「生まれ変わり?・・・そんなの迷信だよ、科学的じゃない」とある人が言っていた。
当たり前のように、さも当然の科学的認識のように・・・だ。
しかしながら、それは現在までの「物質的科学では証明できない」というだけのことに、全然気付いていないのである。
こんな感じで、何事も自らが確認し、腑に落ちるまで探究することをせずに、尤もらしい権威筋の言葉を受け売りするだけに徹している人も多いだろう。
だれも決して責任等持つわけでもないのにだ。
人生、生きるとか死ぬとかいうことは、まるでDVD映画を「何巻も借りて見る」ようなものだろう。
また、シリーズ本を「何冊も読む」ようなものでもある。
次元設定、シチュエーションが違えども同じパターンではないか。
体験、物語自体に・・・自己の意識を投影・投入する・・・そういうパターンである。
それになぜ何巻も鑑賞したり、何冊も読むのだろうかと言えば、結局それが面白いからだろう?
例えば、今迄のこの地球の演目ように、
そのテーマが無知や悲・喜劇のストーリーならば、
その主人公は、その映像や物語の中で、楽しい反面どこか悲惨で苦しい役をも負っているものである。
あなたはどうだろうか。
しかしながら、「読者」(魂)としてのあなたは、
その物語に引き込まれ(下生して)、登場人物にいつか成り替わり(人格を形成し)、
それを『自分のこととして味わう』ことで、ハラハラ・ドキドキしつつも、
実は魂レベルではその醍醐味を感じているのである。
それは、魂としての本質の<あなた>が、ある人格を演じつつ体験進化しているということだ。
しかしながら、小さな表面意識、それも不特定多数の影響をもろに受けて、常識観念にはまり、
それにがんじがらめになっている場合はなかなか気づけないものである。
いわゆるマトリクスの中で身動きできない在り様とも言える。
自己とは何か?・・・まるで、てんで皆目わからずに人生を送る場合もあるわけだ。
だから本質の自己を思い出す・・までは、この世界あるいは同レベルの世界で生死を繰り返すことになる。
それはいわゆる3次元的な、物質偏重的な観念世界独特の学びだとも言えようか。
ところが、それもいつか卒業すべき時がくるのである。
しかしながら、今までのような残留と再生は、今回の特殊なステージでは不可のようであり、
それは同じレベルの世界での横滑り的再生となるかも知れない。
それも、どうするのかを、あなたの本質:魂はすでに選択済みという事かも知れないのである。
今はそのチャイム音が教室全体に鳴り初めていることに、本当に気づけるだろうか。
時は金なりではなく、今の時は目覚めの鐘鳴り・・・ということだ。
この時期に及んで、何を言おうと、どうなろうと、未だ本質の自己に気付けない人々は、
そういう人生物語の中で、喜々としつつ没我となっている段階なのだ。
そんな風であれば、
体験者としての魂:本質の自己に無自覚である為に、忘れたままであるために、
いつか、その(人生)物語が必然的に一巻の終わりとなった場合、一時非常なショックを受けることにもなるし、
それを観ている「高次の自己」にその意識を戻すプロセスさえも忘れてしまうだろう。
そのための救済のプロセスとして、
臨死体験や体脱体験の、その事実認識や、
否応のない「科学的」「統計的」な証拠が出てくるようになったのだと察してよいだろう。
そう、今はもう目覚める時なのである。
ずっと、今までの「未だ」は・・すでに「もう」なり・・・ということだ。
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「臨死体験9つの証拠」 P76より・・・
