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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

天の岩戸の物語

2013-08-02 21:59:45 | 新たなる地平線

人間とは、「肉体」のことではなく、「意識体」であるというのがより真実に近い見解である。

  

例えば臨死体験や体脱体験の流布は、そういうより高次の意識体としての人間の、その進化レベルへの移行の明確なサインということなのだということに気付けるだろうか。

 

これらも偶然に出てきたものだとか、誰かの気のせいだとか思ってはいないだろうか。

 

新しい事象が出てくるということ、今までになかった認識が立ち現われてくるということは、すなわち人類の内面レベル、意識レベルに大いなる変化が起きてきたという事を示しているのである。

 

そして雄大で壮大な地球の内面意識の表現形である生態系、自然環境、時空の様相も、遅ればせながら大いなる変位が始まってきたのだ。

  

例えば次のステージに移ったかに見える異常気象や自然の急変等、

 

それは単なる一過性の異常等と言うものではなく、

 

眠って翌朝に起きれば何もなかったというようなことでもなく、

 

地球という生命圏のステップアップ、新しいレベルへの移行を示す波動的変化を示すものである。

 

例えば金融資本主義の行きづまりと破綻、

 

それは再び好景気になるための一過性のサイクルなどではなく、

 

自己利益特化追求の仕組みの飽和と破壊、そして同時に新たな人類の生存形態への移行を示すものである。

 

また様々な組織によるあからさまな虚偽、嘘、宣伝、洗脳、不正行為、隠ぺい工作等、

 

それは、今まで溜め込んだ人類のカルマが、ある部分においてあからさまに噴出してきたこと、

 

その解消のためのものであり、嘆きも恐れも怒りさえも不要な、通過すべきだけの必然的現象なのである。 

 

心有る者にとっては、それらを観察し、認識し、自省と同時に、不動の意識姿勢を貫くこと・・・、

 

怖れや不安、恐慌や怒りをことさら生み出さないことが、まずもって大切な「意識的行為」なのである。

 

そういう意識存在が増えることでこそ、

 

今まで真実だと誤認していた「物質的幻影の世界」が晴れ渡ってゆくことになるのである。

 

嘘を見破り、宣伝や洗脳に左右されず、嵐や暴風にも静かに対処ができる人間達に、いかような幻想を見せ得るであろうか。

 

いいや、それこそ出来ない相談なのである。

 

生きることそして死ぬことに怯え、

 

何かにどこか怖れおののきながら、他者依存という目隠しをしたままで、

 

右に行き、左によろける者が居るからこそ、

 

左に行け、右に行けという、偉そうでどこか悲しき、愚か者が必要なのである。

 

今までのそのように、愚者にはさらなる愚者が必要であるように、

 

次元が変わり、

 

これからは、賢者にはさらなる賢者が必要な時代に移行しているのである。

 

はたしてそれに対応できるのだろうか。

 

それこそが、それぞれのわたしにとって喫緊のテーマなのである。

 

天の岩戸の神開き、

  

それはどこかの誰か特別の神様のことではなく、

  

創造主の生み出した魂たち、

 

本来、八百万(やおよろず)の神々であるところの、

 

本質のあなた・・・そして、それぞれの・・・わたし達のことなのである。 

・・・ 

人には思考があり、感情があり、人とはそういう意識活動をする存在であること、すなわち「意識」を体現している存在であるということである。 

 

そう、いわゆる「意識」が全ての根本にあるということだ。 

 

全ての人間は「意識」を有しているわけで、これこそが唯一の全ての人の共通項である。

 

・・・ 

動物にも「意識」があることを知っているだろう。

 

それがわかるのは、彼らが生きて自らを表現しているからである。 

 

身近に在る彼らを見ればわかるはず。 

 

本当のところ、彼ら人間に身近な動物たちは飯が欲しいから人間に飼われているわけではなく、

 

逆に人間への奉仕のために来ているのである。

 

実はそういう事である。 

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人が知力を武器や鎧にしつつ、自己存続のためのエゴで闘う有様は、どこかで死を恐れるがゆえのことであり、そういう観念で物事を認識している場合には、

それと同じく、動物たちも生きるために餌が必要ですり寄って来ているとしか見ていないのではないのだろうか。

 

