わたしとは何か・・という問いは「思考」である。
わたしとは何か?と・・考えている・・ことだ。
だから、思考といっている。
その思考によって、私とは何か・・を追及してゆくと、どうなるか。
誰でも知っている、いわゆる消去法によって「わたし」が何か、
その本質を判別してゆく方法で、
それは、これだけは言える・・ということを続けてゆくこと、
私は・・まず、明らかに「・・ではない」という消去法で行うのだ。
原則は、
<自分>の観察できる「対象」は、明らかに自分ではない・・ということにある。
例えば、あなたが手にスマホを持っていて、それを見ているならば、
スマホはあなたの観察できる対象であって、
あなた自身ではないという論法である。
スマホはあなたではない・・と、明らかにそう言えるだろう?
私はスマホでもパソコンでもない、花瓶でも椅子でもない、
そりゃまあ、当たり前と思われる。(笑)
・・・
わたしとは何か・・?
わたしは・・「私の名前」ではない。
私は田中太郎かもしれないが、それは私の名前でであって、わたしではない。
わたしは・・私の性別ではない。
わたしは男、女かもしれないが、それは私の性別であって、わたしではない。
わたしは・・経歴ではない。
わたしには経歴があるが、それはわたしの経験と記憶であって、わたしではない。
わたしは・・この手ではない、
右手も左手も、私の一部かもしれないが、わたしではない。
わたしの身体は、わたしの肉体かもしれないが、
それが対象として観察できるからには・・わたしではない。
・・・
ここまでOKだろうか?
私の身体、「肉体はわたしではない」・・ことになるが、
大丈夫だろうか。(笑)
わたしは肉体ではない、なぜならば手足、身体、その動きなど、
わたしが・・それとして知覚する、観察する対象であるからだ。
さらに言えば、確かに、
肉体は医学や科学的な研究、観察対象であるわけだ。
知覚対象、観察対象は、・・・観察主体ではない。
つまりこれは、一種の2元論思考を使っているわけだ。
花瓶はえんぴつではない、
本棚は冷蔵庫ではない、・・・
1万円は50円ではない、・・
負債は資産ではない・・・
会社の同僚は、私ではない・・・
我々は日常そうやって、いろいろなものを「識別」している。
そうではないか?
漠然とそういう風に教わってきたその思考プロセスを、
わたしとは何か?・・に応用しているに過ぎない。
わたしは、世界の出来事、周りの事物、あらゆる物、
そして自分の身体さえも知覚し、観察可能である。
ならば、
周りの事物と同じく、手足、顔、内臓含めた身体さえも、
それが知覚し、観察する対象であるからには、
つまり身体、肉体も・・わたしではない・・ことになる。
(え?、マジかよ・・、ちょっと違うんじゃネ? 笑)
1つ言えそうなことは、
わたしとは・・・認識主体であるということだ。
もちろん、周囲の事物、世界のあらゆるもの、自分の身体さえも、
認識される対象物、つまり主体に対して<客体>であるからには、
それはわたしではない・・ということになる。
そうではないか?
断わっておくが、これは、
普段、日常で漠然と思考していること・・
それを自分に応用しているだけである。
まあ、いいや・・・・と、(笑)
2元的思考をしてゆくとして、
私とは、つまりあれやこれやではない・・と識別してゆくとして、
それでは、わたしとは何だろうか・・?
わたしとは何か?と・・考えている・・ことだ。
だから、思考といっている。
その思考によって、私とは何か・・を追及してゆくと、どうなるか。
誰でも知っている、いわゆる消去法によって「わたし」が何か、
その本質を判別してゆく方法で、
それは、これだけは言える・・ということを続けてゆくこと、
私は・・まず、明らかに「・・ではない」という消去法で行うのだ。
原則は、
<自分>の観察できる「対象」は、明らかに自分ではない・・ということにある。
例えば、あなたが手にスマホを持っていて、それを見ているならば、
スマホはあなたの観察できる対象であって、
あなた自身ではないという論法である。
スマホはあなたではない・・と、明らかにそう言えるだろう?
私はスマホでもパソコンでもない、花瓶でも椅子でもない、
そりゃまあ、当たり前と思われる。(笑)
・・・
わたしとは何か・・?
わたしは・・「私の名前」ではない。
私は田中太郎かもしれないが、それは私の名前でであって、わたしではない。
わたしは・・私の性別ではない。
わたしは男、女かもしれないが、それは私の性別であって、わたしではない。
わたしは・・経歴ではない。
わたしには経歴があるが、それはわたしの経験と記憶であって、わたしではない。
わたしは・・この手ではない、
右手も左手も、私の一部かもしれないが、わたしではない。
わたしの身体は、わたしの肉体かもしれないが、
それが対象として観察できるからには・・わたしではない。
・・・
ここまでOKだろうか?
私の身体、「肉体はわたしではない」・・ことになるが、
大丈夫だろうか。(笑)
わたしは肉体ではない、なぜならば手足、身体、その動きなど、
わたしが・・それとして知覚する、観察する対象であるからだ。
さらに言えば、確かに、
肉体は医学や科学的な研究、観察対象であるわけだ。
知覚対象、観察対象は、・・・観察主体ではない。
つまりこれは、一種の2元論思考を使っているわけだ。
花瓶はえんぴつではない、
本棚は冷蔵庫ではない、・・・
1万円は50円ではない、・・
負債は資産ではない・・・
会社の同僚は、私ではない・・・
我々は日常そうやって、いろいろなものを「識別」している。
そうではないか?
漠然とそういう風に教わってきたその思考プロセスを、
わたしとは何か?・・に応用しているに過ぎない。
わたしは、世界の出来事、周りの事物、あらゆる物、
そして自分の身体さえも知覚し、観察可能である。
ならば、
周りの事物と同じく、手足、顔、内臓含めた身体さえも、
それが知覚し、観察する対象であるからには、
つまり身体、肉体も・・わたしではない・・ことになる。
(え?、マジかよ・・、ちょっと違うんじゃネ? 笑)
1つ言えそうなことは、
わたしとは・・・認識主体であるということだ。
もちろん、周囲の事物、世界のあらゆるもの、自分の身体さえも、
認識される対象物、つまり主体に対して<客体>であるからには、
それはわたしではない・・ということになる。
そうではないか?
断わっておくが、これは、
普段、日常で漠然と思考していること・・
それを自分に応用しているだけである。
まあ、いいや・・・・と、(笑)
2元的思考をしてゆくとして、
私とは、つまりあれやこれやではない・・と識別してゆくとして、
それでは、わたしとは何だろうか・・?
