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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識作用の現実への写り込み

2008-05-20 08:28:22 | 心の科学分野

●念写実験の試み

実は意識作用が物質レベルへの変換を起こすことがあるのは自分でも体験しています。以前、念写というのを実験した事があります。どうも若い頃から好奇心が旺盛なのは致し方なく、実際に試さないと気がすまない性質であり、その念写といわれるものも試したわけです。

以前ポラロイド写真機を購入し、念ずることが写るかどうかを実験しました。何を念ずるかを考えたのですが、黒い感光板に写すのだからという発想で、宇宙に浮かぶ星をイメージすることにしました。その当時「昴」という谷村新二さんの歌が流行っていたので、その昴または球状星団をイメージするのが良いと勝手に思ったわけです。

それでどうやったかと言いますと、いかにもそれらしい格好で、両手でポラロイド写真機を額の前に掲げて、念ずるものが写るように・・と気を込めるわけです。その気の込め方というものが、なかなかでして、「写れ写れ!」と思いながら、ついつい肩や手に力が入るようではだめなのです。当然ですが、力んでいると言うことは、疑っていると言うことでもあり、何か筋肉や現象からの力添えをしようと、見当違いの無理じいをしていることを示しており、「心→現象化」という新たな法則を、まだ自分の信念に組み込んでいないからなのですね。頭で理解することは大きな一歩なのですが、それを実際に検証すること、現象を確認することという行為は、それより更に踏み込んだトータルな理解になるわけです。頭で理解する、実際に行為・表現などで確認する、という2つのステップがあることがわかります。実はこれは科学や芸術などすべてに当てはまる人間としての進化の方法を現しています。

●現実世界への意識作用の確認 

それで、その念写テストは結局どうなったかと言いますと、1回1回念じた後に、これは!と思った気持ちになったら、ポラロイドから感光清みのフィルムを取り出して、その写り状況を見てみる・・という事ですが、4,5枚やっても何も写っていませんでした。どうしても心と体に「力み」が入るので、精神的にも疲れてきてしまっているのがわかりますので、そんなに続けられないな・・とも思いまして、あきらめの心境になりつつありました。

その時の心境としては、最初のテストなので、まーいいかな、あと少しはやってみよう・・と思って続けてみたところ、6,7枚目に何かが写りこんでいました。Img_1155(少し古くてわかりにくいですが、ここに掲載してみます)

Img_1158写真の周囲に黄色い炎のようなものが上下に現れています。光が漏れて感光したのか?とも敢えて疑ったのですが、その後の8枚目以降は何も写ってませんでした。光の性質からいって、カメラの外からの光の漏れであれば、画面一面に広がるわけですし、このような局部的な画像にはなるわけも無いのが理解できます。また、なにか人体の手や頭からのオーラの写り込みの様な感じもしますが、詳細は不明です。

自分としては、このような意識の物質化とも言うべき現象が確認できたことで、それ以降のものの考え方が大きく変ることになりました。仕事や専門などから理系の考え方にも馴染んでいたため、頭では理解出来ても、本当にそうであることを実証できなければ、それが単なる知識としての位置づけでしかなく、重みの無いものに思えていたのです。

●心の力みや歪みが問題

実際にはきれいな星座は写らなかったわけですが、失敗を続け、あきらめからちょっと力みが取れたときの写り込みであったのと、外部からの光の入りようがない事実から、これは確実に意識の物質現象への作用であると確認出来たわけです。念写、念力、テレパシーなどはすべて心の意図:意識作用に関わるものであり、個人の実生活や人間社会の見えない原因となっていることがわかります。普段は意識に上ることが、意図的、または無意識的に抑えられている事で、現象が起きる原因そのものが不明であることから来る恐怖や不安が支配的なようです。

●意識から物質へ

不思議ともいえる気付きが意識作用となり、それが現象となってゆくという根本的な世界の仕組みが少し理解出来た検証でした。 決して物質から意識への流れではないのがわかります。原因と結果、それらは一体であったとしても、決して物質から意識への方向ではないと考えられます。

われわれの意識作用は、その気付いて意識する分だけ、その分だけ実際の効果を現すという事が言えるでしょう。気付きを元にした意識によって、現象という世界を無限にも広げてゆくという行為は、実は神なるものの宇宙顕現と同質のものでもあると考えられます。


想念観察の重要さ

2008-01-17 08:23:25 | 心の科学分野

 ある書物に、人間とはなにか?という問いに対し、「人間とは活動する想念である」という内容がありました。人間は身体だとばかり漠然と思っていた頃には、へーそんなものかな程度に感じていましたが、今では人間真理の重要な表現であると思います。