しかしながら、いやいや、それは違うのだ。

 

奉仕とは、捧げ奉ることではなく、 

 

ただ存在することを通じて他者を癒す事、 

 

在るがまま、素のままの邪心のない波動を伝えること、 

 

それがいわゆる霊的な意図というものなのである。

 

比較的多くの人間が、それが出来ないからこそのある意味での受け入れやすい姿での、まさしく天の使いなのである。 

・・・

 

同じく植物も、そして鉱物さえも、そこ・ここに存在しつつ自らを表現している。 

 

植物は酸素、Co2の循環で大気を維持しつつ、鉱物は盤石な大地という存在ステージを提供している。 

 

鉱物、植物は相互に補完し合いつつ、美しき雄大な大自然を形作っている。

 

存在しているものは即ち、全て「意識」があるということだ。

 

人間的意識、動物的意識、植物的意識、鉱物的意識があるわけで、

 

自分達のような人間の意識の在り方だけではなく、 

 

様々な意識レベル、そして相応する存在表現レベルがあるという事である。  

 

更に、今、あなたや私たちが自己の自己たる気づき、人としての自意識があるとするならば、

  

そういう壮大なる意識レベルの進化を経てきたのだという事を知らなければならない。 

 

偶然に、ポッと出での人間をやっているわけはないだろう。 

 

余計なお世話だが、多分にそれは無知というものではなかろうか。

 

・・・ 

物理次元的な説明では、全ては分子、原子、クオークというエネルギーの局在したものによって構成され、 

 

その分子、原子、クオークは運動、振動をしているということ。 

 

そして運動・振動しているものはエネルギーを有しており、

 

エネルギーは、宇宙大自然の法則によって様々な物質形態や運動に変換され循環している。

 

石や岩、川の水、海の中の生態系、無数の種類がある植物や動物、あらゆる全てがクオークと呼ばれる存在量子の意図的な組み合わせで創生されているのである。 

 

そして絵画は画家が描く様に、作品に作家がいるように、製造物には設計者がいるように、 

 

壮大で無限な姿を見せる宇宙にも、創造主が在るとするのは至極当たり前の話なのだ。 

 

宇宙大自然の法則は、無茶苦茶でランダムな確率論でできているわけではなく、

 

多様な変化をしつつも、そこに明確な意識があるのは明らかであろう。 

 

ことほど左様にそのように、宇宙は「意識」とそして「意図」で創造されているのだ。

 

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あなたもわたし達も、無限の意識の中の明確な意図によって存在しているのである。

・・・

 

電気の法則、化学の法則、工学的法則、人工的経済でさえも法則がある。

 

人は皆、そういう細かな法則を、部分的ながらも幾多の法則を知っていることだろう。 

 

法則があるということは、意図があるということだと気づけるはずである。 

 

科学や哲学その他の学問とは、本来そういう法則を発見するための意識的探究のことではなかったのか。

 

より破壊力の大きい人殺し兵器を作ることでも、フランケンシュタインもどきの遺伝子操作で遊ぶことでもない。

 

金儲けのための為の研究をすることでもなければ、幼き精神のまま3次元的宇宙砂漠に飛び出ることでもない。

 

もういい加減、恩知らずの放蕩息子の役どころはやめたがよいのではなかろうか。

・・・

 

「法則」は、ありうべき宇宙の姿の根幹的創造プログラムとも言えよう。 

 

科学的には細かな法則が数多くあるとされるのだが、そういう法則を更にまとめた大きな法則、深遠でかつシンプルな真理を探究するのが、本来の科学的、哲学的探究なのである。

 

また宇宙の法則とは即ち、大いなる全ての意識の中に貫いて在る明確な「意図」なのであれば、

 

その宇宙の真意、真実を探究することが意識ある者たちの務めであるとも言えようか。

 

・・・

 

人生が偶然で行き当たりばったり、意味なく生じ、意味なく死んでいくなどという観念は、

 

宇宙の法則を知らない段階の魂の自己認識表現に過ぎないのである。

 

もしも・・・そういう観念でいるならば、その者に対して誰が責任をとるのか。

 

そもそも、一体全体誰がそう言ったのか?

 

その妥当性を考えたことはあるのだろうか? 

