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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

目覚めの道程(13)空間は実在しない?

2018-10-13 04:38:21 | 真我実現シリーズ
一般的な当たり前の常識としての「時間」は実在しないものだ。
時間とは人間の作って、使っている便宜の観念である。
社会、国家、文明、地球で普通に使っている「時間」とは”観念”である。

多くの人は漠然と通り過ごしているのだが、
時計やタイムウオッチは、”時間”を計測しているのではない。
漠然とそう思っていただろうが、そうではない。

これも単なる思い込みと言えようが、ことはそんなに簡単でなく、
とんでもなく重い、仮想の「束縛観念」である。

人が、時間の中で束縛される者・・という信念があれば、
それが経験され、再現され続けるのである。

ちょっと常識的に言うならば、時間とは・・、
出来事と出来事、物の運動と運動の”間”・・のことである。

時間は、観念・概念として存在するが、
「時間そのもの」は実在しないのだ。


出来事と出来事、物の運動と運動の間を知る、認識するのは「意識」の働きだ。
機械がそれ自身で観測、計測などしない。
人間、いや植物人間ではなく(笑)意識をもった人間である。

何かに”気づく”・・ことがなければ、その何かは・・存在しない。
そう、意識・気づきの働きが無ければ・・時間もない!

これが腑に落ちるまで、理解できるだろうか?

人は生まれてから長い間、時間の束縛観念の中で生きてきた。
今でもその傾向はあり、社会・生活で便宜上それに従ってはいても、
それは架空の概念であることを知っているならば、
単に1つの道具のようなものとしての位置づけでしかないだろう。

よく試験や仕事などで、「あー、時間がない、時間がない!」と言うが、
もともと時間など無いのだから。


不思議の国アリスのウサギさんは、さも大事そうに時計を抱えて走り回っている。

---
さて、「空間」とは実在するのだろうか?
現実の体験を交えてちょっと掘り下げてみると。

あなたが何かを見ているとして、
様々な事物があり、
その無数の事物、物質、形の”間”のことを「空間」と言っている。

物と物との「間」であり、町と町との間、星と星との間も・・「空間」だ。

すでに認識しているはずだが、その間は・・空(くう)である。

物と物との間の空間・・は空気層を除けば「真空」である。
真空に空気分子が充満しているため空気の動き・風を感じるが、
その空気分子も微小な物質粒子であり、それを取り除けば、真空である。



そう、
空間とは・・物があるからこそ、あるものだ。
いや、あると・・認識、観察、測定している。

また、空間そのものは・・空(くう)である。
つまり、
物だけが見えて、空(くう)そのものは・・見えない!
重さも長さも、何もない。

空(くう)は見ることも聞くこともできず、観察、観測さえできない。
---

我々が漠然と「空間」と言っているものは、
物と物との間のこと・・空(くう)のことを言っているのである。

物、物質形は観察・観測・認識できる。
しかしながら・・
「空間自体」は、観察も観測もできない・・空(くう)である。


「空間」が実在すると思っていただろうが、
空間自体・・、空間と書くように、それ自体は・・空(くう)であり、
時間と同じく実在せず、それはやはり「観念」「概念」なのである。

・・、でも、そこにあるじゃないか?というだろう。
例えば、目の前にあるパソコンとマウスの空間・距離があるじゃないか!
と言うだろうか?

しかしながら、その空間とは「空(くう)」のことなのだ。




(つづく)


目覚めの道程(12)空間は実在するか?

2018-10-10 04:54:18 | 真我実現シリーズ
時間とは実在しないものだ。
周囲、環境、世界、様々な事象の変化がある。
人類の歴史とは、その変化の時系列的記憶・記録のことだ。
記憶、記録・・人の意識的な行為だ。

世界を見ている、聞いている、考えている、
それも「意識」の働きである。
そう、時間は・・意識の中にある。

今・・のこの一瞬に・・「時間」があるか?
一瞬、一瞬という・・今は「時間」であるか?

