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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

目覚めの道程(7)空(くう)の気づき

2018-09-21 06:50:51 | 真我実現シリーズ

科学的な手法によって、自分の体や世界に意識的にズームインすると、
それらは、ほとんどが空間であり、
その空(くう)の間に、無数の微細な波動・エネルギーがあり、
様々な振動・回転運動が行われているということが理解できるだろう。

我々の後生大事な身体、環境、世界、そして宇宙も同じである。
世界は波動でできた、幻影、仮想現実、ホログラフィック宇宙といわれる所以である。
時々鑑賞する、2次元平面の映画も基本は全く同じ仕組みである。

支配層がようやく真実をディスククローズし、
世間の皆がそうだそうだと言い出すのを待つ必要などあるわけもない。
わたしたちは、すでに事実認識ができるのである。

・・・
すべては虚空のなかにあり、
あらゆる諸現象・物事は、空(くう)より生じては滅するそれ、
”波動”で出来ているということだ。


したがって「わたしは何か?」・・というならば、
わたしはこの体である・・と相変わらず主張したとしても、

実のところは、わたしは・・空(くう)であり、
また、そこに”生じては・滅する”性質を帯びた「波動」である
・・ということになる。

そうではないか?

残念ながら?、仮想、・・そう、それこそが真実である。
絶対的な物質価値や権威など、どこにもないのである。
あなたはまだ、この世の厳しい現実?とやらに、おろおろしているのだろうか?

---

2500年前にお釈迦様に諭されたとされる、
舎利子(シャーリープトラ)も肝をつぶしたに相違ない。(笑)

いやある意味では、
物質・便利さ、快楽を追及する現代人ほどよくわかるかもしれない。

とはいえ、・・今はもう、
むなしい感情を胸に抱く必要もないし、
自堕落ややけくそになる必要もないし、
人生をいい加減にやり過ごす必要もない。

身体の安定、快楽、快感の追及に身をやつし、
物欲・性欲・権勢欲に必死になる必要もなければ、
髪を振り乱して何かに追いすがる必要もない。


その幻影世界を、幻影として見破りながら、
この次元の映し出す映画を鑑賞するように、
できるだけ楽しく、面白く味わうことが
その務めでもあると理解すべきなのである。

人々の周りの後生大事な物質形のすべては、
はかなき夢まぼろしのような・・物、
まったく「下天は夢幻のごとくなり」・・だ。

人生とはこの世界で作られた幻影の身体が・・、
その世界との波動共鳴が続く間だけのものだ。

----


空(くう)に生じる波動エネルギーが、
素粒子、分子・物質という具合に重合し、
それは、無限小から無限大まで展開するフラワーオブライフのように、
無数の波動の組み合わせが、これまた無限に生じている。
そして、それが多重の振動帯域、多次元宇宙を構成している。

わたしたち・・という、個別化された普遍意識(魂)は、いま、
その1つの周波数帯域に・・それもかなり小さく閉じられた領域にいる。
それを「地球」と言っている。

我々の生きている間に繰り返し目覚めるこの世界、
朝、目が覚めて起き出す、いつもの等身大?のこの世界は、
その物質身体に”波動共鳴”している世界であり、
我々が物質と呼ぶ、最も粗大な波動表現の世界なのである。

そして、この世の多くの人は、
その等身大の世界だけを・・実在する世界と”思って”いるわけだ。
偏向情報で作られた、世間や常識観念という物質偏重のカテゴリー世界だ。
またこの世界は、閉ざされた観念体系の世界、監獄惑星などとも呼ばれる。



しかしながら、この世界で、幾千年の幻影の時間が過ぎてゆこうと、
気づかず知らず観念の濁流に身を任せ、
同じ時空間で生まれては死ぬを繰り返す輪廻転生を過ごしたとしても、