 

宇宙が偶然のエネルギーの一大爆発で生まれたとされるビックバン理論ですら、

 

そこに法則を探し当てようとする行為であるわけで、なるほどながらそれは明確に宇宙の「意図」を探ろうとする行為に他ならない。

 

何事も、全てランダムで偶然で突然変異的な、たまたま微妙なバランスで成り立っているわけはなかろう。 

 

なぜ宇宙が存在し、そして「あなた」が存在しているのだろうか。

  

また思わせぶりにも、それは永遠に解らないとして終わらせているのだろうか。

ところで、人は、

 

唯物論的な偶然の連続で出来上がるところの、単なる物質微粒子の偶然の集合体なのだろうか。

 

あるいはそれを表現体として持つところの原因体の方なのだろうか。 

 

もし仮に偶然と突然変異の産物たる、物質の集合体であるならば、

 

仮にそうであれば、

 

今までの世界のような、物、銭、金、権力、威力だけが、刹那的な偶然の人生の有用なツールだと考えても無理はないし、どんどんやることに誰も口をはさむことはないだろう。

 

何せ・・偶然生まれ、只なんとなく生きて、死んだら終わりの人生なのだから・・・。

 

命を縮めること以外は、何をしても良いということになる。

 

 

しかしながら、残念ながらと言おうか、そうではないという事だ。

 

宇宙には法則も大いなる意識も意図もないとするならば、 

 

死んだら終わりの無責任な偶然人生ならば、 

 

そう、悪いことでも何でもしたほうがいいかもしれないが、 

 

魂の進化とは確実なプロセスのことでもあり、

 

わけのわからない人生、それを輪廻とカルマの輪での内で繰り返すうちに、必ず飽和する時点がやってくる。

 

まるで孫悟空がお釈迦様の手の内を逸脱できないように、自らのエゴ的在り方の限界を悟る時が来る。

 

そしてそのある時には、謙虚さが生まれ、すなわち自らのエゴを自らで控えざるを得ない時に至り、

  

百歩譲る余裕が生まれて来ることになり、何か自我エゴの在り方以外の真実や、大いなる宇宙の法則があるはずだという、

 

自己を空(むな)しくする段階が絶対的にやってくるのだ。 

 

謙虚な精神的姿勢、感受性の高まったマインドレベルに到達すること、 

 

これが、極めて重要な「魂の進化」のターニングポイントなのである。 

 

まるで矛盾のような・・・知らないことを・・・知るという意識的段階に至るのである。 

 

それを昔から「無知の知」という。  

 

知らないことを恥とする、中途半端な知的水準、知ったかぶりで威張り散らすエゴのレベルを超え、 

 

膨大な宇宙での自らの無知さ加減に気付くような、さらに次のレベルに至るという事である。 

 

意識的な謙虚さ、それが魂の勇躍たる進化の重要なファーストステップと言えるだろう。 

 

謙虚さこそは、知的な無限への扉を開ける行為なのである。

 

 

それは常に空(くう)なる自己を悟ることなのである。

 

日本にある神話での・・天の岩戸が、

  

それが例えば世界で最も重く、動かしがたい扉のことであるとするならば、 

 

存在宇宙で最も重いのは、人間の「こころ」の事であろう。 

 

何トンも何十トンもある岩石も、工夫ひとつ機械ひとつで動かせるけれど、 

 

何重にも囲われて、何百トンとも想定される、架空の物質的幻影で固まった人間達のこころ、 

 

なんでも作り出し、自らで自らを押しつぶしながら、他者のせいにしてきたこころの岩戸、 

 

それが開き始めることの、なんという奇跡であろうか。

 

 

天の岩戸の神開き、

  

それはどこかの誰か特別の神様のことではなく、

  

創造主の生み出した魂たち、

 

本来、八百万(やおよろず)の神々であるところの、

 

本質のあなた・・・そして、それぞれの・・・わたし達のことなのである。 

 

 

だからこその奇跡なのである。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


今は魂進化の分岐点

2013-07-29 11:01:40 | 新たなる地平線

人間は単なる肉体存在ではない。

 

この認識に至れるかどうか、今人類の霊的進化が問われているのである。

 

稀有な時代とはそういう霊的な進化の一大通過点のことである。

 