普通、「時間」が勝手に独立で存在していると「考え」ている。
カレンダー、時計、スケジュール・・それは便宜上の作り物だ。



瞬間・瞬間の記憶が一連の記憶の流れによって「時間」の流れを生み出す。
生み出すといっても、勝手に存在するのではなく、
”あなた”がそれを一連のストリームとして知覚・記憶・再生・想起するのだ。

あなたが幾歳であろうとも、
例えば、
「年を取ったなあ、生きてきたなあ・・」と、
人生の節々で過去を思い巡らすのは、常に今・・なのである。



あなたの人生の無数の記憶は・・過去という名の、
今の連続ショットの・・今・・再生なのだ。
過去の楽しい、苦しい記憶も・・今よみがえる。

あるのは・・今しかない。
あるのは・・とらえどころがない・・今、

その今・・は「時間」量ではない。
・・・

時間があたかも実在しているかのような通念で生きてきた。
通念、常識は、とりあえず生きるための方便としての観念だが、
支配や生活に便利な対処方法のようなもので、真実とは限らない。
いや、それは常に仮の処方でしかない。
プラグマティズムなども同じだ。

自分さえ、いまさえ良ければ、とりあえず・・。
真実などどうでもよい・・、という根の思考だ。
これがこの世の、いわば悪夢の世界に固定する。

社会的通念、常識、漠然とした習慣、それを疑う必要がある。
それが探求といわれるもの。

これは本当なのか?
これは真実なのか?
嘘から、夢から覚めるために必要なことである。

これを熟考せねばならない。

いや、ここでは、稚拙だが、すでにそれを示している。
余計なお世話だが、
言葉を眺めて通り過ぎるだけでは難しかろう。
ずいぶん偉そうな文章だが、これも一興とされたい・・笑。

たくさん覚え、それを、同じように再現、書き出すのが、
今の基本の教育といえようが、
”自らの意識”で、真実はどこにあるか?と真剣に”問いかける”必要がある。
そうでなければ、
言葉や概念という無数の言葉、情報・観念の洪水のなかで埋没するだろう。
量的優位さはAIやロボットに適うわけはない。
この意味でも、人存在は・・心すべき・・時が来ている。

・・・
時間とは実在しないものだ。
周囲、環境、世界、宇宙と様々な事象の変化がある。
人類の歴史とは、その変化の時系列的記憶・記録のことだ。

今・・のこの一瞬に・・時間があるか?
一瞬、一瞬という・・今は「時間」であるか?

いいや、
それは人間の作り出した「観念」以外の何物でもない。

それでも世界は続く、生活は続く、
今の瞬間が創造の噴出点であるからだ。
どのように・・あるか?ありたいか?
それがいわゆる創造の根源から期待されているのだ。

あなたは、今の瞬間に、
創造世界が現れているのを観察しているのだが、
様々な雑多な観念・想念がその今の周囲にたむろしているため、
どこか悪夢のような、その雑多な観念、想念を眺めるだけで、

観ていること、事の重大さに、・・
それに気づかないだけのことだ。

時間は、その根っこにある固定観念である。
魂・意識はそれによって束縛されている。

観察は・・観察者と観察対象それ自体を変質させる。
想念は、その変質によって放射する波動といえよう。
そして、
想念を観察することは、意識的存在を・・変える。

あなたが幾歳であろうとも、
例えば、
「年を取ったなあ、生きてきたなあ・・」と、
人生の節々で過去を思い巡らすのは、常に今・・なのである。

あなたの人生の無数の記憶は・・過去という名の、
今の連続ショットの・・今・・再生なのだ。
過去の楽しい、苦しい記憶も・・今よみがえる。

あるのは・・今しかない。
あるのは・・とらえどころがない・・今、

その今・・は「時間」という架空の観念ではない。

・・・

さて、世界という名の、時間・空間の
「空間」はどうだろうか?
空間は実在するのだろうか?



目覚めの道程(10)空(くう)と意識

2018-10-04 08:34:47 | 真我実現シリーズ
科学的な見識でいえば、
世界、宇宙は空(くう)と波動・エネルギーであると言える。

我々自身の身体・肉体も、空(くう)の中のエネルギー波動体だ。
素粒子は”粒子”と言われるが、実はエネルギー波動の塊ともいえるもの。
つまり、物質はそのエネルギー・波動の局在化したものだ。

E=MC^2はそれを数式にしたもので、これが間違いという学者はいない。

気づくべきは、それらがほとんど空間であるということだ。
重く詰まった状態とされる物質も、99.999・・99%が空間なのだ。

空(くう)にある物質と物質の”相対的”な位置関係が「距離」であり、
その物質の変化の”相対的”な密度の差が「時間」であるといえよう。
時間空間とは相対的であるとされる所以だ。



