人間とは、「肉体」のことではなく、「意識体」であるというのがより真実に近い見解である。
例えば臨死体験や体脱体験の流布は、そういうより高次の意識体としての人間の、その進化レベルへの移行の明確なサインということなのだということに気付けるだろうか。
これらも偶然に出てきたものだとか、誰かの気のせいだとか思ってはいないだろうか。
新しい事象が出てくるということ、今までになかった認識が立ち現われてくるということは、すなわち人類の内面レベル、意識レベルに大いなる変化が起きてきたという事を示しているのである。
そして雄大で壮大な地球の内面意識の表現形である生態系、自然環境、時空の様相も、遅ればせながら大いなる変位が始まってきたのだ。
例えば次のステージに移ったかに見える異常気象や自然の急変等、
それは単なる一過性の異常等と言うものではなく、
眠って翌朝に起きれば何もなかったというようなことでもなく、
地球という生命圏のステップアップ、新しいレベルへの移行を示す波動的変化を示すものである。
例えば金融資本主義の行きづまりと破綻、
それは再び好景気になるための一過性のサイクルなどではなく、
自己利益特化追求の仕組みの飽和と破壊、そして同時に新たな人類の生存形態への移行を示すものである。
また様々な組織によるあからさまな虚偽、嘘、宣伝、洗脳、不正行為、隠ぺい工作等、
それは、今まで溜め込んだ人類のカルマが、ある部分においてあからさまに噴出してきたこと、
その解消のためのものであり、嘆きも恐れも怒りさえも不要な、通過すべきだけの必然的現象なのである。
心有る者にとっては、それらを観察し、認識し、自省と同時に、不動の意識姿勢を貫くこと・・・、
怖れや不安、恐慌や怒りをことさら生み出さないことが、まずもって大切な「意識的行為」なのである。
そういう意識存在が増えることでこそ、
今まで真実だと誤認していた「物質的幻影の世界」が晴れ渡ってゆくことになるのである。
嘘を見破り、宣伝や洗脳に左右されず、嵐や暴風にも静かに対処ができる人間達に、いかような幻想を見せ得るであろうか。
いいや、それこそ出来ない相談なのである。
生きることそして死ぬことに怯え、
何かにどこか怖れおののきながら、他者依存という目隠しをしたままで、
右に行き、左によろける者が居るからこそ、
左に行け、右に行けという、偉そうでどこか悲しき、愚か者が必要なのである。
今までのそのように、愚者にはさらなる愚者が必要であるように、
次元が変わり、
これからは、賢者にはさらなる賢者が必要な時代に移行しているのである。
はたしてそれに対応できるのだろうか。
それこそが、それぞれのわたしにとって喫緊のテーマなのである。
天の岩戸の神開き、
それはどこかの誰か特別の神様のことではなく、
創造主の生み出した魂たち、
本来、八百万(やおよろず)の神々であるところの、
本質のあなた・・・そして、それぞれの・・・わたし達のことなのである。
・・・
人には思考があり、感情があり、人とはそういう意識活動をする存在であること、すなわち「意識」を体現している存在であるということである。
そう、いわゆる「意識」が全ての根本にあるということだ。
全ての人間は「意識」を有しているわけで、これこそが唯一の全ての人の共通項である。
・・・
動物にも「意識」があることを知っているだろう。
それがわかるのは、彼らが生きて自らを表現しているからである。
身近に在る彼らを見ればわかるはず。
本当のところ、彼ら人間に身近な動物たちは飯が欲しいから人間に飼われているわけではなく、
逆に人間への奉仕のために来ているのである。
実はそういう事である。
人が知力を武器や鎧にしつつ、自己存続のためのエゴで闘う有様は、どこかで死を恐れるがゆえのことであり、そういう観念で物事を認識している場合には、
それと同じく、動物たちも生きるために餌が必要ですり寄って来ているとしか見ていないのではないのだろうか。
しかしながら、いやいや、それは違うのだ。
奉仕とは、捧げ奉ることではなく、
ただ存在することを通じて他者を癒す事、
在るがまま、素のままの邪心のない波動を伝えること、
それがいわゆる霊的な意図というものなのである。
比較的多くの人間が、それが出来ないからこそのある意味での受け入れやすい姿での、まさしく天の使いなのである。
・・・
同じく植物も、そして鉱物さえも、そこ・ここに存在しつつ自らを表現している。
植物は酸素、Co2の循環で大気を維持しつつ、鉱物は盤石な大地という存在ステージを提供している。
鉱物、植物は相互に補完し合いつつ、美しき雄大な大自然を形作っている。
存在しているものは即ち、全て「意識」があるということだ。
人間的意識、動物的意識、植物的意識、鉱物的意識があるわけで、
自分達のような人間の意識の在り方だけではなく、
様々な意識レベル、そして相応する存在表現レベルがあるという事である。
更に、今、あなたや私たちが自己の自己たる気づき、人としての自意識があるとするならば、
そういう壮大なる意識レベルの進化を経てきたのだという事を知らなければならない。
偶然に、ポッと出での人間をやっているわけはないだろう。
余計なお世話だが、多分にそれは無知というものではなかろうか。
・・・
物理次元的な説明では、全ては分子、原子、クオークというエネルギーの局在したものによって構成され、
その分子、原子、クオークは運動、振動をしているということ。
そして運動・振動しているものはエネルギーを有しており、
エネルギーは、宇宙大自然の法則によって様々な物質形態や運動に変換され循環している。
石や岩、川の水、海の中の生態系、無数の種類がある植物や動物、あらゆる全てがクオークと呼ばれる存在量子の意図的な組み合わせで創生されているのである。
