしの逆転投影、自己投入に過ぎない。

これがどんな利益を生むのか?
生活の糧に寄与するのか?
もっと楽になる?・・
映画の中の必要性のような、そんな話ではないことが分かるだろう。

自ら引き起こされた自己没入は、自らが解くこと以外にない。
なぜならば、私個人という投影像は<真のわたし>の「像」であり、
生と死、カルマの解消という、
そのスクリーン映画内での無意識的な経験の続きに気づくこと。
例えば、あー、これは映画だったと心底分かることが、
昔から言われる「解脱」である。

心の底、あるいは最高次元と言わず、
そこに真我(まことのわたし)があるということだ。

そことは、今・・ここのこと。

肉体自我の想起している<こころ>が、
真の<わたし>と、個人としての<私>の間に在って、
様々に投影物を醸し出している。

この世界に在るということは、まさしくそれだ。
しかしながら、そうではあっても、
間違いなく言えることは、
全ては「楽しかるべき」である。

まったく、そうではないか?
だから、そう在るべきなのだ。