実のところは、この世界は、
観念で執拗に作られた幻影世界であると”気づく”までの間である。

誰もが固執するその物質的身体の、
空(くう)における占有率は・・ほぼゼロに近い。
笑うに笑えない有り様なのである。

そして思考や想念も、あなたが知覚できるものであり、
やはり波動エネルギーであることに変わりはない。

あなたは体の具合だけではなく、目に見える街の景色や、
他の人の行為や姿だけでなく、
自分の思考や感情、想念、思いにも・・”気づいて”いるだろう。

そう、あなたは宇宙や物質、世界や人々に気づくと同時に、
思考や想念にも気づいている。
思考、想念、感情・・それもまた「波動」である。

わたしの身体は、広大無辺な”虚空”の中のエネルギー波動だ。
そして本質のわたしとは・・すべての波動が生じて滅するところの根源
無限の可能性である・・空(くう)であると言える。

誰もが往々にして感じてしまうところの、
空(くう)は何もなく空っぽ、虚無、無・・という思考は、
この世的物質偏重観念でしかない。
無とは、それ・・無いのである(笑)

何度も言うが、
すべては波動、それは空(くう)より生じ、空(くう)に滅する。
あなたもわたしも・・
あなたの身体も、そして思考・想念も・・”それ”である。

宇宙や身体や想念という波動を無数に展開・投影するそれ、
本質のわたしが、空(くう)であれば、

それは・・・ミクロからマクロ、宇宙の・・、
あらゆるところ、あらゆる時に・・偏在する気づき、意識であり、
定義不能、無限の可能性、あらゆる叡智の源である。

あなたもわたしも、十分に気付かず知らずかもしれないが、
いま・・在る・・ことが、その証拠である。

I AM THAT I AM
わたしは・・在る・・ことそのもの。


目覚めの道程(6)空(くう)と波動

2018-09-11 05:28:41 | 真我実現シリーズ
我々の身の回りにある事物、あらゆるすべては「物質」と言われるものだ。机、パソコン、調度品、食物、家、山、川、地球、そして宇宙すべて、物質といわれるものである。

それらを小さく小さく分解、分析してゆくと「原子」というものがある。
原子は核と電子で構成され、原子核は陽子と中性子という素粒子が集中したものとされている。そしてその周りに電子が回っているとされている。

問題は、原子核や電子の想定される大きさに比べ、その間の距離がトンデモなく大きいため、この原子の密度たるや、体積比で10のマイナス14~15乗程度の、
まるでスカスカのすっからかんのようなものなのである。

広大無辺な空間の中に、相互に関連付けられたきわめて微小な運動する素粒子があり、
それらが集合したものが原子、ひいては物質と呼ばれるものである。

我々の見る世界はその物質で満ちているが、
それらの密度たるや、”ほとんど”ゼロに等しいのだ。
我々の肉体も原子でできているわけなので、実のところ密度がほとんどゼロということだ。

その微小な運動する素粒子は、玉・球状の塊などでは毛頭なく、”波動エネルギー”の局在化されたものだということだ。またそれら原子・電子、さらに微小な素粒子の関係性が、電磁気、重力、弱い、強い核力などという、何種類かの”力”として定義されている。

原子同士やその集合である分子のそれぞれは、自己の存在領域をエネルギー振動で確保しているため、そのエネルギー振動領域同士が出合えば”反発”することになる。



簡単に言えば、微細な波動の様々な重合の結果、エネルギー密度はほとんどゼロでありながら、我々の”等身大の世界”では、それが”固い物質”と観察されるのである。

物質的な科学で解ったことは何かといえば、難解な数式など使わずにかいつまんで言うと、そういうことである。

空間の中にある微細なエネルギー・波動が、物質というものを作っている。
硬い硬いと思っているそれを突き詰めてゆくと「波」のようになって、波動的な存在確率などと呼ばれるようなものになる。

つまり物質と呼ばれるものは、突き詰めると「波の動き」:波動ということだ。



その波動・エネルギーの密度自体は、空間に比してほとんどゼロの占有率しかない。
硬い物質なるものは、スカスカ、ほとんどスッカラカーンといわれる所以である。

波動は波の動きであり、それ自体エネルギーを持つ。
持つというよりも、それ自体、波動・エネルギーなのである。
物質、我々の身体も・・それ以外に何であろう?

