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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(19)物質は「物」ではない

2021-04-13 07:28:25 | 意識の科学(総合編)

ほとんど誰でも知っているように、

我々の周囲、世界・宇宙にあまねく存在している物質は、

それを小さく分解・分析しつつ観察・観測してゆくと、分子・原子・電子・素粒子というふうに、どんどん小さくなってくる。

 

 

 

さらに陽子や中性子などの、素粒子をさらに小さくしてゆくと、

クオークなどとも呼ばれる最小?の素粒子となり、現在17種類のクオークがあるとされている。

そして、あらゆるすべての物質は、たったこの17種類のクオークの組み合わせと考えられている。

元をたどれば、シンプルになってゆくものだ。

 

物理学者さんたちは、1980年代あたりから、この17種類の最小?のクオークの成り立ちを研究し、

それらの物質の元になるクオークを「弦の振動」として考え、その振動パターンの違いが、異なるクオークとして現れていると想定したのだ。

これは「ひも理論」などとも呼ばれている。

 

例えば楽器の弦などは様々な音色を出すことが出来るが、

同じようにして、極微の弦(ひも)のその振動パターン(波長や振幅等)によって、色々なクオーク・素粒子が出来ている・・そういう考え方だ。

実に・・画期的ではないか。

ひもがブンブン振動するその波形パターンや振動数の違いが、素粒子の違いであるならば・・粒子も塊もなく・・ただ弦の振動だけがあるわけだ。

つまり、物質の元にある極微のクオークレベルでは、あるのは粒子ではなく振動・波動という話なのである。

簡単に言えば、物質の元であるクオークは、ひもが様々な方向(次元)に振動するパターンであり、その振動パターンが組み合わさって、様々な素粒子・原子・分子として顕在化しているということである。

 

さらに振動・波動は・・その振幅・周波数に応じたエネルギーを持っている。

従って例えば、「わたしは肉体だ」というのは、この面から見ても全く妥当な表現ではない。

これなど、日常の3次元的常識観念では通用しているが、

科学的に言っても、実にいい加減な表現である。

それを言うならば・・元を正せば、

わたしは・・「波動・振動・エネルギー」であるということになる。

 

ひも理論が登場する前は、

良く例に出される「電子のスリット実験」のように、

原子・電子のレベルでは・・粒子性と波動性があるとされていた。

粒子?波動?・・おいおい、どっちなんだ?・・というわけだが、・・

 

さらにもっと極微の素粒子・クオークのレベルでは、結局は単に弦の振動・「波動」に帰せられるということなのだ。

もっとも、大きい、重い、物質・塊・粒子・・というイメージは我々の日常の範囲、マクロでアバウトな認識レベルで抱くイメージであって、

極微で精妙なレベルでは、どんどん粒子性など無くなって、つまるところは「波動」ということになるのだ。

 

どちらが本質的かといえば、元を正したほう・源のほう・・・つまり”波動”であるということになる。

だから、物質は・・物・塊・粒子・・ではなく、元を正せば「波動」以外の”何物”でもない。

 

簡単に言えば、物質は・・物ではなく、

”エネルギー振動パターン” である考えられるということである。

 

これは、認識ギャップが大きすぎて、目がくらむようなぶっ飛んだスピリチュアルな概念でも何でもない。

 

 


(18)低次元と高次元

2021-04-10 06:34:25 | 意識の科学(総合編)

次元のことに言及する場合、鳥(とり)と蟻(あり)のたとえ話が良くでてくる。

 

蟻は、いつも地上を這いつくばって動いている2次元平面にいる動物と考えると、

鳥は、地上に降り立つことも、大空高く飛ぶこともできるため、2次元と3次元を動く動物と考えられる。

 

