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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

あるヨギの自叙伝より(13)完全なる自由への道

2020-07-16 11:30:38 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

誰でも、


そう誰でも・・求めるのは「自由である」ということだ。


誰かに、何かに束縛されたり、不自由であることを希望する者はいない。

また、誰でも幸福でありたいと望んでいる。

誰でも・・・例外なくだ。

わたしもあなたも、彼も彼女も・・誰も彼もだ。


そうではないか?

もし不自由や不幸を欲する者がいるとすれば、

それはカルマ、あるいは想念の歪からくる一時的な欲望、恐怖の類であり、

本来なれば、すぐにでも消え去る幻(まぼろし)以外の何ものでもない。

これに引き換え、

永遠の真の自由や幸福を求め続けることが、すなわち魂の進化と言えようか。

 

とは言えそれは霊的な真面目さや、お堅い律義さのことでもない。

霊的進化を追及・探求する道は、本来嬉しく楽しいからこそのことであり、

けっして厳しく、つらい、いばらの道というものでもない。

しかし、自我欲、我儘、我のみ良しというような、

エゴ的想念が中心の場合は、そこから抜け出る間、

そのエゴ体にとっては、細く小さく茨に満ちた道ということにもなるだろう。

 

丁度いま・・ここ、この世界、わたしたち・・が、

まさに・・そういう段階にあると言えようか。

そう、あなたも気付いているだろうか?

 

自由とは・・ 自ら・・に由る・・こと。

I am THAT I am.

自由・・自らが起源であり、根源であり、ソースであることだ。

そして、幸福・至福は、本来・・その当たり前の状態のことである。

ただ、この世界では、それは無理な話だと・・そう言われてきただけなのだ。

いったい誰が、・・? よくよく感じるべきだろう。

自らに由る・・自由の意味を・・、自分自身でだ。

 

だから、わたしたちが・・そこに、

完全なる自由や幸福に帰還するというのはまったくの自然であり、

聖書の放蕩息子の例えもあるように、

魂が、そこから離れて、また帰還するという、

実に不可思議、不思議、奇跡的な神業・進化のプロセスの途上にあるということだ。

それが”魂の進化、意識の進化”等といわれるものと言えよう。

 

 

 

「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)p440

    

三重のまゆを脱ぎ終わった魂は、ついに相対性の法則から永遠に開放されて、言葉では説明できない、”永遠の実在者”と一つとなる。

見なさい、無数の星と月と太陽で翼を飾った遍在の蝶をーーー。こうして宇宙霊のなかに溶け込んだ魂は、ひとり光なき光の、闇なき闇の、想念なき想念の絶対境にとどまって、宇宙創造という神の夢を至福の恍惚の中で楽しむのだ。」

「ああ、自由の魂!」
私は畏敬の念に打たれて思わず叫んだ。


「魂が三つのからだによる三段階の迷いから完全に脱すると、それはついに、個性を持ったまま、無限なるおかたと一つになる。」

先生はさらにつづけられた。「イエス・キリストの魂は、イエスとしてこの地上に生まれる前に、すでに最高の解脱を達成しておられたのだ。すなわち彼もまた、その過去生において、三つの進化段階を経て、宇宙霊の中によみがえる力を獲得されたのだ。彼の死から復活するまでの三日間は、人間が解脱に至る三つの段階を象徴している。

霊的に未熟な人間は、三つの体から抜け出すまで、地上界、幽界、観念界に無数の生まれ変わりを経験しなければならない。しかし、ひとたび最高の解脱を達成した大師たちは、人々を神のもとに導くために救済者すなわち救い主として再び地上に生まれることも、また、わたしのように幽界に住むことも自由なのだ。

ここでの救済者の仕事は、幽界の住人のカルマの一部を代わりに背負ってやり、彼らの幽界での輪廻を断ち切って、観念界に定住することができるように援助することだ。また完全に解脱した魂の中には、再び観念界に戻って、そこの住人がすみやかに観念体に包まれた生存期間を終えて、”絶対の自由”を達成するよう助力する仕事に携わる者も居る」

