気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

転生の話(8)人生という・たとえ話

2019-09-06 07:48:00 | 語り部の章
いま私たちは、ここ・この時に・・生きている・・と感じている。
今・・在る・・ことに・・気付いている。

意識・・ここから、それぞれのわたしにとっての全てが生じている・・。

この自分というものへの気づき・・簡単に・・自意識などとも呼ばれるが、
それがなければ、わたし自体が存在せず、
またその・・わたしの・・知覚する世界も存在しない。

”意識”という概念で示されれる・・それが無ければどんな世界も無い。

これは・・今・・瞬間・瞬間に出現し続けていることだが、
当たり前のように無視され続けて、何生にも渡って、
ほとんど全くと言っていいほど気づかなない。

なぜならば、
無限の意識の顕現体ともいえる無数の個別意識を、個の「魂」というならば、
それが、ある肉体という観賞切符を見にまとい、
世界映画に見入り始め、次第に目先のスクリーン(人生の)展開に釘づけになり、
またそこで起きる様々な想念・感情に、自己投入・没我してしまうのだ。

それがこの世界に生まれることであると言えようか。
想像しがたいかもしれないが、
赤ん坊を生む事、赤ん坊で生まれることも、
この世界に参加するための”設定”のようなものなのだ。
意識の設定・・ひととして生きてきた経験や、
醸し出されてきた想念の鋳型から出てくる形と言って良い。

こういう視点は、自分を肉体だと思っている限り、到底想像も理解も出来ない。

人は誰でも目先の事に”捕らわれている”ことに気付かないもの。
多分、大勢がそう思い込んでいる造られた常識観念、
わたしとは・・死んだら終わりの偶然の肉体人間だと、
そう想い、その他大勢の中に安住しつつも、
どこかいつも不安を抱えつつ、外の世界の何かの刺激に気を紛らわす、
とはいえ、問題など何も無い様な、尤もらしい顔をしているだろうか。

そうしている間に、幸であろうとそうでなかろうと、
人生は終わりを迎えることになる。


あるスピリチュアルな人は、この世界に生まれる前のイメージとして、
まるで地球にダイビングするようなものだと言うが、
これは、意識がその投影世界に自らを”自己投入”することの別表現であり、
それが生まれること、生きること・・とも言えるだろう。




あなたやわたしという人間、無数の意識的生命が存在するということは、
魂・個別意識が、宇宙意識自身の・・”個性化表現”とすれば、
宇宙意識そのものの展開の中に、”自ら”を無数に投入して、
様々な角度・次元から、宇宙創造を実体験しているということも言えるだろう。

あなたは、そういう経由で、今ここに居る・・かもしれないと、
そう思い巡らすことが出来るだろうか?
それともあるいは、この地で生まれた一過性の、偶然の知的肉体個人だろうか?
そうであれば、あなたは衣服の事を自分だと思っている幼児かもしれない。



そして、自分が映画館に来た観客だということをすっかり忘れてしまい、
映画館の中でいきおい、何十、何百本もの映画を観てしまう。
そういうこともあると思えないだろうか。

自己忘却がゆえに繰り返し見る人生映画、
これがその世界での輪廻転生とも言えるかもしれない。

人生の1話1話が短く、生と死に関する相当に激しい感情を沸き起こすため、
1話1話の記憶を一端しまい込まなければ、到底次を見ることが出来ないという、
そういう忘却の仕組みもあると、そう想えないだろうか?

また多くの魂(観客)たちは、この(地球)映画館で上映される、
人生・地球・宇宙物語を語る想念・感情の大枠の流れが、
あまりにも利己的、卑小的、暴発的である為に、
よって生じる衝撃でマヒしているとも言えるだろう。

あなたは他生の記憶があるだろうか?
それとも、それが無いと思っているため、
自分とは、この人生だけの偶然の存在だとそう想っているだろうか?
そう言う信念は、またまたそういう形を現すという
そういう意識的な法則のようなものがあるかもしれないと、そう想えるだろうか。

信じるも信じないも・・あなた次第・・というのは、
なにも、面白おかしく不可思議で信じがたい、都市伝説だけではない。


それは、それぞれの・・わたし自身・・のことである。





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