・・・ 

例えば人間とは何かの一端を車と運転者の例で説明してみよう。

 

なじみの肉体はまるで車のボディのようなものであり、ボディは確かにダーウインの提案した進化論、

 

経験に即した形態的進化を通じて、複雑な機能を次第に装備するようになるわけだが、

 

それは人間という存在そのものを定義するわけでなく、単なる車体に過ぎないのだということ。

 

簡単に云えば、「人」は車体ではなく、それを運転する「ドライバー」なのだ。

 

「あなた」であるドライバ・運転手は、セダンやワゴンなどの「車体」ではないはずだろう。

 

誰も皆、既に経験済みではないだろうか。

 

運転手が車体と異なるのは、

 

車体は言われるままに動くのが役目であり、

 

運転手は・・・運転する主体としての自己「意識」と、進むべき方向を決める「意図」を有しているということだ。

 

その主体たる「意識」と「意図」が本質の「わたし」そして 魂 なのである。

 

 

そして、森羅万象を貫いて在るところの、普遍的な『意識』の中に生成された、様々な創造意図が「想念」であると言って良いだろう。

 

したがってすべての人的現象の大本にあるのは「想念」「思考」「想い」なのである。

  

人は毎瞬毎時、様々な現象の原因である『想い』を宇宙中に放っていることに気付くべきなのである。

 

想念は肉眼に見えずそれが非物質的であるからこそ、

 

 

多次元的な波動として、宇宙のあらゆる次元に伝搬していることも合わせて知っておくべきだろう。

  

また伝搬する波動はどんなものでもキャッチすることも可能なのである。

 

 

人々がそういう認識レベルになれば、嘘も隠しも通用しなくなるのは火を見るよりも明らかである。

  

想念を理解、知覚する嘘のない世界、これが次のステップの文明世界である。

 

  ・・・

意識体の諸経験で形成された想いの質は「精神」となり、

  

その集合せる精神が文化文明の元になるわけである。

 

また個々の魂は、その進化・昇華せるレベルに相応しき時代あるいは文化・文明または惑星文明圏に同調し、新たに転移してゆく経歴が魂の転生プロセスと言われるものなのだ。

 

人存在は、まず「精神」が重要であるということはそういう理由からである。

  

 

先般の記事での「武士道精神」も、日本という国で醸成され昇華された、1つの雄々しき精神の事例である。

 

魂の経験に伴う、行為と思いの質の深化と昇華こそが、魂の財産・系譜となるのだ。

 

  

 

物銭金や地位や名誉や権勢などは、どこにも持ってゆくことは出来ない。

 

誰でも本質でわかることを、実際に想いや行為として表現できるかどうか、

 

 

それが本質で理解できるかどうか・・・なのである。

 

・・・・

 

例えば運転者を度外視して、車の車体のほうが全てだとするような、単純な感じ方・考え方が、人間は肉体であるとする考え方である。

 

何せ目に見えることしか考えられないということ、目に見える物は現象・結果にしか過ぎないという認識に至っていないわけである。 

 

「えー、いったい何のことだ?、保証できるのか・・どういう証拠があるんだ・・!  」

 

これを他者依存的、唯物思考といってもいいだろう。

 

そう・・・、所詮は「思考」、あるいは古臭くなった表現ではイデオロギーというものである。

 

常識という観念、

 

それらが真実ではなく単に思考に過ぎないこと、及びその多様性を旨とする思考内容の本質に気付かないこと、

 

 

またさらにそれをその都度生み出している本尊である、魂意識・魂存在としての自己・・・に気付いていないことを称して、

 

 

霊的に眠っている・・・と言うようである。

  

そして思考や想念が人的世界の原因、青写真になっていることに気付かない場合は、

  

 

自己が創造する1つの起点であることに気付かない間は、

 

これはまるで目の描かれていない「ダルマ」のようなものである。

  

眼のないダルマ・・・そう・・、自らが未だ霊的に目覚めていないとも言えるだろう。

   

余計なお世話だが、

  

あなたやわたしはどうだろうか。 

 

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・・・

 

思考が大勢の思考として、それが信じられるようになったものを常識「観念」という。  

 