 

 

左がスリ・ユクテスワ大師、右が著者のヨガナンダ

 


あるヨギの自叙伝より(12)神の想い

2020-07-13 08:03:15 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

私たちが、幼少期から少年、青年期へと”身体と心” が成長してきたように、すべての人間は、より大きなサイクル、”魂的な成長・進化”の途上にあるということに気づけるだろうか。

そんなの聞いてない、誰が決めたのか?・・等という人もいようが、

今・・ここに在ること・・に深く気付くならば、

わたしたちは、毎日毎日、寝ては、目覚めるように、幾多の生と死のサイクル、生まれ変わりや、自己実現の様式の進化を経て、やがて大人の魂になってゆく過程にあることが理解できるだろう。

 

ここで示される「観念界の人々」とは、やがて誰でも到達するところの意識進化した、魂の”大人”たちのことであると考えていいだろう。

 

 

あるヨギの自叙伝(パラマハンサ・ヨガナンダ著)p439

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観念界の人々はみな、物質界の究極の構成要素が電子(素粒子)でもなければ、また、幽界の根本要素がライフトロンでもなく、

両者とも実は神の想念の超微粒子(注釈1)から出来ていて、それがマーヤという相対性の法則(注釈2)によって分離され、

そのために、被造物が創造主とも、またお互いどうしとも、別個の存在として見える、ということを会得している。

 

(注釈1)想いは空虚な抽象イメージではなく、実体化する原因波動でありその想いはシナリオ(青写真)となって人生や生活、文化や文明を創り上げる。マインドが幻想世界を創り上げるという表現をする場合もある。

(注釈2)空(くう)から(波動)2極生が生じること。古代からの太陰図でも描かれているように、元はひとつの究極の点からプラス・マイナスが生じて回転運動しつつ、無数の”実体”、時空間が生じる。素粒子のスピン、原子のプラス・マイナス電荷、回転波動性、そして時空間の創出等を含め、現代の科学理論はそれを証明する方向にある。また同じように、男・女、上下左右、あちらこちら、過去・未来等の2元性といわれる現象も現れる。また古くから陰陽五行説などもある。

 

        

・・・言うならば、

神が想うと同時に、
空(くう)に波が生じ回転運動し、無数の素粒子・時空間が生じる。
そして、同時に認識している・・ことが・・今・・在ること・・・だ。

 

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観念界では、死も生まれ変わりも想念の中にある。

ここの住人たちは、尽きることのない永遠に新しい知識を聖なる唯一の楽しみにしている。

彼らは平安の泉を飲み、何の執着も残さぬ知覚の大地を自由自在に歩きまわり、果てしない至福の大海を泳いでいる。

見てごらん、

彼らの生き生きとした想念のからだが、霊から生まれた何兆という遊星や、出来たばかりの宇宙の泡粒や、英知の星や、スペクトルのような金色の星雲の夢の中を急上昇して、無限の大空のふところに飛び込んでゆくのを---。

観念体をまとった魂は、たいてい数千年間観念界にとどまっている。

そして、さらに深い至福を経験することによって完全に解脱すると、ついに一個の観念体から抜け出して、広大無辺な観念宇宙を自分のからだとするようになる。

こうなると、それまで身に着けていた個別的な観念の渦や、個々の力、愛、意思、喜び、平和、直感、安心、自己統御、精神集中等のあらゆる波が、永遠の至福の海に溶け込んでしまう。

魂はもはやその喜びを、一個の意識の波として経験する必要はなくなり、大宇宙意識の海と一つに溶け合って、そのすべての波をわがものとするのだ。

それは永遠の笑いであり、永遠の歓喜であり、永遠の感動なのだ。

 

 


あるヨギの自叙伝より(11)すべて意識

2020-07-12 06:33:10 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

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「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)p438

 

