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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは・・何か(14)自分に問うてみる

2017-04-16 19:33:21 | 意識の拡大
わたしとは何か・・という問いは「思考」である。
わたしとは何か?と・・考えている・・ことだ。
だから、思考といっている。

その思考によって、私とは何か・・を追及してゆくと、どうなるか。

誰でも知っている、いわゆる消去法によって「わたし」が何か、
その本質を判別してゆく方法で、
それは、これだけは言える・・ということを続けてゆくこと、
私は・・まず、明らかに「・・ではない」という消去法で行うのだ。

原則は、
<自分>の観察できる「対象」は、明らかに自分ではない・・ということにある。

例えば、あなたが手にスマホを持っていて、それを見ているならば、
スマホはあなたの観察できる対象であって、
あなた自身ではないという論法である。

スマホはあなたではない・・と、明らかにそう言えるだろう?
私はスマホでもパソコンでもない、花瓶でも椅子でもない、
そりゃまあ、当たり前と思われる。(笑)

・・・

わたしとは何か・・?
わたしは・・「私の名前」ではない。
私は田中太郎かもしれないが、それは私の名前でであって、わたしではない。

わたしは・・私の性別ではない。
わたしは男、女かもしれないが、それは私の性別であって、わたしではない。

わたしは・・経歴ではない。
わたしには経歴があるが、それはわたしの経験と記憶であって、わたしではない。

わたしは・・この手ではない、
右手も左手も、私の一部かもしれないが、わたしではない。

わたしの身体は、わたしの肉体かもしれないが、
それが対象として観察できるからには・・わたしではない。
・・・
ここまでOKだろうか?

私の身体、「肉体はわたしではない」・・ことになるが、
大丈夫だろうか。(笑)


わたしは肉体ではない、なぜならば手足、身体、その動きなど、
わたしが・・それとして知覚する、観察する対象であるからだ。
さらに言えば、確かに、
肉体は医学や科学的な研究、観察対象であるわけだ。

知覚対象、観察対象は、・・・観察主体ではない。

つまりこれは、一種の2元論思考を使っているわけだ。

花瓶はえんぴつではない、
本棚は冷蔵庫ではない、・・・
1万円は50円ではない、・・
負債は資産ではない・・・
会社の同僚は、私ではない・・・

我々は日常そうやって、いろいろなものを「識別」している。
そうではないか?

漠然とそういう風に教わってきたその思考プロセスを、
わたしとは何か?・・に応用しているに過ぎない。


わたしは、世界の出来事、周りの事物、あらゆる物、
そして自分の身体さえも知覚し、観察可能である。
ならば、
周りの事物と同じく、手足、顔、内臓含めた身体さえも、
それが知覚し、観察する対象であるからには、

つまり身体、肉体も・・わたしではない・・ことになる。

(え?、マジかよ・・、ちょっと違うんじゃネ? 笑)

1つ言えそうなことは、
わたしとは・・・認識主体であるということだ。

もちろん、周囲の事物、世界のあらゆるもの、自分の身体さえも、
認識される対象物、つまり主体に対して<客体>であるからには、
それはわたしではない・・ということになる。

そうではないか?

断わっておくが、これは、
普段、日常で漠然と思考していること・・
それを自分に応用しているだけである。

まあ、いいや・・・・と、(笑)
2元的思考をしてゆくとして、
私とは、つまりあれやこれやではない・・と識別してゆくとして、


それでは、わたしとは何だろうか・・?




わたしとは・・何か(13)意識は時空を超えている

2017-04-16 03:55:13 | 意識の拡大
ここまで読んできた方は、
自分とは・・・霊的な何かとか、特別な自分を探すはずが、
その「私とは何か?」自体が、
何が何だか分からなくなって、つまらなくなったかもしれない。(笑)

自分とは、特別で、霊的な何者か?と・・探しているならば、
「わたしとは何か?」という自問自体が、
単に、思考、思い、想念、マインド、こころだとすると、
拍子抜けするかもしれない・・ということだ。