また特定の常識観念に誘導する行為のことを洗脳、マインド制御という。 

 

今は政治・経済活動全般に・・・宣伝、洗脳、マインドコントロール花盛りであるし、 

 

昨今では政治・行政なども、不正選挙、事実隠ぺい等、哀れにもあからさまな嘘で強引に誘因する姿態に成り果てた感があるが、・・・ 

 

実は、これら末期症状的洗脳行為は、この時期に、人の主体的意識が打破すべき1つのテーマを投げかけているのである。  

 

これは、さもおどろおどろしい悪の催眠、支配への誘導、破滅への勧誘のような解釈だけに特化すべきではなく、

 

自由な意識体としての「魂」が、自ら越えなければならない霊的敷居のことを意味しているのである。

 

人の思考に流されることなく、自らが自らの世界の主人公であることを自覚出来るかどうか、

  

他者に依存し支配されるか、あるいは自らが自由な創造体であることが出来るか・・・・

 

とうとう人類全般が、そういう問いかけステージに遭遇しているということだ。 

 

多次元宇宙において、惑星単位の人類意識あるいは文明がある時点になった場合、

 

魂の発展に伴って必ず問われるテーマが顕れる、そう、かつて何度も繰り返された霊的テーマが、

  

「今」目の前に来ているのである。

 

 

目の前と言っても、肉眼視でなく総合的・直観的な観察視力、あるいは霊的視野でしか見えないのだが、

  

道ははっきりと二つに分かれてきたということだ。 

 

いつか来た古い道をまたぞろ巡るか、魂に従った新しき道を進むか・・・・

  

これは決して集団事などではなく、一人ひとりの選択なのである。

 

 

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さらば古きニッポン

2013-07-25 08:16:04 | 新たなる地平線

●日本にあったかつての黄金時代 

 

ニッポン、ハポン、ヤーパン、ニープンというかつての各国での発音は、

 

すなわちかつて「日本」と呼ばれていた、美しき・優しき・強き国を意味している。 

 

しかしながら、今の劣化した「ジャパン」とは全くもって似て非なる国であった。

 

元々国の価値等は、決して制度や物質的富や経済力や軍事という量の多さで決まるものではなく、 

 

その国を構成する民人の集合精神、根本にある「こころ根」によって規定されるのである。

 

物質レベルの科学や技術はすぐ学べる性質のものだが、

 

精神の進化や昇華は、簡単にできるものではないからだ。 

 

国の価値は民衆の総合的精神レベルでしか規定できないものなのである。

 

幾多の転生を経て意識の向上を目指す魂たちにとって、

 

持続する記憶として残るのは、とってつけたようなその時代の浅薄な知識等ではなく、 

 

その人生で磨かれ抜かれた魂の軌跡、消えることのない感動の痕跡と言おうか、

 

簡単に言えば、

 

愛と共感に裏打ちされた行為で溢れる生活から得られるところの、決して消えることのない深い「感性」なのだということに気付けるだろうか。

 

ニッポンも古い時代ほどその精神性は高く、縄文時代に代表される古代、あるいは超古代はその精神性が最も高く豊かだった時代なのだということが出来るだろう。

 

古いものは全て野蛮で原始的だったなどというような、単純な歴史観で洗脳されていなければ、数少ないまっとうな時代考証記録や遺跡の分析などによって、その逆転史観とも言うべき事実に気付けるはずである。

 

 

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(縄文時代の生活の1つの想像絵)

 

人々は豊潤な大自然の中に住み分け、平和でまた生活も豊かで、争う事や犯すことがなく、衣食住の最小限の快適さが工夫された文化文明、

 

これが例えば日本列島の縄文遺跡からも明確に窺がうことが出来るのである。

 

今の日本人は例えばあの縄文時代が、未開発の野卑な時代であったと思っていたのではないか。 

 

「正しい歴史認識」等という言葉があちらこちらで出ているようだが、まるで言葉の意味がわからず空回りしつつ、それが単なるエゴ的自己主張や他者・他国への牽制に過ぎないことは、言葉にするのも嘆かわしい感じがする。 

 

要は、他者・他国へは正しい認識を求めつつ、おのれは全てを知っていると称し、何も切磋琢磨しないということである。

 