科学的な探求結果を信じるならば、そういうことになる。
しかしながら、
それが何の役に立つ?・・経済効果は?・・・そんな思考が刷り込まれているため、
いつもそこで止まってしまうだろう。


広大無辺な空間の中に、微細なエネルギーが運動・振動している。
しかも、その空間占有率が限りなくゼロに近い波動エネルギー、
なので、時空間、宇宙は、エネルギーで出来た立体ホログラムのようなもの。

それが我々の周囲のすべての事物であり、またわたしの肉体・身体なのである。

したがって、こう言うことができるはずだ。

わたしがこの体、物質的肉体である・・ならば、
それは実のところ・・ほとんど空間そのものである・・というに等しい、と。



20世紀に解明された物質の性質で常識的に解釈するならば、
わたしは・・この体である・・は、
概念だけで抽象化された言いぐさ、かなり当て外れな表現であり、
きわめて・・皮相な自己認識であるといえよう。

わたしとは・・ほぼ、ほぼ空間である、

また、
空間とは・・無限またゼロの虚空の中に生じる
エネルギー波動(物質)の・・間・・のことだ。

あるいは
わたしとは、まさしく「空(くう)」であり、
またその空(くう)に生じる”エネルギー波動”を含むものである。

わたしは物質肉体だ・・というならば、
それはつまり、わたしは空(くう)だ、ということになる。
オー、マイゴッド!

つまり、”色即是空”、”空即是色”である。


ところで、”わたし”は・・どこにいる?






目覚めの道程(5)時空は・わたしの中にある

2018-09-08 05:22:53 | 真我実現シリーズ
「体」は”意識”の中にある。
同じく、「時空」は・・”意識”の中にある。

それに違和感を覚えるのは、「わたしは体である」という信念が故である。

わたし・意識は「体の中」にあり、
体は「時間空間・宇宙の中」にある・・と考えている。

”わたしという小さな身体が、時間空間・宇宙の中にある”
という「観念」がきわめて強いためだ。

その場合は、意識が、身体・肉体に”固定”されているということだ。

意識が次元降下して、肉体次元に固定されているとも言えよう。
あなたは次元降下していたのだと言えば、驚くかもしれない。

驚くならばしめたもので、何を言っているのか皆目不明の場合は、
完全に次元降下中、輪廻転生のただ中ということだ。
そういう場合には、
何があっても、何を言っても、気づかない、
または無関心、良くて拒絶である。

わたしは意識である・・という理解に至らなければ、
<わたし>の中に、体や世界があるなどと到底理解も及ばない。

わたしは・・意識であり、時間空間を超えている、
つまり、
時間空間は・・意識の中にある。

「えー、それってありっこない!・・無理!」と思う。
あるいは、そうかもしれないと思う。

結局は、まったく・・それ・想念の形・・なのだ。
信念というか、理解の範囲、常識となっている思いとも言えよう。

こころの法則とか、引き寄せの法則とか、そういうものは、

お金や富を引き寄せるマインド状態などと捉えているかもしれないが
良き事のみ、ずるずる引き寄せる?
あるいは磁石のように金目の事物を引き寄せるのではなく、

「意識」が「想念」を形作り、想念がその鋳型に従って世界を投影するということだ。

魂・意識によって、想念の鋳型・フィルターに投影パターンを書き込み、
想念の形に基づいて、その周囲・環境・世界を映し出す。
さらに投影された世界を、知覚・フィードバックして、
想念のパターンをさらに修正・改善してゆく。

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意識の局所的投影表現形である・・「体」は・・”意識”の中にある。
同じく、意識大規模な投影形である・・「時空」は・・”意識”の中にある。

それに違和感を覚えるのは、「わたしは体である」という信念が故である。
人類集合意識にそれが強く書き込まれていれば、
人類全般が知覚する「時空」は、そういう反映として顕在化するしかない。
それを物質中心の3次元世界などと言ってもいい。

