わたしたち人間とは、偶然生まれ死んだらそれで終わりの、単なる偶然の物質的生成物であるという”信念”が、いかに愚かなことであるのかという事が理解できるだろうか。
今は、この呪縛観念が解かれなければならない時期が来ているのである。
つまり、古い地球次元の3次元的物語から目覚める時が来ているということだ。
そして気付くべき・・その時は過ぎつつある・・。
あなたが今・・という瞬間、意識・気付きを自覚しているならば、
わたしたちには・・今しかなく、
いや常に・・創造の瞬間である・・今・・だけが存在し、
今・・わたしは在る・・と気付いているならば、
その・・在る・・は、
姿かたち、世界、時空展開の様相は無数に変化すれども、
まさに・・永遠であることが理解可能なのである。
永遠・・というのは時間が長いでも、・・空間が遠い・・でもなく、
それを超えているということである。
超えているということは、高次元ともいうが、
また、それを内包しているということでもある。
常に・・今・・在る・・こと。
この今・・在る・・ことの中には・・意識の中に、
気付いている、気付いていないにかかわらず、
意識の展開としての、
悠久の過去も未来もあり、無限の宇宙さえも含まれている。
「えー、どこに?」という人がいるならば、
少なくともどんなことも「想像できる」ということはわかるだろう。
そう、想像は無限に可能なのだということはわかるだろう。
「たんなる想像じゃないか・・結果も出ない、金にもならない」という人は、
その想像が・・神の想像・夢が今ここで、宇宙や世界・・そして、
あなたの存在・世界として・・結実している・・ことを、
在る・・意識・・わたし・・として出現していることに、
・・気付けるだろうか。
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下記の抜粋では、ある人にとってはやや古く宗教がかった表現はあるものの、
魂あるいは多次元存在である人間の、かなり詳細なシステマティックな構造説明がなされている。
「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)より
「先生、地上への生まれ変わりと、幽界や観念界への生まれ変わりとの違いを、もっと詳しく説明してください」私は懇願した。
「個々の魂としての人間は、本質的には観念体をもった存在なのだ」
先生は説明を続けられた。「この観念体は、神の創造活動に必要な三十五の基本的観念の母体で、神は後にこれから、十九の要素から成る精妙な幽体と、十六の要素から成る鈍重な肉体をつくられたのだ。
幽体の十九の要素とは、精神的生命的なもので、それらは理性(英知)、自我意識、直覚、感覚意識の四つと、五つの感覚的器官---肉体の視聴臭味蝕の五感に相応する幽体器官---と、五つの行動器官--生殖、排泄、会話、歩行、手仕事等を行う精神的器官と---、五つの生命力の器官---身体の細胞形成、消化、廃棄、新陳代謝、循環等の機能を遂行する器官ーーーによって構成されている。これら十九の要素で出来ている精妙な幽体は、十六の鈍重な要素で出来ている肉体が死んだ後もなお存続するのだ。
神は、ご自身の内に色々な観念を考案され、それを夢として投影された。こうして、宇宙夢という女神が、相対性という途方もないけんらんたる衣で身を飾って出現することになったのだ。
神は、観念体の三十五の観念を基にして、それらを入念に組み合わせ、十九の要素から成る幽体と、十六の要素から成る肉体を、それぞれ人間の観念体の似姿につくられた。
始め精妙な波動を凝縮して幽体をつくられ、次に粗い波動を凝縮して肉体をつくられた。しかし本来単純なものを複雑極まりないものにしている相対性の法則は、幽界や幽体を、観念界や観念体とは全く別のもののように分離している。
そして、物質界や肉体もまた同様に、それらとは全く次元の異なる存在として現れている。
肉体は、創造主の夢が固型化され、客観化されて出来たものだ。地上の現象はすべて、病気と健康、苦痛と快楽、損と得、というように二元性を現している。この三次元空間の世界では、何をやってもすぐに限界と抵抗に突き当たる。もっと生き続けたいと思っても、病気その他の致命的な原因が生じると死ななければならない。そして重苦しい肉の衣をしばらくの間脱がされる。
だが、肉体は脱いでも、魂は依然として幽体と観念体には包まれている。
人間の三つのからだを結び付けているのは、欲望だ。満たされぬ欲望こそ、自分自身を拘束する元凶なのだ。物質的あるいは肉体的欲望は、利己心と感覚的快楽に根ざしている。感覚的経験がもたらす誘惑や強制は、幽界における楽しみや、観念界における知覚的欲望よりもはるかに強力なものだ。
幽界人の欲望は、物事を波動として楽しもうとするものだ。彼らは天界の霊妙な音楽を楽しみ、万物を、たえず変化して尽きることのない光の表現として眺め楽しんでいる。彼らはまた、光を嗅いだり、味わったり、さわったりもする。彼らはあらゆる事物や経験を、光で描き出したり、あるいは想念を凝縮した夢にしたりして楽しむ能力をもっている。彼らの欲望は、こうした能力に関連するものだ。
観念界における欲望は、知覚作用のみによって満たされる。観念体だけを身に着けている魂は、いっさいの執着や束縛からほとんど解放されている。彼らは宇宙を、神が夢みられた観念の具象化したものであると観ており、どんな物でも、また、どんなことでも、想念の中で実現させ、客観的に知覚することが出来る。
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