だからこういう駄々っ子的、幼児的な言葉は欺瞞にしか過ぎないのだとわかるだろう。

 

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縄文時代の火焔土器(ウイキペディアより)

・・・  

今は亡き、かつてのニッポンは長い時代を通じて次第に精神的な次元を降下してきたとはいえ、その国民、住民の精神の豊かさ、きめ細かさ、また強靭性が最も昇華された国であったと言えようか。

 

また、

 

地球の西から物的欲望に病んだ者たちが、極東まで侵食してくる前には、それが理想とは言えないまでも、江戸時代という『1つの黄金期』があったのだ。 

 

そう、かつて江戸時代は完全自給自足、道路や灌漑はそれなりに整備され、町並みは清潔に維持され、 

 

海や川や山には生命が溢れ、その気になれば山菜や魚なども自由に採集が出来るため、

 

経済に無頓着なその日暮らしの民衆と言えども、欲を出さなければ別に食料に事欠くという環境にはなかったわけだ。

 

士農工商という封建的身分制度という支配構造はあれども、誰もが別の何かに成り替わるための諍いや血塗られた革命などというような、 

 

仲間どうし血で血を洗うような愚かな真似もせず、

 

地球の縮図とも言える日本列島、春夏秋冬の織りなす、実に豊かで清楚な国土での人生を全うしていたのだ。   

 

自己だけの生き残りを掛け、科学技術を暴力の道具に特化させ、それによって簒奪・収奪を旨とする西洋的文化のようなものではなく、

 

 

逆に江戸時代は実に余裕のある、大自然の中で豊かに生きていつつも、人工的な機能美を取り入れた文化・文明であったと言えるだろう。

 

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現代人がどこか思っているようには、江戸時代は文化的な停滞などはしておらず、そのような一見「天下泰平」で何事もないような時代こそ、また生きるために急き立てられて、何かをしなければならないような空回り責務が少ない時代こそ、真(まこと)の文化が「自然に」咲き誇るのである。

 

1つ江戸時代も、縄文時代と本質は同じ、天下泰平、滋味豊かな精神性を代表する得難き文化と言えるだろう。

 

●犠牲になって散った武士道精神

  

人間社会は、それ、良いとか悪いとか、賢いとか愚かとか、様々な魂の表現たる様々な生き様があるわけだが、 

 

例えばかつての武士は、お金や権勢のためではなく、まず家や武士であることの「誇り」のために生き、 

 

たとえ自己の身が苦しくとも不正を受け付けず、「武士は食はねど高楊枝・・・」などというような、 

 

一見は、やせ我慢や見栄のための、頑固一徹のような生き方をもどこか当たり前で良しとしていた。

 

しかしながら、例えそれがやせ我慢ではあっても、また支配者側の都合による朱子学、儒教的な観念のお仕着せがあったとしても、 

  

武士たちには、自己の本分を死守する、役目を全うするという気概、 

 

自らの我欲を抑え、自己を律する為の高度に精神的な姿勢があったのである。  

 

 

これは、自分が生きるためには・・・他者への悪事も仕方がないという考えが・・・ほとんど無いということを顕しており、これはある意味で、

 

 

想念に邪心が混入しずらい精神構造なのだ。

 

 

逆に、武士階級は滅私奉公の為の機会を ”腹を据えて” 待っている等という、 

 

西洋的な個人主義的観念では到底理解不能な、また実に空恐ろしき精神を持っていたのだ。 

 

武士道精神の根本には、そういう「心根」があるということだ。

 

これは自虐的な観念ではなく、歴史の中で身についてしまった「奉仕」の観念である。 

 

簡単この上もない稚拙な説明なのだが、これが「武士道精神」なのだと言えようか。

 

どこか損しているような、何か滑稽さがあるような・・

 

そんな感じがすることにこそ、

 

「滅私奉公」の精神の真骨頂があることに気付けるだろうか。

 

別に過去を固執崇拝、礼賛するつもりもないが、  

 

 

かつての大東亜戦争の結果の、アジア各国の独立は、そういう武士道精神の犠牲が遠因となって実現したのだという事は、決して言い過ぎではなかろう。

 

 

いざ鎌倉というときに、誇り高き武士なら多分こう言うことだろう。

 