「観念界は、言葉では説明できないほど霊妙な世界だ。」
先生はつづけられた。
「これを理解するには、目を閉じて、固形のバスケットをぶら下げた光り輝く気球のような、広大な幽界宇宙と物質界宇宙の全体の観念像が瞑視できるほど強力な精神集中力をもたねばなければならない。このような超人的精神集中力によって、この複雑極まりない二つの宇宙を透明な観念像に意識的に還元することに成功した者は、観念界に達して、物と心との接点に立つことができる。

そこで彼は、あらゆる被造物--固体、液体、気体、電気、エネルギー、一切の生物、神々、人間、動物、植物、細菌類等々--を意識して知覚するようになる。それはちょうど、人が目を閉じたとき、自分のからだが肉眼には見えず、自分というものが観念としてのみ存在するにもかかわらず、自分の存在を現実に知覚することができるのに似ている。(注釈1)

人間が空想の中でしかできない事でも、観念界の住人はすべて現実に行うことができる。単なる空想だけならば、きわめて想像力にたけた人間なら、極端から極端に至るあらゆる思想を想定したり、星から星へ飛びまわったり、無限の奈落に飛び込んでみたり、星ちりばめた天空にロケットのように舞い上がったり、銀河や宇宙空間にサーチライトのように、光を当ててみたりすることができる。

しかし、観念界の人々(注釈2)は、それよりもはるかに自由に、何ら物質的あるいは幽体的障害やカルマの制約を受けることなく、自分の考えを即座にしかもやすやすと客観化して表現する(注釈3)ことができる。

観念界の魂たちは、お互いを、至福の宇宙霊が個別化した点として認識している。彼らにとっては、自分の周囲のことがらはすべて自分が考えたことがらなのだ。

彼らは、自分のからだと想念の違いは単に観念の問題に過ぎない(注釈4)

普通の人間でも、目を閉じて、まばゆい白い光やもやのようにかすんだ青い色を瞼の裏に見ようと思えば見ることができるが、観念界の住人は、考えるだけで見たり聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったりすることができる。かれらは宇宙心の力(注釈5)によって、どんな物でも創造したり分解したりすることができるのだ。

 

(注釈1)内面に気付いている人、瞑想したり瞑目端座、座禅をする人はすぐに理解できる。

(注釈2)簡単に言い換えれば、高度に意識進化した世界・星・次元の人々と言えよう。

(注釈3)客観化する・・対象として知覚すること。私達は「物」がある事を五感で知覚する。

(注釈4)からだも想念も観念上の事象であること。
ただしここでの「観念」は・・我々の単なる様々な想い・イメージ等・・ではなく、普遍的意識から観たところの知覚対象物・創造物ということ。
神のこころは神の創造物でもあるということだ。気付き・意識・知ること・知覚・客観化すること。

(注釈5)宇宙心、宇宙意識、宇宙マインドによる創造力。
私達は自分の意識、肉体の内部の頭脳・マインド・こころの働きで様々な文物・事物・文明を創り上げるが、ここから・・すべてを”意識”と観ずることが出来れば、人間のマインド・こころを含んだ・・宇宙意識・宇宙マインド・創造力に気付くことになる。

 

 

我々の天の川銀河も無数の太陽(恒星)を含んでいるが、さらにその集まり、銀河が集まった銀河団の写真である。宇宙(意識)のなかに含まれる無数の世界のほんの一部の画像写真である。

 


あるヨギの自叙伝より(10)観念界

2020-07-10 05:22:53 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

観念というと、人の考えや思い等というイメージがあるが、ここで言われる「観念界」とは、「想像と創造」の一致する世界ということも言えるだろう。

観念:観察すること、 念:想念のこと
・・・・「観察」することはすなわち神の「想起」であり、それはそれ自体の客観化・宇宙の創造ということになる。
実は人間も、あなたや私たちもそれを行っているのである。
人生とは・・自らの想いを形に表している・・そのプロセスなのである。

なぜ、あなたは自分の信じている事柄を・・自分自身で、より良き想いに入れ替えないのか?・・いつまで、この次元世界の何かに、誰かに・・期待しているのか? 期待は=期を待つ・こと、永遠に期待のままであることを示す。

なぜ、いま・・それをやらないのか?