アインシュタインの相対論も絶対時間、絶対空間を否定しているように、
時間も空間もエネルギー・波動によるものであって、絶対的なものではない。
エネルギー・波動によって、時間空間は様々な形式をとるともいえる。

これらの表明は、科学的常識から逸脱するものではないはずだ。
また、
存在する私たちも・・空(くう)であるという表現にも違和感がないはずだ。
存在すべては、空(くう)に生じた波動・エネルギー。

これをべつの表現でいえば、
宇宙、世界、私達の身体も環境も、空(くう)に描き出されたもの
波動エネルギーで出来たホログラムあるとも言えるのだ。

もっとも現代でいうホログラムのような、見た目だけの軽い幻想模様でなく、
大きい小さい、軽い重い、遠い近い、早い遅い等という、
観察可能な質量感覚を伴ったものなのだ。

そして、
その世界を観察・・それを・・それと認識・理解することができるのは、何ゆえか?
・・・

そう、
”意識”があるからだ。

物質・エネルギーだけでは、それ自身、自らを見ることができない。
つまり、物質だけが、そこにデデーン・・とあっても、
それを認識する、気付くことができないではないか。

世界も、宇宙も、身体も、環境も・・・、
それを見る、観る、知覚・認識する何かがいなければ、
そこに、ここに・・存在することが出来ようか?

深く感じ入るべきところだ。

気づきとその対象、
気づいているからこそ、その対象がある。

さらに、
わたしの”意識”があるからこそ、わたしの”知覚対象世界”がある。
わたしの意識の展開模様、こころ模様があるからこそ、
わたしの世界という無数の知覚経験があるのだ。

世界は・・意識に伴って立ち上がるものだ。

これは現実離れした空想でも理論でもなく、

今・・在る・・ことを説明しているに過ぎない。


目覚めの道程(9)空(くう)次元スクリーン

2018-09-30 05:59:25 | 真我実現シリーズ
私はこの身体である、という観念ならば、
私は、その身体を生成し形作る”物質”であるということになり、
その物質はと言えば、原子やさらに微細なクオークであるわけで、
それは極めて存在密度の希薄なものであるということになる。
・・
少し面倒だが、
古典の物理モデルでは、原子核の大きさが10の-10乗程度であり、
周囲を周る電子の距離が、10の-15乗程度とされ、
立体的空間での物理的存在密度は、(10の-5乗)の3乗なので、10の-15乗程度となる。
物質密度と言えば0.0000000000000001 程度ということだ。
なので、99.999999999999999?%が「空間」という事になる。
・・・
わたしの体のほとんどが”空間”である。
あなたは、重たい体を持て余しているかもしれないし、
それを維持するべく社会で四苦八苦しているかもしれないし、
苦痛と欲望でウロウロしているかもしれないが、
実体はといえば、99.999999999999999?%程度の空間である。

わたしたちは・・空(くう)と言って過言でない。

ところが、
等身大の世界では、全くそんな感覚は無く、
身体が何かにぶつかれば怪我もし、火に当たれば火傷が生じるし、
苦痛や痛みというものが起きればなおさら、
あたかも身体は物質の固まりのように感じるのだ。

しかしながら、事実それはほとんどが”空”なのである。
空の中に、極めて希薄ではあるが、
秩序と調和を保ちながら回転運動、振動しているエネルギーがある。

それがわたし達の”身体”という事だ。

五感感覚によって、
それがあたかも堅牢な物質形態であるかのように感じるだけだ。
当然ながらその物質形態は変化、変形もするし消滅もする。

身体機能としてのそのリアルな感覚によって、
自分が肉体であるという認識をしているのである。

これはTVの画面、CGやアニメ、映像などを観て、
そのスクリーン上の”その部分”に、
リアルな物体があると感じてしまうことに似ている。

あるいは、鏡に映った姿を観て、そこに実体があると思い込み、
「ちっ、ちっ、ち・・知っているよ、裏に誰かいるんだネ・・」と、
その鏡の裏に回って誰がいるのか?確かめる様なものである。