 想念とは、思考、感情などの精神作用と言われるものです。それらの思いは単に抽象的な見えないイメージのような感じを受けますが、実はこれらは、例えで言えばコンピュータのプログラムのようなものとも言えます。コンピュータ、パソコン、その他の高度な機械も含めて殆んどがプログラムどおりに動くようになっています。ハードウエアを動かすのはソフトウエアであり、それは物理的な実体ではなく、抽象的な言語で記述されます。そのプログラムを変えるとコンピュータは全く違う動作を行なうわけです。

 人間の想念も文字や絵で現し、記憶させることが出来ますが、元々は物理的物体ではありません。コンピュータの世界ではハードの性能もさることながら、全ての動作の原因であるソフトウエアが極めて重要です。人間がコンピュータ程度の代物で在るわけはないのですが、例えで言えば似たようなところもあり、要は人間の行動や経験は、原因となる思考・感情に従っているということです。

 想念観察は、その人間の存在表現の元であるソフトウエアを作成・修正する作業と考えてもいいでしょう。自分で自分のプログラムを作成したり、修正したりすることを可能にします。自分の考えや感情を無造作に、何の意識もなく、ただ勝手に流れ出てくるものと思っているのでしょうか。想念は心の働きとも言われ、その働きには創造力があります。思考や想像は観念・イメージとも言われる心の働きですが、それらの肉眼では見えない、物体でない存在形式は、実体化への働きの元になるプログラムでもあります。単なる「行動」を促す「意志」のレベルに留まらず、あらゆる現象化のもとになるものです。一般認識ではダイレクトに因果関係を把握できない場合もありますが、想念観察を行なうと、この関係が次第にわかってきます。

 自分の思いを垂れ流す、発散するだけでなく、それらにフィードバックをかけてチェックする行為を行なうことで、それらの因果関係が次第に理解出来るとともに、心の状態や経験の内容自体も自分で制御できることにもつながり、心や行動が安定し、場合によっては、自我を超えて存在する真我に同調する体験を得ることもあるようです。高位の自分は、低位の自分の全てを眺める位置にある意識状態であることに、実感として気がつくことになるようです。

 古来からの修行は全て、まず、この心(マインド)の状態を自分でコントロールするためにあるといっても過言ではないでしょう。自分のレベルにとって、より高次と言われる意識状態に移行するためには、自分の現状認識を抜きにして出来るわけもありません。想念観察は、自分の発信する想念という「創造原因」ともいえる意識作用を観ることに他ならず、これは宇宙を創造し続ける神自身が自分を観ていることと、質的には同じであろうと考えられます。存在宇宙の様々な諸形態や現象は、創造者の無限に在る自己観想とも言われています。

 想念を観察することは極めて重要な作業であり、人間存在がより大きな視野や認識レベルに進むために必須なことであろうと思います。自分の思い、思考、感情、行動、体験を観察できるようになれば、間違いを早めに修正も出来るし、既成の価値観で固まることもなくなり、世間の刺激に動揺しない不動心を獲得することが可能となるでしょう。

人間はいつでも何か考えています。無念無想を無理につくろうとするのは困難です。逆にそれらをありのままに受け入れるのが、「今在る」ということだろうと思います。光速以上で過ぎ行く自分の想念を、じっと観ることに慣れてくると、自ずと自分のレベルに無価値な想念は通り過ぎるだけになり、より良いといわれる想念を持つようになるようです。今の自分に無価値なものは自然に剥げ落ちていくでしょう。

古来から延々と続く聖賢や先達の辿ってきた道は、常に自分の中にあったのです。今は特に自分を知ることが必要な時代であることを感じます。

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「汝が信じるごとく、汝になる」 (イエス)

「我思う、故にわれあり」 (デカルト)

「汝自身を知れ」 (ソクラテス)

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若者『世尊よ 一人の女を見なかったですか?』

  釈尊『その女を捜してどうするのかね?』  若者は訳を話した。

  釈尊『その女をたずねるのと 自分をたずねるのと どっちが大切と思うか』

  若者『それは 自分をたずねるほうが大切です』

  釈尊『そうなら ここに座りなさい。私が法を説きましょう。』 


覚醒にいたる道 第4章

2008-01-13 09:25:03 | 心の科学分野

あるサイトに下記のようなものがありました。自分のような者が話すよりも、遥かに真髄を捉えて居られる方の言葉を、ここで拝借させて下さい。

    注 (マインド: 心の働き、想念、感情、言葉などと解釈できます)

