誰でも、
そう誰でも・・求めるのは「自由である」ということだ。
誰かに、何かに束縛されたり、不自由であることを希望する者はいない。
また、誰でも幸福でありたいと望んでいる。
誰でも・・・例外なくだ。
わたしもあなたも、彼も彼女も・・誰も彼もだ。
そうではないか?
もし不自由や不幸を欲する者がいるとすれば、
それはカルマ、あるいは想念の歪からくる一時的な欲望、恐怖の類であり、
本来なれば、すぐにでも消え去る幻(まぼろし)以外の何ものでもない。
これに引き換え、
永遠の真の自由や幸福を求め続けることが、すなわち魂の進化と言えようか。
とは言えそれは霊的な真面目さや、お堅い律義さのことでもない。
霊的進化を追及・探求する道は、本来嬉しく楽しいからこそのことであり、
けっして厳しく、つらい、いばらの道というものでもない。
しかし、自我欲、我儘、我のみ良しというような、
エゴ的想念が中心の場合は、そこから抜け出る間、
そのエゴ体にとっては、細く小さく茨に満ちた道ということにもなるだろう。
丁度いま・・ここ、この世界、わたしたち・・が、
まさに・・そういう段階にあると言えようか。
そう、あなたも気付いているだろうか?
自由とは・・ 自ら・・に由る・・こと。
I am THAT I am.
自由・・自らが起源であり、根源であり、ソースであることだ。
そして、幸福・至福は、本来・・その当たり前の状態のことである。
ただ、この世界では、それは無理な話だと・・そう言われてきただけなのだ。
いったい誰が、・・? よくよく感じるべきだろう。
自らに由る・・自由の意味を・・、自分自身でだ。
だから、わたしたちが・・そこに、
完全なる自由や幸福に帰還するというのはまったくの自然であり、
聖書の放蕩息子の例えもあるように、
魂が、そこから離れて、また帰還するという、
実に不可思議、不思議、奇跡的な神業・進化のプロセスの途上にあるということだ。
それが”魂の進化、意識の進化”等といわれるものと言えよう。
「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)p440
三重のまゆを脱ぎ終わった魂は、ついに相対性の法則から永遠に開放されて、言葉では説明できない、”永遠の実在者”と一つとなる。
見なさい、無数の星と月と太陽で翼を飾った遍在の蝶をーーー。こうして宇宙霊のなかに溶け込んだ魂は、ひとり光なき光の、闇なき闇の、想念なき想念の絶対境にとどまって、宇宙創造という神の夢を至福の恍惚の中で楽しむのだ。」
「ああ、自由の魂!」
私は畏敬の念に打たれて思わず叫んだ。
「魂が三つのからだによる三段階の迷いから完全に脱すると、それはついに、個性を持ったまま、無限なるおかたと一つになる。」
先生はさらにつづけられた。「イエス・キリストの魂は、イエスとしてこの地上に生まれる前に、すでに最高の解脱を達成しておられたのだ。すなわち彼もまた、その過去生において、三つの進化段階を経て、宇宙霊の中によみがえる力を獲得されたのだ。彼の死から復活するまでの三日間は、人間が解脱に至る三つの段階を象徴している。
霊的に未熟な人間は、三つの体から抜け出すまで、地上界、幽界、観念界に無数の生まれ変わりを経験しなければならない。しかし、ひとたび最高の解脱を達成した大師たちは、人々を神のもとに導くために救済者すなわち救い主として再び地上に生まれることも、また、わたしのように幽界に住むことも自由なのだ。
ここでの救済者の仕事は、幽界の住人のカルマの一部を代わりに背負ってやり、彼らの幽界での輪廻を断ち切って、観念界に定住することができるように援助することだ。また完全に解脱した魂の中には、再び観念界に戻って、そこの住人がすみやかに観念体に包まれた生存期間を終えて、”絶対の自由”を達成するよう助力する仕事に携わる者も居る」
左がスリ・ユクテスワ大師、右が著者のヨガナンダ