そこに映し出されて、知覚する事象自体には実体がなく、
それは文字通り「投影像」ということになる。
投影像をリアルな・・何かの実体だと感じてしまうわけだ。

そう、・・
肉体は高度極まりない、実に良くできた、
その世界のエネルギー投影像のリアルな次元観測機器と言えなくもない。

宇宙スピリチュアル系の噂話において、
人類は宇宙人が遺伝子操作で創造した・・とかの話があるが、
洗脳陰謀のための完全なほら話ではないだろう。
人類を造った・・ではなく・・、人類の肉体機能のことで、
それが、この世界での、
魂の表現・体験体としての身体のことではあるならば、
まったくの嘘でもないはずだ。


この世もあの世も、仮想現実であるかもしれないと、
そういう人も増えてきたように、
昨今のCG・映像・情報技術の進展で、このような解釈も、
以前とは違ってそれほど違和感がないだろう。

この世は幻想である・・、と覚者が口をそろえて言うように、
外にあるように見える世界がリアルなのではなく、
観ている・体験している者こそが、リアルなのだ。

それが・・わたし・・だ。

次元立体スクリーンの中で、不都合で悲惨な映画を体験し、
そこに自己同一化して自らを忘れ、体験だけが唯一の真実であるとして、
あるときは嘆き悲しみ、有頂天に昇りつめ、奈落の底に落ち込む。

それらすべて、意識の成せる業であると理解すれば、
その体験スクリーンに向かって石を投げつけたり、
あるいは核で爆発させて終わらせたりはしないはずであろう。

あるいは、大勢の他者の思考やなりふりに身を任せ、
大勢の輪廻転生の行列の中で安堵しつつ人生を送ることもない筈だ。
・・・

つまるところ、「わたしは身体である」という信念、あるいは常識感覚は、
”知覚”や認識によっているのである

身体が単独で、そこにそのままあるのではない。
そういう感覚、知覚、認識、あるいは思考の働きによっている。

これらは”意識”の働きだ。

”意識”が無ければ、身体は無い・・。

理知的な人は、それは言い過ぎだというかも知れない。
意識は頭脳・神経細胞という身体によって起きるからには、
わたしはやはり「身体」であろう・・という事だ。

わたしの意識は、物質である頭脳が作っているはず・・と、
これも「意識」の働きである。

身体も頭脳も、環境も世界も・・空の中に生じては滅する、
エネルギーの次元投影像と理解できるだろうか?

空(くう)であるからこそ、有が可能であり、
空(くう)であるからこそ、そこに物質形の投影も可能であり、
そうであるからこそ、それを意識、認識出来るのだ。

空(くう)であるからこそ、無限の可能性が内在し、
そうであるからからこそ、
人々の・・真に求めてやまない幸せや、無限の叡智が内在するのである。


ここで示した文脈で言えば、
わたしはこの身体である・・は、0.000・・001%の妥当性しかなく、
わたしは、空(くう)であるというのは、99.99・・99%の真実性がある。

そうではないか?

人はみな、人生で、あるいは他生でも、
さんざんこの世的観念で終始してきたがゆえに、
本来の深淵なる魂の自己像を思い出すのは時間がかかるものではあるが、
数万、数千年の輪廻の時間からすれば、
真の自己に振り返り、本道を引き返すことは微々たるものであると、
そう気づき、そう思い、そう行為することが重要であろう。

飽和せるこの次元世界は、地球ごと大きく変動しつつ、
今がその時期であることを、言葉によらずとも、
それを示してきていることに気づけるだろうか。



背景たる空(くう)でなければ
無限に内在する諸形態が”現れ”ようがない。

真の・・わたしとは・・それ・・である。



目覚めの道程(8)わたしは・・空(くう)

2018-09-27 11:06:42 | 真我実現シリーズ
わたしたちはどこにいるのかといえば、それは空(くう)の中だ。
普通は、
宇宙の中の、地球の中の、日本の中のどこどこの場所・・と考えているが、、
考えられる範囲で最もシンプルにいえば、

我々すべては空(くう)の中にいると言わねばならない。

そして宇宙は・・99.999・・99パーセントが空(くう)である。
我々がこの体である・・と考えるその身体は
0.00・・・1パーセントの占有率しかないのだ。

したがって、私は何か?と問うときに、
「わたしはこの体である」・・にはほとんど正当性がない。


自分の顔が身体が、好きだ嫌いだ、忌避したい・・ではなく、
実際、自分は肉体だと、そういう話ではないということだ。

100パーセント完全に間違いだとは言えないが、
絶対的な確信をもって、それが真実だと、
真顔で言えるものでは毛頭ないことはわかるだろう。

そういう意味において、
「私はこの体である」・・という集合的信念は・・”虚偽”・・である。
嘘、誤認、思い込み、幻想の中のさらに大嘘、
なんとでもいえるが、そういうことである。