6.臨死体験中に出会うのは、まず例外なしにその時点で死亡している人間で、ほとんどの場合、親族である。
臨死体験中に知り合いと出会うとき、それは必ずと言っていいほど死んでいる人間だ。対照的に、夢や幻覚の中で会うのは生きている人間が多い。これも臨死体験と夢や幻覚とを区別する際立った特徴で、臨死体験の信憑性をいっそう裏付けている。
臨死体験者が見覚えのある人物に出会う事例は多いが、誰だかわからないこともある。しかし、のちに一族の古い写真を見るなどして、身元が判明するケースもある。
7.幼い子供の臨死体験と大人の臨死体験の内容が驚くほど似通っているという事実は、それらが現世での何らかの信条に影響されたものではないと強く示唆している。
五歳以下の幼い子も含めた子供たちの臨死体験の特徴は、大人の臨死体験の特徴とほぼ一致する。この事実自体が、臨死体験は、夢やでっちあげではなく本物だという強力な証拠だ。
なぜなら子供たちは大人と違ってほぼ確実に、今まで臨死体験のことなど耳にしてこなかったはずだからだ。彼らはライフ・レビュー、トンネル体験といった臨死体験の特徴をおそらく何も知らない。
自ら臨死体験---多くは生まれて初めて---をして初めて、そうしたものの存在に気付く。子供と大人の臨死体験の特徴がほぼ一致するという事実は、臨死体験が真実で、何らかの信条や文化的影響、人生経験に触発されたものではないというもっとも強力な証拠と言える。
8.世界中の臨死体験の内容が驚くほど共通しているのは、臨死体験が本物だという証拠である。
この事実をわかりやすく示すたとえ話がある。アメリカ人とスペイン人とメキシコ人の家族がパリへ行ったら、三家族とも同じエッフェル塔を見るか?
答えはもちろんイエス。違いが出るとすれば、それぞれの説明の仕方である。これと同じことが、異なる文化圏の臨死体験者たちについても言える。私たちのもとに世界中から寄せられる体験談からは、その内容の驚くべき共通性が見てとれる。
9.臨死体験者は、体験後にさまざまな面で変化を遂げ、その多くは一生続く。
研究では、臨死体験後にその人の人生にはっきりした長期的な変化が起こるという結果が出ている。まず臨死体験者は死への恐怖が薄れ、これと反比例するように死後の「生」を信じるようになる。死から生還したあと、人を助けたり癒したりする職業を目指すケースが見られた。
さらに彼らの多くは臨死体験によって大きく変わり、それまでとは違う人間、つまりより善良な人間になっている。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
当たり前のように、さも当然の科学的認識のように・・・だ。
しかしながら、それは現在までの「物質的科学では証明できない」というだけのことに、全然気付いていないのである。
こんな感じで、何事も自らが確認し、腑に落ちるまで探究することをせずに、尤もらしい権威筋の言葉を受け売りするだけに徹している人も多いだろう。
だれも決して責任等持つわけでもないのにだ。
人生、生きるとか死ぬとかいうことは、まるでDVD映画を「何巻も借りて見る」ようなものだろう。
また、シリーズ本を「何冊も読む」ようなものでもある。
次元設定、シチュエーションが違えども同じパターンではないか。
体験、物語自体に・・・自己の意識を投影・投入する・・・そういうパターンである。
それになぜ何巻も鑑賞したり、何冊も読むのだろうかと言えば、結局それが面白いからだろう?