そして絵画は画家が描く様に、作品に作家がいるように、製造物には設計者がいるように、
壮大で無限な姿を見せる宇宙にも、創造主が在るとするのは至極当たり前の話なのだ。
宇宙大自然の法則は、無茶苦茶でランダムな確率論でできているわけではなく、
多様な変化をしつつも、そこに明確な意識があるのは明らかであろう。
ことほど左様にそのように、宇宙は「意識」とそして「意図」で創造されているのだ。
あなたもわたし達も、無限の意識の中の明確な意図によって存在しているのである。
・・・
電気の法則、化学の法則、工学的法則、人工的経済でさえも法則がある。
人は皆、そういう細かな法則を、部分的ながらも幾多の法則を知っていることだろう。
法則があるということは、意図があるということだと気づけるはずである。
科学や哲学その他の学問とは、本来そういう法則を発見するための意識的探究のことではなかったのか。
より破壊力の大きい人殺し兵器を作ることでも、フランケンシュタインもどきの遺伝子操作で遊ぶことでもない。
金儲けのための為の研究をすることでもなければ、幼き精神のまま3次元的宇宙砂漠に飛び出ることでもない。
もういい加減、恩知らずの放蕩息子の役どころはやめたがよいのではなかろうか。
・・・
「法則」は、ありうべき宇宙の姿の根幹的創造プログラムとも言えよう。
科学的には細かな法則が数多くあるとされるのだが、そういう法則を更にまとめた大きな法則、深遠でかつシンプルな真理を探究するのが、本来の科学的、哲学的探究なのである。
また宇宙の法則とは即ち、大いなる全ての意識の中に貫いて在る明確な「意図」なのであれば、
その宇宙の真意、真実を探究することが意識ある者たちの務めであるとも言えようか。
・・・
人生が偶然で行き当たりばったり、意味なく生じ、意味なく死んでいくなどという観念は、
宇宙の法則を知らない段階の魂の自己認識表現に過ぎないのである。
もしも・・・そういう観念でいるならば、その者に対して誰が責任をとるのか。
そもそも、一体全体誰がそう言ったのか?
その妥当性を考えたことはあるのだろうか?
宇宙が偶然のエネルギーの一大爆発で生まれたとされるビックバン理論ですら、
そこに法則を探し当てようとする行為であるわけで、なるほどながらそれは明確に宇宙の「意図」を探ろうとする行為に他ならない。
何事も、全てランダムで偶然で突然変異的な、たまたま微妙なバランスで成り立っているわけはなかろう。
なぜ宇宙が存在し、そして「あなた」が存在しているのだろうか。
また思わせぶりにも、それは永遠に解らないとして終わらせているのだろうか。
ところで、人は、
唯物論的な偶然の連続で出来上がるところの、単なる物質微粒子の偶然の集合体なのだろうか。
あるいはそれを表現体として持つところの原因体の方なのだろうか。
もし仮に偶然と突然変異の産物たる、物質の集合体であるならば、
仮にそうであれば、
今までの世界のような、物、銭、金、権力、威力だけが、刹那的な偶然の人生の有用なツールだと考えても無理はないし、どんどんやることに誰も口をはさむことはないだろう。
何せ・・偶然生まれ、只なんとなく生きて、死んだら終わりの人生なのだから・・・。
命を縮めること以外は、何をしても良いということになる。
しかしながら、残念ながらと言おうか、そうではないという事だ。
宇宙には法則も大いなる意識も意図もないとするならば、
死んだら終わりの無責任な偶然人生ならば、
そう、悪いことでも何でもしたほうがいいかもしれないが、
魂の進化とは確実なプロセスのことでもあり、
わけのわからない人生、それを輪廻とカルマの輪での内で繰り返すうちに、必ず飽和する時点がやってくる。
まるで孫悟空がお釈迦様の手の内を逸脱できないように、自らのエゴ的在り方の限界を悟る時が来る。
そしてそのある時には、謙虚さが生まれ、すなわち自らのエゴを自らで控えざるを得ない時に至り、
百歩譲る余裕が生まれて来ることになり、何か自我エゴの在り方以外の真実や、大いなる宇宙の法則があるはずだという、
自己を空(むな)しくする段階が絶対的にやってくるのだ。
謙虚な精神的姿勢、感受性の高まったマインドレベルに到達すること、
これが、極めて重要な「魂の進化」のターニングポイントなのである。
まるで矛盾のような・・・知らないことを・・・知るという意識的段階に至るのである。
それを昔から「無知の知」という。
知らないことを恥とする、中途半端な知的水準、知ったかぶりで威張り散らすエゴのレベルを超え、
膨大な宇宙での自らの無知さ加減に気付くような、さらに次のレベルに至るという事である。
意識的な謙虚さ、それが魂の勇躍たる進化の重要なファーストステップと言えるだろう。
謙虚さこそは、知的な無限への扉を開ける行為なのである。
それは常に空(くう)なる自己を悟ることなのである。
日本にある神話での・・天の岩戸が、
それが例えば世界で最も重く、動かしがたい扉のことであるとするならば、
存在宇宙で最も重いのは、人間の「こころ」の事であろう。
何トンも何十トンもある岩石も、工夫ひとつ機械ひとつで動かせるけれど、
何重にも囲われて、何百トンとも想定される、架空の物質的幻影で固まった人間達のこころ、
なんでも作り出し、自らで自らを押しつぶしながら、他者のせいにしてきたこころの岩戸、
それが開き始めることの、なんという奇跡であろうか。
天の岩戸の神開き、
それはどこかの誰か特別の神様のことではなく、
創造主の生み出した魂たち、
本来、八百万(やおよろず)の神々であるところの、
本質のあなた・・・そして、それぞれの・・・わたし達のことなのである。
だからこその奇跡なのである。