しかしながら、・・・実のところ、
「わたしとは・・何か?」と問う・・ことは、
人間として極めて重要な節目、ということも言えるのである。

そもそも、わたしとは何か?と問うことは、
自分自身のことを、実際には知らない!>ということを意味している、

古代から「無知の知」と言われる境地・・ともいえるだろう。

まず、自己の無知なることを・・知ること、
だからこそ、
「わたしとは何か?」という問いが行われるのである。

自分は、・・でございます。マア偉いです、地位もあり金もあります・・、
そんな人が「私とは何か?」と問うわけもなかろう。

自分をわかりきっていると・・
漠然と、自分を肉体だと信じ込んでいるからだ。
それも何と無く、無意識に、他者に合わせて条件反射的に思い込んでいる。


まともに、「わたしとは何か?」と問うことは、
「自分が無知であった」ことに・・どこか、<気づいた!>からこそなのである。

そうでなければ、こんな話など聞く耳持たないはずで、
「私は?・・男だよ、女だわ、年齢はね、名前かい?、経歴は・・」で済ませているはず。


わたしとは何か?とは、実に本質的な問いであり、
またそれは思考であり、こころ、マインドの自問自答なのである。


マインド、こころ、思考・・は常に何か外側のこと、世界のことを考えている。
そうではないか?

私自身も含め、多くの人は、
国語、算数、理科、社会、対人関係、科学認識、帳簿、家族関係、会社、・・
すべて今まで培ってきた人類の、様々な概念の世界で生活している。
世界というものを、概念として形作っている「こころ、思考の束」
あれこれ価値判断し、様々な認識を行っている・・、

そのマインド、こころ、様々な思考そのものが、
それ・・こころ自身・・をターゲットにしたということなのだ。

マインドのターゲットを、つまり、
その観察対象を・・
世界、物質的と見える現象世界という<鏡>の向こう側でなく、

逆に、すべてを世界として映しだすところの、
原因としての<こちら側・・>
自らであるマインド、こころに向けた!ということなのだ。


「わたしとは何か?」・・・
東京、渋谷のハチ公前の交差点で、こんなことを言えば、
とにかく、何かをするべく忙しく行き来している通行人から見れば、
「・・・?・・!、×○#・・??」となること請け合いである(笑)。

「わたしとは何か?」・・それは、思考そのものに、
自らの根源の方向にターンした・・目を向けたということなのである。
ここでは目というより・・「意識」を向けたということ。

理解可能だろうか・・。

例えば、輪廻転生で、何度も何度も苦労して坂道を登り、
そうやく<峠>の向こう側が見えるところに来た、
ということも言えるだろうか。

夢遊病者のように、無意識に歩いてきた長い道の先で、
ふと!、我に気づき、
「あれ?、私はどこまで来ているのか、あれれ、ここはどこか?」
と、自分に問いかけるようなものである。

「わたしとは何か?」

物質、環境、人間関係の「現象」ばかりを見ている場合は、
それを認識、価値判断しつつ、自分の世界を作り上げてしまっている
そのこころに気づかない。

こころ、思考、観念を・・見る・・こと、
つまり内面を観なければ到底気づけないのである。
内面とは、この世という映画の中の登場人物(私個人)ではなく、
それを観ている・・わたし・・のことだ。

「わたしとは何か?」という、思考を湧き出させているのは何か?
観ているほうのわたし・・・、
それは「意識」「気づき」と言えよう。

確かに、
思考、イメージ、感情、・・それらが可能なのは、「意識」があるからだ。
普通は平たく表現して、・・生きているからだ・・と言っているが、
意識があるという事なのであり、
何かに気づいていること、意識していること、注意を向けていることだ。
そして、
意識、気づき、それ自体は・・思考、マインド、つまり
イメージ、感情、感想などではない。
心のもっと奥にあるもの。

わたしは音楽(イメージ、思考)そのものではなく、
その音楽を聴いているのは・・わたし(気づき)・・だということ。

そうではないか?

つまり思考、マインド、想念は、
意識、気づきが存在して・・そこで起きるもの、

思考、思い、感想・・などに・・、
気づいている・・わたしがいる。

気づき・・・、
これは思考そのものではない、
イメージそのものではない、
感想、感慨、感情表出・・そのものではなく、

それに気づいている、意識している・・だ。


人は、外側世界の出来事、思考、思いばかりを追いかけるだけでは、
高い、安い、多いなど、世間の物量比較価値感の中では、
決してたどり着くことはない。

つまり、あれを見て、これを聞いて、何かを考える・・ことも、
たとえ世界に、様々な新しい情報や、画期的な知識が出たとしても・・、
そして、この世界がどうなってしまうのか?と、
高尚な心配をしていたとしても・・。