例えば、今迄のこの地球の演目ように、
そのテーマが無知や悲・喜劇のストーリーならば、
その主人公は、その映像や物語の中で、楽しい反面どこか悲惨で苦しい役をも負っているものである。
あなたはどうだろうか。
しかしながら、「読者」(魂)としてのあなたは、
その物語に引き込まれ(下生して)、登場人物にいつか成り替わり(人格を形成し)、
それを『自分のこととして味わう』ことで、ハラハラ・ドキドキしつつも、
実は魂レベルではその醍醐味を感じているのである。
それは、魂としての本質の<あなた>が、ある人格を演じつつ体験進化しているということだ。
しかしながら、小さな表面意識、それも不特定多数の影響をもろに受けて、常識観念にはまり、
それにがんじがらめになっている場合はなかなか気づけないものである。
いわゆるマトリクスの中で身動きできない在り様とも言える。
自己とは何か?・・・まるで、てんで皆目わからずに人生を送る場合もあるわけだ。
だから本質の自己を思い出す・・までは、この世界あるいは同レベルの世界で生死を繰り返すことになる。
それはいわゆる3次元的な、物質偏重的な観念世界独特の学びだとも言えようか。
ところが、それもいつか卒業すべき時がくるのである。
しかしながら、今までのような残留と再生は、今回の特殊なステージでは不可のようであり、
それは同じレベルの世界での横滑り的再生となるかも知れない。
それも、どうするのかを、あなたの本質:魂はすでに選択済みという事かも知れないのである。
今はそのチャイム音が教室全体に鳴り初めていることに、本当に気づけるだろうか。
時は金なりではなく、今の時は目覚めの鐘鳴り・・・ということだ。
この時期に及んで、何を言おうと、どうなろうと、未だ本質の自己に気付けない人々は、
そういう人生物語の中で、喜々としつつ没我となっている段階なのだ。
そんな風であれば、
体験者としての魂:本質の自己に無自覚である為に、忘れたままであるために、
いつか、その(人生)物語が必然的に一巻の終わりとなった場合、一時非常なショックを受けることにもなるし、
それを観ている「高次の自己」にその意識を戻すプロセスさえも忘れてしまうだろう。
そのための救済のプロセスとして、
臨死体験や体脱体験の、その事実認識や、
否応のない「科学的」「統計的」な証拠が出てくるようになったのだと察してよいだろう。
そう、今はもう目覚める時なのである。
ずっと、今までの「未だ」は・・すでに「もう」なり・・・ということだ。
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「臨死体験9つの証拠」 P76より・・・
6.臨死体験中に出会うのは、まず例外なしにその時点で死亡している人間で、ほとんどの場合、親族である。
臨死体験中に知り合いと出会うとき、それは必ずと言っていいほど死んでいる人間だ。対照的に、夢や幻覚の中で会うのは生きている人間が多い。これも臨死体験と夢や幻覚とを区別する際立った特徴で、臨死体験の信憑性をいっそう裏付けている。
臨死体験者が見覚えのある人物に出会う事例は多いが、誰だかわからないこともある。しかし、のちに一族の古い写真を見るなどして、身元が判明するケースもある。
7.幼い子供の臨死体験と大人の臨死体験の内容が驚くほど似通っているという事実は、それらが現世での何らかの信条に影響されたものではないと強く示唆している。
五歳以下の幼い子も含めた子供たちの臨死体験の特徴は、大人の臨死体験の特徴とほぼ一致する。この事実自体が、臨死体験は、夢やでっちあげではなく本物だという強力な証拠だ。
なぜなら子供たちは大人と違ってほぼ確実に、今まで臨死体験のことなど耳にしてこなかったはずだからだ。彼らはライフ・レビュー、トンネル体験といった臨死体験の特徴をおそらく何も知らない。
自ら臨死体験---多くは生まれて初めて---をして初めて、そうしたものの存在に気付く。子供と大人の臨死体験の特徴がほぼ一致するという事実は、臨死体験が真実で、何らかの信条や文化的影響、人生経験に触発されたものではないというもっとも強力な証拠と言える。
8.世界中の臨死体験の内容が驚くほど共通しているのは、臨死体験が本物だという証拠である。
この事実をわかりやすく示すたとえ話がある。アメリカ人とスペイン人とメキシコ人の家族がパリへ行ったら、三家族とも同じエッフェル塔を見るか?
答えはもちろんイエス。違いが出るとすれば、それぞれの説明の仕方である。これと同じことが、異なる文化圏の臨死体験者たちについても言える。私たちのもとに世界中から寄せられる体験談からは、その内容の驚くべき共通性が見てとれる。
9.臨死体験者は、体験後にさまざまな面で変化を遂げ、その多くは一生続く。
研究では、臨死体験後にその人の人生にはっきりした長期的な変化が起こるという結果が出ている。まず臨死体験者は死への恐怖が薄れ、これと反比例するように死後の「生」を信じるようになる。死から生還したあと、人を助けたり癒したりする職業を目指すケースが見られた。
さらに彼らの多くは臨死体験によって大きく変わり、それまでとは違う人間、つまりより善良な人間になっている。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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