さらに、
世界が今、明らかに大きく変動しているかに見えるのは、
それが、今飽和し、必然ながら崩壊しつつあるからだ。
それとは、古い3次元的な信念体系のことだ。

信念体系に変動があれば、
その表現型である「世界」は変動しないでどうするというのか?
と、そういうことなのである。



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引き続き、
ロバート・モンローの著作からの抜粋

3.
 人類が己の存在機構において極めて重要と考える覚醒時の支配的意識は、人類の手に入り、利用できる様々な形態の一部分でしかなく、また、多分それも大して重要とは言えないものの一部分であろう。
 覚醒時以外の意識は組織的に--ただし注意を払いつつ--危険性を伴わず、破壊もせず、支配的意識部分に付け加えられる。
 その結果は現在の支配的意識部分にとって、考えも及ばぬほどの重要性を持つかもしれない。
ゆえに、支配的意識部分に不安をもたらすだろうし、全面的に拒絶に合うのふが落ちであろう。

4.
人間の意識というのは、2.で述べられた条件のもとに生成されたシステムが顕在化したものに他ならない。人間の意識は振動するパターンを持つ。そのパターンは外的要因に反応して働くパターンのように複数の層を持ち、数多くの相互作用や共鳴する周波数を持つ。
 このようにして人間の意識をさらに活用する鍵となるのは、望ましい、あるいは必要な特質を増強できるように、共鳴周波数を外部で生成し、それを適用することである。(これはヘミシンク技術のこと)





目覚めの道程(4)体は”意識の中”にある

2018-09-07 06:11:07 | 真我実現シリーズ
覚者マハラジは「わたしは誰か?」に答えは無いと言った。

昔から悟った者たち、覚者たちの言うことは、
いつも禅問答のように、つねに矛盾と逆説を含んでいる。
その表明自体、大体が意味不明と受け取られるものだ。

しかしながら、
その中の真の意味を探ろうとする人は、実は”幸いな人”である。
そういう存在は、
探ろう、確かめよう、知ろう・・とする「意識」が生じており、
つまり目覚めつつあり、意識が覚醒し始めているのだ。

わたしは誰か?・・わたしとは何か?に、
「答えが無い」と言うことは、どういうことだろうか?

そう、あなたは誰か?・・に特定の「答え」はない。

つまり、
わたしは「これ」だ、俺は「あれ」だ・・は間違っているという意味だ。
間違っている・・は、本質ではないという意味でもある。
間違っている・・思い違い、当て外れ、思い込み、幻想・・
本質ではない・・すべて同じ意味である。

わたしは男だ、女だ、大人だ、体重は、趣味は、経歴は・・。
それら、すべて「肉体」にまつわる観念、定義づけ、想念である。
それは一過性のもの・・「幻想」だということだ。


わたしが=それ自体でなく・・
わたしが=そういう認識をしている・・と気付けばよいのである。
現実そのものでなく、そう認識している・・当人(意識)だと気づくのだ。

それって、わたしの現実でしょ?!・・ではなく、
わたしとは、それを現実として・・意識・認識している・・それと知る。

外の騒がしい世界でなく、内面と言われる意識に深く気づいてゆく必要があるのだ。
スピ系での表現は、この3次元でなく高次元に移行する・・という表現になるだろう。

いわゆる高次元とは「意識」を抜きにした別の天国、あるいは宇宙等ではない。
どこに行こうと・・いつも、どこにも在るのは<わたし>ではないか?

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以下は、
ヘミ・シンクという、”意識”に関する技術の開発者として有名な、ロバート・モンローの言葉である。
(ヘミ・シンクとは、俗に幽体離脱、魂の体脱に関する技術とも言われるが、つまるところ、
わたし・意識が時空間を超えた存在であることを自覚可能な技術的方法のこと。)

聖者・覚者の珠玉の言葉と同じ内容でありながら、
現代人にわかりやすい、より具体的、科学的な用語で説明されている。

こういう言葉のストリームは、既存の観念体系に穴をあけ、
意識に高い波動を喚起するため、
噛んで含めるように、繰り返し時間をかけても熟読する価値がある。

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「魂の体外旅行」(体外離脱の科学)ロバート・モンロー、
p27 セグエの項(1~5) 抜粋