それら次々と現れてくる現象世界の中で、
肉体の動きと想念、思いによって右往左往だけでは、
その世界の中の、時空間の位置だけが変化するのみである。

マインド、思考のマトリクスの中では、
どんな行為や思考であろうとも、
決してどこにもたどり着くことはできない。

自分の肉体を含め、
世界に様々な現象が起きていること、
そして様々なを想起をしていること、
またその思い、想念、思考を観ているもの、

気づいている・・もの、意識、・・は、
観察される3次元的現象世界を超えている、
また現象に付随して起き続ける・・思い、マインドを超えている。

そう、意識というしかないそれは、
この世界という時間・空間を超えている。
あの世界も、この世界も・・超えている。

それが意識、気づいている・・それだ。

よく言われる、目からうろこが落ちる
・・その次に、
心から・・うろこ・・思考、マインドのカサブタを落とす時である。

気付き、意識は、マインドを超えている。
別の方面から言えば、意識は、
時間空間、次元をも超えているのである!
それを、魂、真我とも言う。

例えば、それをわかりやすく話している人もいる。
それを、再掲することにした。

気づきの階梯(ルパート・スパイラ)

「わたしとは何か?」 と問うているのは誰か?




わたしとは・・・何か?(12)根元にある気付き

2017-04-14 05:18:58 | 意識の拡大

様々な現象、現れの中に、自分の肉体・・というものがあるわけだが、
そこを起点として、五感によって世界が観察されていることで、
その起点を自分の肉体の中に置いている・・その<存在感覚>が、
「自分とはこの肉体である・・」という「思考」を誘発している。

わたしを、
高度な知性機能を有する「肉体」である!・・とするのは、
はっきり言えるが、それは誤り・・誤解。

「わたしとは肉体である」は全くの誤解であり、
「わたしは肉体であると・・思っている」ということなのだ。


つまり通常、<わたし>としているのは、
肉体と五感で得られる情報に付随した「想念」、
思考、想い、連続したイメージ、記憶の束・・であると言える。

だから、あなたの家の猫が「吾輩は猫である」とは言わない。
逆に、あなたは「自分が肉体である」としているのは、
その「思考」があるからなのである。

個体としての肉体を有すること、
見ること、聞くことなどの、五感を通じて知覚すること、
そして、またそれらに基づいた思考や記憶の働きがあること、
それらを総合して、・・・それが<わたし>と言って良いだろう。

これは特別な事ではなく、誰でも既に漠然と知っていることを、
説明しているだけ。
ただ、自分が単なる肉体である・・というのは誤解であると、
単にそういう事を言っているに過ぎない。

そう・・・。
わたしとは何か?という問い自体も、思考なのである。
また、その「問い」に答えようとすることも、結局は思考なのである。
そうではないか?

わたしとは何か?・・・「えー?、さて何だろう?」
そこにあるのは、そういう「思考」なのである。
固定された思考、想い・イメージ等のことを、想念、信念等と呼んでいる。


さて、それでは
わたしとは・・・「肉体」ではなく「思考」なのか?

・・あー、なんだか分からなくなってきた・・かもしれない。(笑)


あれ?ちょっと待て、
これ自体も「思考」だった・・
つまり、あれこれ考えているだけだった・・!

という事に気づけるだろう。

つまり、「わたしとは何か?」を、
あれこれ考えている・・
こと自体が・・そこに存在している・・、
そのことに気づけるだろうということだ。

しかしながら、
決して・・結局は、元に戻ってしまった・・わけではない。

今、わたしは・・・
あれこれ思考を巡らしている事に「気づいている」からだ。

条件反射的に思わされているのではなく、
他者に同調して、それが安心だと真似て考えるのではなく、
あるいは、いやそれは違う!と・・、
意図して、もっとポジティブに思推しているのではなく、

・・思考に、それ自体に・・気づいている・・ということだ。

言葉を変えていえば、

わたしは肉体である・・と、
漠然と信じている・・ことに、
気付いている・・ということだ。


気付きは・・意図的な、あれやこれやのイメージ、思考行為ではなく、
突然・・降って沸いてくる・・ようなものでもある。

創造的な仕事、働きによくある、「ひらめき」・・なども、
意図してすぐに出るものではなく、
降って沸いてくる・・ようなもので、
誰でもそれを経験しているはず。

例えば、画期的なアイデアやひらめきは、
それが起きた後で様々に説明や枝葉の肉付けをするものの、
それ自体は・・意図せざるものであるがゆえに、
・・「ひらめき」なのである。

同じように、思考や思い巡らしでの堂々巡りの先に、
突然本質的な何かに・・気づく・・瞬間があるものだ。

わたしとは何か?と、問うているわたし、
そして、
わたしをアレやこれやと考えている・・
そのわたしとは何だろうか?