2次元の生物の蟻から見ると、3次元生物である鳥は、地上(2次元)にいるときだけ見ることが出来るが、鳥が空へ飛び立つともう見ることが出来ないということになる。

蟻さんから見れば、鳥さんは突如として自分の世界(2次元)から消え去った・・!という事になるだろう。

そりゃ、もうびっくりだ。

蟻さんと鳥さんの違いは何かというと、

3次元である鳥さんは、1次元余計に使うことが出来るため、2次元の蟻さんよりも大きな自由度があるということだ。

鳥さんは大空の上どこからでも、蟻さんを良く観察できるわけで、

2次元よりも観察多様性や存在様式上の大きな自由度があるわけだ。

鳥さんより自由度の低い2次元の蟻さんとしては、

鳥さんが地上(2次元)に降りているときだけ見ることが出来るため、鳥さんのことを・・”現れては消える”、神出鬼没、有るのか無いのかわからない存在と感じるだろう。

 

蟻さんとしては、鳥さんのことを「都市伝説」とでも思っているのかもしれない。(笑)

ーーー

ところで、

我々が物質の元、元素、素粒子を観測した場合、現れては消えるように見える場合があるならば・・、

その素粒子は「ひょっとして」この次元と別の(見えない)次元を行ったり来たりしているのではないか?・・と考えてもいいはずだ。

リサ・ランドール博士で有名な「五次元理論」の発端はここにあるとされている。

ちなみに、別の次元となると、4,3,2,1次元ではなく、順当に考えていくと5次元という事になる。

 

素粒子が消え去る次元であるため、その次元は通常、目に見ることも聞くこともできない、つまり人間の通常の観察では知覚不可能な次元という事になる。

でも、見えないからといって、存在していないとは言えない。

それはそうだ。

気づいていないだけの可能性は大いにある・・・というのがまともな人間の思考である。

 

ここが肝心なところだが、・・・

何事も、気づいてゆくにしたがって・・知覚可能になるのである。

知覚可能になったから・・気づく・・のではない。

この認識の違いは・・実に大きい。

まさに次元を画す・・違いといえよう。

・・

我々から見て消え去る・・⇒存在として無くなる・・と考えがちであるが、

消え去るからと言って、その存在自体が無くなると断定するのではなく、

別次元、より高い次元に移行・転移するという考えなのである。

より高い次元に転移すると‥我々から見えなくなる・・観測できなくなる・・だけのことである。

 

鳥さん(3次元)からは蟻さん(2次元)を見ることが出来るが、蟻さん(2次元)からは鳥さん(3次元)は見えないということだ。

つまり、

高次元からは低次元を見る(観察・知覚)することはできるが、

低次元から高次元は、通常は知覚・観察することが出来ないということである。

 

ここで注意すべきは、観測・知覚・観察は ”意識の働き” である。

さらに観察・知覚無くしてどのような存在形も確認できない・・・ということを思い出すならば、

低次元・高次元というものも勝手に存在しているのではなく、

「意識」を抜きには語ることが出来ないということである。

 

そして今、新たな五次元という認識が既に、人類上の意識に起きてきているということだ。

 

次元とか、パラレルワールドとかタイムラインという概念は、

色々な宇宙的チャネリングやUFOに関する情報からだけでなく、

もとをただせば、物質の最小要素をあつかう素粒子論から導き出されるものであり、

人類の時間軸上で言えば、量子論や素粒子の探求が進んだ1970、1980年代あたりからともいえるだろうか。

 

ある意味では、もうすでに、

ここらあたりから、人類は明確に高次元的認識レベルへとシフトしてきたのである。

 

都市伝説風にいうならば、

知るか知らないかは・・あなたの気づき次第である。

 

 


(17)次元の話(基礎的概念)

2021-04-09 07:08:20 | 意識の科学(総合編)

世界や宇宙は多次元構造体である・・という話がある。

宇宙スピリチュアル系でも、いわゆる物理学上でも色々話されているが、

それは一体どういうものかと考えてみよう。

 

そもそも、世界、宇宙が・・わたしたちの「意識」と無関係に存在しているのではないことが真に理解されるならば、

わたしたち自身・・これは単に私達の肉体ではなく、いわゆる覚者達の語る表現であるところの ”真我” という意味であるが、

その「真のわたし」の在り方の多様性を指し示すものであることが解る。

 

(下記のリンクは、普通一般の次元の考え方の例だ。なお、よそ様のサイトを勝手にリンクしているのでご了承願いたい。ちなみに、自分はこの方面全然疎いからという自己限定はやめた方が良いだろう。)