科学的な解説に基づく、<魂>の話であるともいえよう。

うわさや妄想、単なる美し気な想像イメージの話ではなく、
彼らが実際に「体験した」ことから導き出された事実報告である。

1、
すべての人間が睡眠中に体脱状態に入る。

眠りの状態へと進み、眠りに陥るというプロセスは、単純に言って、
物理的な時空間と異なる位相へと移行することだ。

睡眠の様々な段階は、この位相の観点から容易に解釈できる。

だから、深い眠り、つまり「デルタ」睡眠は意識が完全に物理的現実世界から、
切り離された時点を表すことになる。
そしてその時点で肉体は必要に応じて意識を呼び醒ますように、
前もってプログラムされた警戒警報付きシステムで自動的に作用している。

ほとんどの人がこうした夜な夜なの「遠足」を思い返せないし、
覚えていないという事実は、
その人が「遠足に出かけなかったという証拠としては不十分である。
一晩酒を飲み過ぎただけでも、同程度の健忘症が起きる。

2.
人間の主流をなす考え方によって未だ確認も計測も行われていない
ダイナミックなエネルギーの形態が、炭水化物を基盤とする有機体のすべてに存在する。

この組織化されたエッセンスが、物が生まれる前に肉体に入り、死の際に、
より多くの教育を受け、ほとんど消耗されていない状態で出ていく。
人間のこのようなエッセンスと、牛や虫のエッセンスとの差異といっても、
単に、そのような組織の複雑さの度合いだけのことだ。

・・・

(つづく)


目覚めの道程(3)マインドに気づく

2018-09-06 05:40:40 | 真我実現シリーズ
人間は、肉体と精神と魂の複合体だ。
それぞれの違いをはっきり認識できるだろうか。

超簡単に搔い摘んで言うとすれば、

「肉体」の働きを観ているのが「精神」(こころ)だ。
またその「精神」(こころ)の働きを観ているのが「魂」だ。
なので、魂に気づくためにはまず精神(こころ)を観る必要がある。

知る・見る・観る・・は、”意識して気づく”と同じ意味と考えてよく、
肉体、精神(こころ)、魂は順次、意識の高次の段階といえよう。

魂の進化とは、
意識の高次への段階・・より深く広く気づいてゆくプロセスだ。
個別意識から普遍意識へと、
小さな顕在意識から、無限の潜在意識へと広がる過程といえよう。

また意識の可能性の成長発現は、マインド、現象体(身体)の表現を伴うため、
より高次のマインド、ボディを必然的に付帯させることになる。

・・・

あなたは単なる働く”肉体ボディ”なのか?・・違うだろう。
こう言えば、よほどボケていない限り、違うというはずだ。
わたしは単なる肉体ではない・・と理解できよう。

それでは、あなたは、
肉体ボディを意識している、こころ(マインド)なのか?
頭の中で?いろいろ考えていること、こころなのか?

私は単なる肉体ではないとすれば、
わたしは心かもしれない、あるいは、
肉体とこころの複合したもの・・と思うだろう。

一般的に、
こういう風には突き詰めて問いかけ、考えることなく、
人生を生きている人が多い。
そうではないか?
実は自分もそうだった。
正直、あなたはどうだったろうか?

肉体の上位というか高次に位置する「こころ・精神」を
まるで無視するように教えられてきただろう?
無視はどこか強い言い方だが、素通りするとでも言おうか。

マインド・こころ・精神は・・どうということもない、、
記憶と計算だけの働きしかないような扱いに終始しているわけだ。

そして、何か人生で大きな問題などがあって、
こころの方向に気づき始めると、
今度は様々な宗教が、「いらっしゃいませ~」と待ち受けている。(笑)

「こころがなんぼのもんじゃい!」
肉体の安楽と快適さを求めるためには、銭・金・物・地位・富が大切、
そのための学業、知識がなおさら重要だと
・・いつの間にか・・教え込まれてきたということだ。