重要なのは、あれこれの思考行為ではなく、
それらすべてに”気づいている”・・ということなのである。

わたしは・・肉体の働き、知覚作用に・・気づいている者、
さらに、
わたしは思考を巡らしていることに・・気づいている者。

言葉を変えていえば、
わたしは・・肉体や物質的環境に・・気づいている、それ、
わたしはそれらを形作る想念に・・気づいている、それ、


わたしは、物質、肉体、環境を、そして、
思考や感情を観察している、あるいは意識している、
それ自体・・が<わたし>と言えよう。

逆に言えば、
わたしとは・・・肉体そのものでもなく、
それらを思い巡らす思考や想念そのものでもない。

わたしとは・・あれやこれや・・ではない・・ということだ。

わたしは、思考ではないがゆえに、
それでは何だろう?というレベルは終わってしまう。
あれこれと定義したり、規定したりするものではない・・者だ。
何でもない、定義づけできない存在であるとも言えよう。

(何が何だか・・?かもしれないが・・)笑。
それはこの記事も、思考を文章化しているからには、
その思考の限界が来ているためである。

そうだ・・思考の限界に・・来たのである。


本来は、かように面倒くさく観察、分析しなくても、
確かに、わたしには「意識」がある・・。
それだけは言える。

意識があるがゆえに、わたしは在る・・という感覚が生じているのだ。

そうではないか?



わたしとは・・・何か?(11)思考を観る者

2017-04-12 06:40:20 | 意識の拡大
肉体があって、触感があって、世界が見えて、聞こえている。
それが観察事実だといっても良いけれど、
「わたしは肉体である」というのは、
決して真実ではなく、・・・単に、「思考」である。

繰り返すが、そう思っている、思い込んでいるというだけの話である。

例えば、あなたの家に猫がいて、
「吾輩は猫である!」とは言わない。(笑)
彼らは多分、自分自身に名前を付けて呼ぶほどの「思考」がないからだ。



様々な現象、現れの中に、自分の肉体・・というものがあるわけだが、
そこを起点として、五感によって世界が観察されていることで、
その起点を自分の肉体の中に置いている・・その感覚が、
自分とはこの肉体である・・という「思考」を誘発しているのだ。

人が世界のなかに在る・・ということは、
世界、ひいては宇宙を観察するところの・・
宇宙の中の「起点」あるいは中心点として、
私の肉体があると、五感によって「観察」されている。
・・・と、そういうことだ。

「わたしは肉体でしかない」・・というのは解釈に過ぎない。
それは「思考」に過ぎないということだ。

1つ言えることは、
わたしとは、世界というものを、
また最も身近に感じている「肉体」を<知覚>している・・
あるいは、
五感で「観察」している・・存在・・ということだ。

見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触れていること、
・・に気づいている・・存在ともいえる。

とはいえ、
この言明自体も「思考」によって文章化されているわけだが、
単に、「わたしとは肉体である」という説明より、
もっと詳細で、視点の拡大した解釈であるといえようか。

わたしとは=肉体である・・という漠然とした常識思考、
それは思考でしかない、つまり思い込みである。

余談だが、想念とは、・・・
<こころの様々な相で、今の心を形づくっている>という意味。
・・・
そして、脳生理学者たちは、
思考自体の機能が「頭脳」で行われているからには、
わたしは「頭脳」であると言いたいところであろう。
・・
しかしながら、
その「頭脳」さえも、肉体機能の一部であって、
人の知覚対象として研究されている事実を示している。

世界、宇宙、あるいは身近な机、TV、花、山々も・・、
そして頭脳さえも、それが最も身近な肉体の一部としても、
知覚されるもの・・観察対象なのである。

そして、「わたしは頭脳である・・」というのも「思考」なのである。

漠然と、自分が肉体存在である・・と信じている人は、
「いや、絶対ちがう、私は肉体であるのは・・事実だ!」
というかもしれないが、それ自体・・「思考」なのだ。

「えー、何だって?」

ここで大笑いが起きても可笑しくないのだが・・どうだろうか?(大笑)


ところで、それでは、

わたしとは・・どこにいるのだろうか?