   ↓ ↓

5次元までの考え方

ゼロ次元は・・いわゆる「点」だ。原点。

一次元は・・その点の連続した「一直線」ラインだ。

2次元は・・その一直線の連続である「平面」プレーンとなる。

3次元は・・その平面の連続である「立体」空間である。

4次元は・・物理学上は3次元空間に「時間」を加えて4次元としている。4次元時空とも呼ばれる。

 

空間に時間を足した四次元時空とは、この世界・宇宙のことであり、

アインシュタインの相対性理論以降に、空間・宇宙での物質等の動きを表すために出てきた考え方である。

その時代は世界・宇宙は4次元(・で説明できる)と考えられていたということだ。

 

その後、素粒子を扱う量子論の進化に伴い、四次元以上の世界観が出てきたのである。ちなみに、最新の物理学では素粒子を含む世界は「多次元」と想定されている。

 

我々の今の現実認識ではこの世界・宇宙は四次元とされているのだが、

弦(ひも)理論では宇宙・世界は10次元、

弦(ひも)理論、M理論とも呼ばれるものでは11次元とされている。

・・・

 

ちなみに、

スピリチュアル系で良く話される五次元等は、

現在の最先端科学で5次元という話題が出てきた年代、1980年代以降と期を同じくして出てきたようである。

 

次元が1、2、3、4、5と高い次元になっているが、

高次元とは、少なくとも、

1つ前の次元の ”連続体” であると考えることが出来る。

逆に、

上の次元(連続体)から見れば、その中の1つは低い次元という事になる。

逆に、低次元が集まって・・高次元を構成しているともいえるのだ。

 

いずれにしても、五次元とは何か?というならば、

当然、その実態解明がなされているわけではないものの、

五次元とは・・四次元時空のその”連続体”と考えられるだろう。

また五次元とは、四次元時空を含み、それを超えているのである。

 

ということは、今ここで高次元も実際は存在している。

ただ・・しかしながら、

それが見えていない・・観えていない・・だけ、

・・という事が言えるのである。

 

 

 

 

 


(16)物質とマインド

2021-04-05 07:37:30 | 意識の科学(総合編)

人は皆多くの物、物質に囲まれて生活している。

そうでなくては、有機的物質である肉体の維持が出来ないからだ。

しかしながら、マインド・こころ(想念)は物質ではない。

マインドは物質形のように「そこにある、ここにある」というような時空内での位置や大きさで指定できるものではない。

また、

マインドは、見る・聞くなどの五感の知覚機能と密接であるため、

肉体の中で発生しているように見えるが、肉体そのものではない。

肉体とマインドは全く次元の異なるものだ。

氷や水と、空気・水蒸気のように、本質は同じでもその顕現相(次元)が異なっている。

本質は同じというのはなぜかと言えば、

マインド、物質の両方共通の、背後にあるのが「意識」だからだ。

意識が・・マインド(想念)及び物質のバックグラウンドということだ。

 

 

繰り返しになるが、

様々な物質というものが、意識に無関係に、

勝手に存在しているわけではない。

なぜならば、

形・形状・重さなどの物質形態は、

それを知覚・認識しなければ、何物もそこに存在できないからである。

観察しなければ、それが在ると・・どうしてわかる?という事だ。

 

単純すぎて、身近過ぎて気づかない・・

実は、ここのところが、なかなか・・なのである。

 

今までは、人間不在、意識不在で・・物質・世界が語られてきた。

語り、話、考え、まとめる、体系化するなどは、意識の派生であるマインドの働きに相違ない。

意識そのものによって・・考えられ、語られ、観察・実験され、様々な人文・自然科学で体系化されてきたにもかかわらず、

客観性を保つと言う名目によって、

意識とは関係なく、宇宙が存在している・・という、

いわば唯物論的、3次元的観念体系、

信念体系に閉じ込められていたとも言えようか。

 

それを崩壊させたのは、物質自体を細かく調べてゆく「量子力学」だったのだ。

物質を突き詰めてゆくと、意識が再発見された・・ともいえよう。

 