意地の悪い言い方をすれば、
経済社会の働き蜂としての洗脳を受けてきたわけだ。
とはいえ、
オフィシャルな教育が良いとか悪いとかの話ではなく、
国家・社会は、あなたを無条件に愛する親のようなものではなく、
結局はそのオフィシャルに好都合な情報・教育がなされるということなのだ。

同じ類の観念が無数に繰り返されるため、
それが唯一の真実であると・・思い込んでしまう。
そういうやり方を「マインドコントロール」と言っている。

メディアがすべて、民衆のための貴重な情報をまじめに流すもの、
そんな風に考えて疑わないことは、
「わたしは悪くありません」式の人の良さの自己主張のようなもの、
善良さの証拠とは決して言えず、結局それはマインドの幼児性が故であり、
まったくの無知の証拠であると考えるべきだろう。

良かれ悪しかれ、支配の基本は、大衆のマインドの方向付けなのだ。
心・マインドがなんぼのもんじゃい・・どころではなく、
人にとって、最も重要なものであることを、
知らず、知らされず社会の中に生きている。

あるいは、何だか知らない恐怖と不安を打ち消すために、
一所懸命頑張らなければならないと涙ながらに思い込む。
そして「明日も頑張ろう・・」
支配観念にせっつかれて頑張るか、嫌だと逃げるか、大体どちらかだ(笑)。

ちょっとまった、と立ち止まり、
何かに条件付きで動かされていないか?と考える人は
そんなに多くないかもしれない。

集団の中で安心しながら、なぜか分離の孤独の中で孤軍奮闘する場合、
人生は、何のためか?・・・を忘れているし、
立ち止まることに恐怖を憶えているのである。

しかしながら、いつか、
そういう無知と恐怖のはざまにいる、
自己自身に気づく時が来るのである・・今・・。

ある種のマインドの状況に閉じ込められ、
それが真実だと思い込み、経済だ地位だと頑張って、
挙句の果ては、家族や人々がどこか諍いながら、分離の極致に陥り、
頼みの綱の小金さえも、投資名目で使い込まれている現状を見てみよう。
さらに、
いつ何時「預金封鎖」が起きるかもしれない状況を知っているだろうか?

さらに、それらの生命舞台である地球のことを全く顧みる余裕もなく、
気づけばもう既にその付けが回ってきているのかもしれない。
そういう状況に気づけないだろうか。
頻度を増した地殻変動、気象異変は、
人類全体に気付かせるための警告だと感じても良いはずだ。

自己に都合のよい・・ポジティブシンキングなどもう役に立たない。
そういう時期に来ているのかもしれないと、
あなたは思えないだろうか?

どんな状況、環境があろうと無かろうと、
魂は進化し続け、様々なサイクル、生と死を繰り返しつつ、

わたしとは何か?を意識し続け、探求は広がってゆく。

いま問うてみよう。
わたしとは、
朽ち果てるべき単なる肉体なのか?
それらを表現体とする、こころ・マインドなのか?
あるいは肉体やマインドを超えた魂、あるいは至高の実在なのか?

今、あなたのマインド、こころはどう想うのだろうか?

・・・





 わたしは在る(ニサルガダッタ・マハラジ) 

今はまだ公開されているニサルガダッタ・マハラジのユーチューブであり、
これは、是非にも体験してほしいものだ。
覚者、悟りし者、真我の実現者とも言われるマハラジの言葉を、
静かに、真摯に、理解を深めつつ聞くことは、
いわゆる波動が上がる近道となるだろう。
余計なお世話だが・・、時間が無いから聞けないよと言う人は、
そう、確かに時間がないと心得るべきかもしれない。

百聞は一見に如かず。

見るとは観ることであり、意識に触れることだ。
高次の意識に触れることで、その意識の波動が上がることになる。
我々は、外の世界の、何か役に立つと言われる低次の意識ばかりに触れて来た。
そして次元降下をしてきたのだ。・・・
もうそれは、やめたが良い時期だろう。