この世的な作り物、
余計な想い、暗い・重たい想念形はもう十分ではないか?

意識の技術的に言えば・・できうる限り・・真摯な姿勢において、
そして現生の計算や成果・評価などを常に”注意深く”省きつつ、
そのときの、あなたにとって最良のイメージを想念として、
・・ただただ・・感謝とともに、素直に保持すること。


そして今在る生を・・真面目・・というのは社会規範とは全く関係なく、
内面にある直覚・直感をもとに・・と言う事であるが・・、
与えられた生を、
あるがまま、真面目に、素直に生き切ることだろう。

そう・・もう観念するべき時ということだ。(笑)

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「あるヨギの自叙伝」パラマハンサ・ヨガナンダ著 より p438

 

彼らの繊細な感受性は、もはや肉体の感覚的喜びや、幽界人の楽しみを、粗野で重苦しいものとしか感じない。彼らはどんな欲望も、即座に果たしてしまう。観念体という霊妙なベールだけで身を包んでいる彼らは、創造主と同じように、いろいろな宇宙を創り出すこともできる。


宇宙の万物は、いわば巨大な夢の敷布でつくられているので、この薄衣をまとった魂は、宏大な宇宙の実現力を身に着けているのだ。

魂は本来、姿や形をもたないものであって、身にまとう衣すなわちからだを持つことによってのみ識別できる。しかし、一つでもからだをもっているということは、また、満たされぬ欲望があることを意味している。

人間の魂は、一つか、二つか、あるいは三つのからだという容器に入れられて、無知と欲望の栓で密封されているかぎり、宇宙霊の大海のなかに溶け込むことはできない。肉体といういちばん外側の鈍重な容器が、死というハンマーによって破壊されても、幽体と観念体という二つの容器はまだ依然として残っていて、魂と、偏在の生命の海との間を隔てている。

しかし、英知によって完全な無欲の境地に達すると、これら二つの容器をも打ちくだくことができるようになる。こうして、個々の小さな人間の魂は、ついに束縛の殻から抜け出して無限なるものと一つになり、完全なる自由(解脱)を達成するのだ。」

私は先生に、神秘的な高い観念界について、もっと説明してくれるように懇願した。

 

 


あるヨギの自叙伝より(9)肉体・幽体・観念体

2020-07-07 06:03:05 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

わたしたち人間とは、偶然生まれ死んだらそれで終わりの、単なる偶然の物質的生成物であるという”信念”が、いかに愚かなことであるのかという事が理解できるだろうか。

今は、この呪縛観念が解かれなければならない時期が来ているのである。
つまり、古い地球次元の3次元的物語から目覚める時が来ているということだ。

そして気付くべき・・その時は過ぎつつある・・。

あなたが今・・という瞬間、意識・気付きを自覚しているならば、
わたしたちには・・今しかなく、
いや常に・・創造の瞬間である・・今・・だけが存在し、

今・・わたしは在る・・と気付いているならば、
その・・在る・・は、
姿かたち、世界、時空展開の様相は無数に変化すれども、
まさに・・永遠であることが理解可能なのである。

永遠・・というのは時間が長いでも、・・空間が遠い・・でもなく、
それを超えているということである。
超えているということは、高次元ともいうが、
また、それを内包しているということでもある。

常に・・今・・在る・・こと。
この今・・在る・・ことの中には・・意識の中に、
気付いている、気付いていないにかかわらず、
意識の展開としての、
悠久の過去も未来もあり、無限の宇宙さえも含まれている。

 

「えー、どこに?」という人がいるならば、
少なくともどんなことも「想像できる」ということはわかるだろう。
そう、想像は無限に可能なのだということはわかるだろう。

「たんなる想像じゃないか・・結果も出ない、金にもならない」という人は、


その想像が・・神の想像・夢が今ここで、宇宙や世界・・そして、
あなたの存在・世界として・・結実している・・ことを

在る・・意識・・わたし・・として出現していることに、

・・気付けるだろうか。

 

