●念写実験の試み
実は意識作用が物質レベルへの変換を起こすことがあるのは自分でも体験しています。以前、念写というのを実験した事があります。どうも若い頃から好奇心が旺盛なのは致し方なく、実際に試さないと気がすまない性質であり、その念写といわれるものも試したわけです。
以前ポラロイド写真機を購入し、念ずることが写るかどうかを実験しました。何を念ずるかを考えたのですが、黒い感光板に写すのだからという発想で、宇宙に浮かぶ星をイメージすることにしました。その当時「昴」という谷村新二さんの歌が流行っていたので、その昴または球状星団をイメージするのが良いと勝手に思ったわけです。
それでどうやったかと言いますと、いかにもそれらしい格好で、両手でポラロイド写真機を額の前に掲げて、念ずるものが写るように・・と気を込めるわけです。その気の込め方というものが、なかなかでして、「写れ写れ!」と思いながら、ついつい肩や手に力が入るようではだめなのです。当然ですが、力んでいると言うことは、疑っていると言うことでもあり、何か筋肉や現象からの力添えをしようと、見当違いの無理じいをしていることを示しており、「心→現象化」という新たな法則を、まだ自分の信念に組み込んでいないからなのですね。頭で理解することは大きな一歩なのですが、それを実際に検証すること、現象を確認することという行為は、それより更に踏み込んだトータルな理解になるわけです。頭で理解する、実際に行為・表現などで確認する、という2つのステップがあることがわかります。実はこれは科学や芸術などすべてに当てはまる人間としての進化の方法を現しています。
●現実世界への意識作用の確認
それで、その念写テストは結局どうなったかと言いますと、1回1回念じた後に、これは!と思った気持ちになったら、ポラロイドから感光清みのフィルムを取り出して、その写り状況を見てみる・・という事ですが、4,5枚やっても何も写っていませんでした。どうしても心と体に「力み」が入るので、精神的にも疲れてきてしまっているのがわかりますので、そんなに続けられないな・・とも思いまして、あきらめの心境になりつつありました。
その時の心境としては、最初のテストなので、まーいいかな、あと少しはやってみよう・・と思って続けてみたところ、6,7枚目に何かが写りこんでいました。(少し古くてわかりにくいですが、ここに掲載してみます)
写真の周囲に黄色い炎のようなものが上下に現れています。光が漏れて感光したのか?とも敢えて疑ったのですが、その後の8枚目以降は何も写ってませんでした。光の性質からいって、カメラの外からの光の漏れであれば、画面一面に広がるわけですし、このような局部的な画像にはなるわけも無いのが理解できます。また、なにか人体の手や頭からのオーラの写り込みの様な感じもしますが、詳細は不明です。
自分としては、このような意識の物質化とも言うべき現象が確認できたことで、それ以降のものの考え方が大きく変ることになりました。仕事や専門などから理系の考え方にも馴染んでいたため、頭では理解出来ても、本当にそうであることを実証できなければ、それが単なる知識としての位置づけでしかなく、重みの無いものに思えていたのです。
●心の力みや歪みが問題
実際にはきれいな星座は写らなかったわけですが、失敗を続け、あきらめからちょっと力みが取れたときの写り込みであったのと、外部からの光の入りようがない事実から、これは確実に意識の物質現象への作用であると確認出来たわけです。念写、念力、テレパシーなどはすべて心の意図:意識作用に関わるものであり、個人の実生活や人間社会の見えない原因となっていることがわかります。普段は意識に上ることが、意図的、または無意識的に抑えられている事で、現象が起きる原因そのものが不明であることから来る恐怖や不安が支配的なようです。
●意識から物質へ
不思議ともいえる気付きが意識作用となり、それが現象となってゆくという根本的な世界の仕組みが少し理解出来た検証でした。 決して物質から意識への流れではないのがわかります。原因と結果、それらは一体であったとしても、決して物質から意識への方向ではないと考えられます。
われわれの意識作用は、その気付いて意識する分だけ、その分だけ実際の効果を現すという事が言えるでしょう。気付きを元にした意識によって、現象という世界を無限にも広げてゆくという行為は、実は神なるものの宇宙顕現と同質のものでもあると考えられます。