わたしとは・・何か(10)「肉体」という想念

2017-04-10 06:20:52 | 意識の拡大
世間一般では、
いわゆる悟ってゆく存在達、探究者、あるいは修行者を除いて、
わたしとは何か?という問い、
あるいは疑問そのものが行われることはなかった。

「自分とは何か?」という根本的問いをあえて行う必要もなく、
そんなことわかりきっている・・と、そう思っていたからだ。
・・
つまり、私とはこの肉体だ・・などということすらも、
当たり前のようで、また敢えて言うほどのこともない、
事実だと「思って」いたのだ。

あなたもそうだったろうか、
いや、今でもそう思っているかもしれない。(笑)

つまり、そこにあるのは「思い」あるいは「思考」である。
あなたは何か?と問われて、
真面目に突き詰めて答えるならば、
「この身体、肉体だ」と・・漠然と考える。

そう、ここまで行けば、なかなかなのである。
・・・
多くの場合、ここまで来ずに、自問自答すらせず、
子供の時から様々な常識的、世間的、科学的知識を、
次から次に仕込まれつつ、競って知識・体力の増強にいそしみ、
そんなどころではない、忙しい世界への対応に追われるものである。
そして自らの肉体の糧を得るべく、糧を家族に与えて育てるべく、
毎日を送っているわけである。

それがすべてに優先する当然の常識になっている。
他の存在が生まれ、かつ没してゆくのを見ながら、
また隣人が生きながらえつつも、認知症などと名付けられ、
自己を忘れてゆく病と称するものにカテゴライズされるのを見ながら、
そして、自分もいつか人生を終えるだろうと・・思っている。

つまりこの外の世界に、はまり込んでいる。
あなたの世界は、外にあり、
その外の世界にはまり込むその根幹に、
「私個人の肉体」というものがあるのである。
肉体の内側、皮膚の内側が「わたし」で、
肉体の外側が、外の世界である・・と思っている。
・・・
それに相違ないだろう?
・・・
そして、漠然とながらそう思っているのである。
<自分の>意思で体を動かし、
<自分の>思うことで様々な行為をする、単独の「単位」、
それが「私の肉体」であるから。

意思で単独に動かすことができる・・個人としての肉体、
それが私である・・としているわけだ。

というより、個人だ、個性だ・・と叫んでいる世間の観念のなかで、
それが当たり前だと「思う」のである。

つまりそう、「思っている」のである。

「あんたね、思っているって?、それって事実じゃないの?」
・・と、頑張っている常識バリバリの人は言うだろうが(笑)
それも、そういう「思い」なのである。

それが現実だ・・という「思い」に他ならない。

ここで、論理的な飛躍を感じるかもしれないが、
決して飛躍などしていない。

「わたしは肉体だ」というのは、”事実”ではなく、
事実だと解釈している・・思い、思考なのである。

肉体があって、触感があって、世界が見えて、聞こえている。
それが観察事実だといっても良いけれど、
「わたしは肉体である」というのは、思考であって、
それこそ、思考による・・論理的な飛躍なのである。

今まで多くの人は・・自分・・というものを、
まともに観察しておらず、
自分の外の世界の、まことしやかな情報とされる
「思い」のほうを、
それが真実だとするように、子供のころから教わってきた、
とはいえ、そこに他者の悪意などを持ってくる必要もなく、
集団の無知の中で、肉体が生き残るため、
とりあえずそういう風に仕込まれてきたのである。
と、そういう風に言っておこう。

世界がすべて「事実」で造られていると、
そういう風に信じていることも、「思考」である。

私が肉体である・・と信じているのも、思考である。
大勢の人々の常識なるものも、集団の思考である。
多勢に無勢、それでいつも巻き込まれてきたということだ。

そう、外の世界、それ自体の中に、そこにすでに、
「私は肉体である」という、根強い「思考」のマトリクスがある。

そして、思考自体に気づかない、あるいは観えない人の間では、
その思考、思いをいじくれば、どんなことも常識となるだろう。
いわゆる、それが支配の根本構図である。

ここで気付くべきは・・
これが、事実である・・という<思い>・・だ。

肉体があって、触感があって、世界が見えて、聞こえている。
それが観察事実だといっても良いけれど、
「わたしは肉体である」というのは、
決して真実ではなく、・・・単に、「思考」である。
・・・

「わたしとは何か? と問うている、あなたは誰?




世界はわたし肉体の外にあるのではなく、わたしの意識の内側にある。