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下記の抜粋では、ある人にとってはやや古く宗教がかった表現はあるものの、
魂あるいは多次元存在である人間の、かなり詳細なシステマティックな構造説明がなされている。

 

「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)より

「先生、地上への生まれ変わりと、幽界や観念界への生まれ変わりとの違いを、もっと詳しく説明してください」私は懇願した。

 

「個々の魂としての人間は、本質的には観念体をもった存在なのだ」

先生は説明を続けられた。「この観念体は、神の創造活動に必要な三十五の基本的観念の母体で、神は後にこれから、十九の要素から成る精妙な幽体と、十六の要素から成る鈍重な肉体をつくられたのだ。

幽体の十九の要素とは、精神的生命的なもので、それらは理性(英知)、自我意識、直覚、感覚意識の四つと、五つの感覚的器官---肉体の視聴臭味蝕の五感に相応する幽体器官---と、五つの行動器官--生殖、排泄、会話、歩行、手仕事等を行う精神的器官と---、五つの生命力の器官---身体の細胞形成、消化、廃棄、新陳代謝、循環等の機能を遂行する器官ーーーによって構成されている。これら十九の要素で出来ている精妙な幽体は、十六の鈍重な要素で出来ている肉体が死んだ後もなお存続するのだ。

神は、ご自身の内に色々な観念を考案され、それを夢として投影された。こうして、宇宙夢という女神が、相対性という途方もないけんらんたる衣で身を飾って出現することになったのだ。

 

神は、観念体の三十五の観念を基にして、それらを入念に組み合わせ、十九の要素から成る幽体と、十六の要素から成る肉体を、それぞれ人間の観念体の似姿につくられた。
始め精妙な波動を凝縮して幽体をつくられ、次に粗い波動を凝縮して肉体をつくられた。しかし本来単純なものを複雑極まりないものにしている相対性の法則は、幽界や幽体を、観念界や観念体とは全く別のもののように分離している。
そして、物質界や肉体もまた同様に、それらとは全く次元の異なる存在として現れている。

肉体は、創造主の夢が固型化され、客観化されて出来たものだ。地上の現象はすべて、病気と健康、苦痛と快楽、損と得、というように二元性を現している。この三次元空間の世界では、何をやってもすぐに限界と抵抗に突き当たる。もっと生き続けたいと思っても、病気その他の致命的な原因が生じると死ななければならない。そして重苦しい肉の衣をしばらくの間脱がされる。

だが、肉体は脱いでも、魂は依然として幽体と観念体には包まれている。

人間の三つのからだを結び付けているのは、欲望だ。満たされぬ欲望こそ、自分自身を拘束する元凶なのだ。物質的あるいは肉体的欲望は、利己心と感覚的快楽に根ざしている。感覚的経験がもたらす誘惑や強制は、幽界における楽しみや、観念界における知覚的欲望よりもはるかに強力なものだ。

幽界人の欲望は、物事を波動として楽しもうとするものだ。彼らは天界の霊妙な音楽を楽しみ、万物を、たえず変化して尽きることのない光の表現として眺め楽しんでいる。彼らはまた、光を嗅いだり、味わったり、さわったりもする。彼らはあらゆる事物や経験を、光で描き出したり、あるいは想念を凝縮した夢にしたりして楽しむ能力をもっている。彼らの欲望は、こうした能力に関連するものだ。

観念界における欲望は、知覚作用のみによって満たされる。観念体だけを身に着けている魂は、いっさいの執着や束縛からほとんど解放されている。彼らは宇宙を、神が夢みられた観念の具象化したものであると観ており、どんな物でも、また、どんなことでも、想念の中で実現させ、客観的に知覚することが出来る。

 

 

 

例えば、ジャスムーヒンという女性は、実際にプラーナで生きる人としてウイキペディアにも載っている