●覚者の言葉

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ことの起源からはじめなさい。
 「あなたは在る」という事実に注意を払いなさい。
 「私はいない」と言えるときはないのだ。
 あなたに言えることは、「私は覚えていない」ということだけだ。
 記憶がいかに頼りにならないものか、あなたも知っているだろう。
 些細な個人的関心事に没頭して、あなたはあなたが何なのかを忘れてしまっ
 たのだ。
 既知なるものを消し去ることで、失われた記憶を取り戻すように試みなさい。
 何が起こるのかをあなたに伝えることはできない。
 またそれは望ましいことではない。
 期待が幻想を生みだすからだ。
 内なる探求においては、予期せぬことが起こることは不可避だ。
 発見は、かならずすべての想像を超えたものなのだ。
 生まれたばかりの子どもに、誕生した後の人生を知ることができないような
 ものだ。
 なぜなら、マインドのなかにそれを形づくるための確かな画像が何もないか
 らだ。
 同じようにマインドは、「これではない、あれでもない」という否定の言語
 による以外に、非実在の言語をもって実在について考えることは不可能なの
 だ。
 非実在を実在と受け入れることが障害であり、偽りを偽りとして見て、それ
 を放棄することが実在を存在のなかにもたらすのだ。
 明晰(めいせき)性とかぎりない愛、完全に恐れのない状態。
 今、これらは単なる言葉、色彩のないただの輪郭(りんかく)、こうありう
 るというヒントでしかない。
 あなたは手術の結果、目の見えるようになることを期待している盲目の人の
 ようなものだ。
 もしあなたが手術を避けさえしなければ!
 私が在る状態では、言葉はまったく重要なものではない。
 また、そこには言葉への耽溺などない。
 ただ、事実だけが重要なのだ。
 
             『I AM THAT 私は在る』(p531-532)

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心の色々な働きを「自分」などと錯覚せずに、それを対象として観察することで、自分とは、それらの無限の意識の働きであることに気付くこと。

覚醒はそのようなものでしょう。

実は、自分を観ることは結構大変な作業でもあります。例えば禅は、ごく普通にそこに座って、自分の想念・感情などの内面の働きを徹底的に観るための方法の1つでしょうか。想念観察の方法も具体的な覚醒への道にあるものでしょう。自分を知るために、自分を観る、自分の心を見ることが本当の自分への目覚めだろうと思います。

何もお持ちでない貴方様、お早うございます! 

もともとすべてをお持ちになっている貴方様、お早うございます!

良いお目覚めでしょうか?


覚醒にいたる道 第3章

2008-01-11 22:18:06 | 心の科学分野

●本来あるべき自分に気づく

 目覚めるとは、自分自身の存在にしっかり気がつくということです。社会の大勢の子羊の中の自分を意識するのでなく、本来の自分というものに気付くことです。

 目覚めるとは、自分の想念・感情に気付くということです。自分の世界の原初の元である想念、感情、行動に気付き、それを見つめることが出来てくるということです。

この世界も社会も人間関係も、永遠のものでなく、一時のものであるのは十分承知しています。しかしながら、とりあえず目の前にある世界に自分を没入させてしまい、その現象の中の1つの小片のごとく、右往左往して生きているのではないかと思います。その小片たる人間達には思考・感情・意思というものがあるにもかかわらず、それらの無限に至るまでの可能性のある意識作用を、小さな目の前の3次元世界に無理やりはめ込んでしまいます。そうして毎日呟くかもしれません。「あーあっ世の中大変なのだよ、ホレーシオよ」

 どうでも良いことに悩んだり、一時の名誉のためにあらゆる犠牲を払ったり、人の所作や評判を気にしたり、僅かな人生という時間を犠牲にしてまで金儲けに明け暮れたりします。これらは全て、自分の現状を維持、存続させたいという肉体の生存機能を表していると考えられます。肉体維持は自然な衣食住があれば維持できるでしょう。ことさら豪華に、権勢を加え、人との差別化を計った生活というものが、果たして我々の人生の目的であってよいのか疑問です。誰しも経験をすることでありますが、その中に永遠に埋没しては実際面白くないのにそろそろ気付くべき時が来ていると思います。

  全ての元であるわれわれ人類の意識をそれぞれで改めて、この世界への関与の仕方を変えて行かざるを得ないのは、火を見るより明らかではないでしょうか。誰かがやるのではなく貴方や私がやらなければならないのです。

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わたしはあなたを信じます。

あなたがどうあろうとも、信じるに値しないことをやったとしても、わたしは信じます。

信じること・・・、それは私が信じることなので、

あなたがどうあっても、私に失望も落胆もあるわけないでしょうに。

わたしは人の世界を愛しています。

世界がどう変わろうとも、醜くなろうとも、美しくなろうとも、私は世界を愛します。

愛すること・・・、それは、私から発することなので、

失望も落胆もあるわけないでしょうに。

私は地球に感謝しています。

地球がこの先どう変わろうとも、模様替えをしてもしなくても、私は地球に感謝します。

感謝すること・・・、それは、私が感謝することなので、

失望も落胆もあるわけないでしょうに。

わたしはわたしを観ています。

限りなく、観ています。

観ること・・・、それは、私が行うことなので、

決して、失望も落胆もあるわけないのです。

宇宙にあるのは常に最高・最愛の自分を見続ける

永遠の意識なのだと感じています。