「私は体感的にいっても、この体だよ、だってそうじゃない!?」
・・は、残念ながら、これこそ無知の証なのである。


簡単に時空の有り様を観察すればわかるはずだし、
難しい量子論や電子工学を学ばずとも理解が可能である。

宇宙はほとんどが空間であることを知れば充分である。
また、宇宙の中には80%程度のダークマターがあるとか、
そういう科学的想定もあるが、
それは観測される物質のほかにまだ見えない物質、
いわゆる暗黒物質があるはずだというものであり、
宇宙の中の物質系の占有率はほとんどゼロ、
0.000・・・1パーセントが0.000・・・8パーセントになるだけの話。

我々は唯物的価値概念の組み合わせの世界、
とうとう、
どこもかしこも金換算される世界にいるが(笑)・・

実のところ、
どこもかしこも空(くう)であり、
見晴るかす無限の彼方も、身近な身体の中も空(くう)である。

科学で取り上げる無数の銀河、星々も、
空(くう)の中に生じる無限の波動多様性のその顕現である。


私たちは何か?と言えば、人間だ、個人だ、男だ女だ・・という、
わたし=肉体の、常識的観念が幅を利かせているが、
その肉体さえも、無限の空(くう)の中に一時生じては滅する、
無限の空(くう)の中の身体、個人化した1つの波動形態のことを言っているに過ぎない。

繰り返しになるが、
身体の最も占有率の大きいものは何かといえば・・空間・空(くう)なのである。
空、空間をいつも勘定に入れないから、全く気付かないのだ。

空(くう)は何もなく、無価値で虚無だという「先入観念」があるのだ。

私はこの体だ・・というのは、
0.0000・・1パーセントの素粒子の集まりのことを言っている。
したがって、空間の中の占有率でいえば、

私たちは、いやすべて、
事物・事象、宇宙は・・空(くう)であり、
その中に生じては滅する、波動・エネルギーを含むものである。

・・・と、そう言うことができるのである。

そう、わたしたちは・・即ち・・空(くう)だ。
色即是空、空即是色に間違いはない。
世界のことではなく・・私たちそのもののことである!




この空(くう)を科学概念では「真空」といい、何もない空間とされている。
その何もない虚空、真空にどうして物質が生じているのかが理解できない。

何もないものから何かが生まれる等というのは、
原因と結果の因果律に即していないと考えられるためだ。

空(くう)は何もないこと、ゼロ、・・誰しもが怖いと感じる「無」である。

すべては「色即是空」などと言おうものなら、
結局はすべてが空(くう)、無であるということから、
虚しさ、空しさが沸き起こるものだ。

重箱の中身が空っぽなのは絶対に嫌だ。
何か貴重な物で満ちていてほしい。
もの銭金で満ちていてほしい・・、

唯物的世界で生きている間に無意識に刷り込まれた、
そんな観念があるためだと気づけるだろうか。

「すべては結局、空(くう)に帰すって・・あんた、
そんなのありかよ?」と肉体自我が言う。

何も無い・・ゼロからどうして有が生じるのか?
0かける3も100も・・0ではないか?という思考である。

無という観念からくる恐怖、
死んだら終わりで何もない、恐怖観念。
それらがマインドの潜在層で振動しているためだ。
自分自身を・・死すべき物質肉体だという信念のままであること、

それがこの次元世界の「籠の鳥」の有様である。




しかしながら、よく見てみよう。
何も無いわけがない、本当の現実を観てみよう!

今ここに、わたしは在り・・そして、
世界も物も思考もある・・と観察している。
しかしながら、
<わたし>は・・身体ではない、
さらに、わたしはそういう観念・思考でもない、

それを生じせしめるところの母体、
物質、時空を、宇宙を、銀河を生じせしめるところの源、

それをここでは・・空(くう)と言う。
いまでも、どこでも、あなたや私を満たしている・・それ。

空(くう)は無ではない、
あらゆる波動の生じる・・根源であり、
時空も思考も超えたもの、
いつでもどこでも、どこに行こうと・・在る・・ことだ。

空(くう)以外にそれを為し得ようか?

いや、在ることが出来ようか?