結論を言えば、

様々な物質の究極の構成物は、微細になるにしたがって、

原子、電子、素粒子(クオーク)と呼ばれるものになり、

その素粒子の顕現事情は、人間の観察によって左右されるということだ。

 

ちなみに、この観察とは・・機械を使おうと使わなかろうと、

人間が・・それを知覚すること・・と解されるが、

観察とは・・一般に、気づくこと、意識する、想う等・・・

つまり意識的働き、あるいはマインドでもある。

 

物質を構成する微細な素粒子は・・人間が観察していない間は「波」のような性質を持ち、観察した瞬間に「粒子」のようなものになる・・とも言える。

あるいはまた、

人間の観察によって、波動が・・(観察可能な)粒子に変化するともいえる。

観察するまでは、物質は・・一体全体・・有るのか?無いのか?不明ということだ。

観察して初めて・・物質という存在になるともいえる。

存在になる・・とは、そう観察される・・という事だ。

 

わたしたちは・・物質や宇宙が存在しているのを見ている気づいている・のであり、

物質や宇宙がある・・のではない。

この ある とは、観察し、気づいているという事なのだ。

 

それは我々とは関係がない、ミクロの世界だろう?・・と言って切り捨てるのは大間違いである。

ミクロ、微細な波動が集まってマクロ・粗大な物質世界になっているのだ。

どうして無関係と言えるだろう。

 

あなたの周りの物質環境、社会、世界、宇宙も、

あなたの観察・意識・気づきによって、

あなたの世界・宇宙になっているのである。

 

今までのように、

物質や様々な環境、世界は・・意識と無関係にある・・という信念こそが、

今までの3次元的世界観であって、

その認識から生ずる集合意識世界・あるいは文明が、スピリチュアルなどで時々言われる「第3密度世界」と言えよう。

 

その世界(観)では、

空間(3次元宇宙)の中に人間を含む、生命や様々な物質の動きがある・・

そして、それは意識以前に勝手に宇宙が存在している・・という観念体系であって、

この「意識」以前・・を「神」以前・・としても良い。

3次元的世界とは、神不在、意識不在の、ある意味で単純な唯物論的世界とも言える。

その場合は、唯物論の上に高度な物質の働きである「こころ」の花が、気弱に咲いているようなものであろう。

こころ、そして背後の「意識」という、いわば重要な「高次元要素」が欠落していたのである。

 

従って、地球上にかつてあったとされる、

いにしえの高度な文明が何度も滅んでしまったのは、

意識から派生するマインド・こころが物質的快楽・幻惑へと落ち込み、

唯物的3次元的世界へと堕落しつつ、

集合体を構成する魂たちの進むべき方向性から大きく逸脱し、

次元が降下してしまったが故だと結論付けて良いだろう。

 

 

・・・

そして、いままた、その不調和極まりない、文明の最終形が展開されているのである。

またそれに遭遇することよって、

もう否応でも気づかなければ・・というプレッシャーにもなるはずだ。

そのうち・・また、何とか・・ではなく、

ここが最後の分岐道かもしれないと心得るべきであろう。

 

自らの意識(魂)・・の・・かような創造性に、

真に気づけるものならば、今までの3次元的信念体系から、

さらに高次元的体験世界へと浮上するだろう。

それが、数字を加えた五次元世界というならば、そういう表現でも構わない。

 

あなたの周りの物質環境、社会、世界、宇宙も、

あなたのマインド状況・観察・意識・気づきによって、

あなたの世界・宇宙になっているのである。

 

外の世界が、勝手にどうなるこうなるではなく、

それを観察・認識する・・意識レベルが肝心要(かなめ)である。

 

あなた自身はどうありたいか?・・・などと言われる所以である。

 

 


(15)存在と波動

2021-03-31 07:20:18 | 意識の科学(総合編)

存在とはなんだろうか?

有ること、在ること、物ごと、事物、物質などのすべてを指す。

世界は存在で満ちている。

我々の存在、肉体、物質、環境、自然、宇宙は存在の多様性そのものだ。

 

そのあらゆる事物を構成している「物質」は、

細胞、結晶、さらに分子や原子でつくられていて、

原子はさらに微小な電子や素粒子でつくられている。

 

そして素粒子レベルでは、粒子性と波動性を備えている。

粒(つぶ)とは「塊」状の存在形であり、波動は振動・伝搬する「波」だ。

粒というのは塊(かたまり)であって、そのものずばりの物としてとらえているが、物は微細になればなるほど、その塊(かたまり)は解(ほぐ)れていって「波」になってしまうという事である。

量子科学では、物は確たる「存在物」ではなく、素粒子の微細レベルでは”波動函数”として表記される。

その波動は・・粗密さ・振動数があって・・物的な確たる存在形ではないことは理解可能だろう。

 

絶対・・在る・・物はなく、・・あるのは存在 ”確率” なのだ。

極端に言えば、相対的なもの

「在るかどうか?・・さあどうだろうか?・・」という類の、確率的な存在という事である。

物質とは・・絶対ある・・とは言えない・・

波の動きで表される"確率的存在"のことなのだ。

 

つまり物質も・・究極、元は「波動」ということになる。

そしてさらに、その物質は・・人が観察した時に・・波動が崩壊して粒子性を帯びるとも解釈されている。

観察していないときには・・波として存在している(だろう)けれども、人が肉眼や機械や測定機器で「観察」することで、初めて粒子性(物の塊)として出現する・・とも解釈される。

 

簡単に言えば・・・、

観ることで、”波動”関数が崩壊して ”粒子” になる。(と観察される)

 

微細ではありながら・・「物」として観測できる・・ということである。

観なければ・・確率的な波動のまま・・在るのかどうかわからない・・のである。

それらが集まってマクロレベルになった状況が、我々の現実と呼ばれる世界。

現実とは、ある意味、いい加減な世界のことだ。

 

いきなりそんなこと言っていいのか?と思われようが、

観る行為・・観察・・人の意識的な働きが無ければ・・

事物は物質化しないという表現もできるわけで、

物質化・・とは知覚可能化でもある。

 

ここが肝心なミクロの点である。

 

気づくことが無くて・・どんな対象物もない・・。

事物とは・・観察されたもの以外の何ものでもない!

 

文字通り、気づけば(笑)全くの自明なのだが・・・、

もう何千年も?・・・このことに気づかず、

物質の塊の中にうずもれていたのである!

 

多くの人は、まだ自分が物質、肉体であると言う感覚の中で、頭を傾げているだろうか?

 

 

 

意識の介在なくば、何事も存在えしない。

意識を抜きに、物が勝手に存在しているわけではないのである。

ここが最も重要なところなのであるが、

ほとんどの人はサラサラ流して逃してしまうのだ。

 

ここには、神智学・哲学などの精神的なものと、現代科学をはじめとする物質的なものとの重要な接続点がある。

 

いや、接続点というと小さな要素のように感じるだろうが、

それは、精神(マインド)と物質を超えて、精神と物質の元になっている・・より高次のものを指し示しているのだ。

ここ・それ、・・とは繰り返し繰り返し記事にしたところの・・「意識」なのである。

マインドと物質環境を含み、それを超えているところの、

高次の・・わたし・・意識・・そのもの・・である。

 

あなたの意識・・がなければあなたの世界は生じていないということであり、またそういう意識が集合して様々な世界を創り上げているということを示しているのだ。

この地球という次元の惑星もそうである。

 

物質と称される物でみちた世界が、

意識と関係なく、勝手に存在しているわけではないということは、

昔からの宗教・精神的見地からの物言いと、

量子論的な科学的知見からの解釈の一致によっても明らかであろう。

 

しかしながら・・・、

真のわたしとは何か?・・自分自身が本当はどういう存在か、

肉体、マインド、意識について探求した場合や、

あるいは、既に潜在意識において知っている者だけが、

このことを直に理解できるのかもしれない。

 

わたしとは誰か?

広大な世界、宇宙のなかの、小さなこの体に過ぎないのか?

それを吟味し思索するマインドなのか?

あるいは、それを含み、それらすべてに気づいているところの、

・・・創造の根源なる波動、魂・意識であるのか?

 

あなたはどう自己認識しているだろうか?