俺はいいからお前が食えばよい・・・、  

 

俺はいいからお前が生きよ・・・  

 

その為には俺がひと働きしてやるから・・・・

 

 

そして嫌も応もなく、既に数十年前にアジア太平洋において、過酷なその働きを済ませたのち、そう、その時に古いニッポンは終わりを告げたのだ。

 

またぞろ、それを取り戻すとか・何とかいう政治的スローガンは、イメージ、気持ちだけ、または別の利権獲得の意味しかない。

 

善なる理想に対して、滅私奉公も良しとする強靭な『武士道精神』がなければ、

 

それは絵に描いた餅どころか、 

 

単なる自滅の加速への誘因にしかならないのだ。   

 

謹厳実直な武士道のような、そういう人間の肝のところでの心魂の発露は、

 

損や得、勘定、計算等入る余地もなく、またそうであるからこそ、 

 

他を生かすための力、いざという時のパワーと強い信念を維持できたということだ。

 

ひとつ、これが世界に冠たる 「高次の日本の精神」 なのである。 

 

・・・

 

下記の抜粋は、池田整治さんの著「マインドコントロール 2」(ビジネス社)からのものである。

 

この簡潔な文章の中にこそ、

 

日本人のかかわる深い歴史の本質と軌跡、真実と虚偽、

 

光と闇の系譜を如実に感得することができるだろう。

 

シンプルな表現の中にある・・・「正しい歴史の認識」に触れ、

 

なぜか・・・涙が溢れてくるのだ。

 

・・・

ーーーーーーーーーー

「日本人よありがとう」 序文 

 

ラジャー・ダト・ノンチック(元マレーシア上院議員)

 

 

・・・

 

かつて 日本人は 清らかで美しかった

 

かつて 日本人は 親切でこころ豊かだった

 

アジアの国の誰にでも 自分のことのように

 

一生懸命尽くしてくれた

 

何千万人もの人の中には 少しは変な人もいたし

 

おこりんぼや わがままな人もいた 自分の考えをおしつけて

 

いばってばかりいるひとだって いなかったわけじゃない

 

・・

 

でも そのころの日本人は そんなすこしのいやなことや

 

不愉快さを超えておおらかで まじめで 希望にみちて明るかった

 

戦後の日本人は 自分たちのことを 悪者だと思い込まされた

 

学校でも ジャーナリズムでも そうだとしか教えなかったから

 

まじめに 自分たちの父祖や先輩は 悪いことばかりした

 

残酷無情なひどい人たちだったと 思っているようだ

 

だからアジアの国に行ったら ひたすらペコペコあやまって

 

わたしたちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている

 

 ・・ 

 

そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると

 

自分の国や 自分までが えらいと思うようになってきて

 

うわべや口先では 済まなかった 悪かったと言いながら

 

ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする

 

そんな今の日本人が心配だ

 

・・・

 

ほんとうに どうなっちまったんだろう

 

日本人は そんなはずじゃなかったのに

 

本当の日本人を知っている わたしたちは

 

今いつも歯がゆくて 悔しい思いがする

 

・・

 

自分のことや会社の利益ばかり 考えて

 

こせこせと 身勝手な行動ばかりしている ヒョロヒョロの日本人

 

これが本当の日本人なのだろうか

 

・・

自分たちばかりで 集まっては

 

自分たちだけの楽しみやぜいたくに ふけりながら

 

自分がお世話になって住んでいる

 

自分の会社が いつも仕事をしている 

 

その国とその国民のことを さげすんだ眼で見たり バカにしたりする

 

 

こんなひとたちと 本当に 仲良くしてゆけるのだろうか

 

どうして日本人は こんなになってしまったんだ

 

・・・・・

 

 

艱難辛苦を通り越し、闇と光をまともに観ることで、・・・

 

そして真摯なる自己認識に至ることで、最期の闇夜は明けたのである。

 

嗚呼・・・

 

そして、とうとう新しい精神の時代が始まったのだ。

 

その前に、最終最期の一試練があることだろう。

 

それが止(とど)めの、峠越えである。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


あなた・・とは何者か

2013-07-21 07:55:57 | 新たなる地平線

人間の根本的なアイデンティティーは、すなわち「わたし」という自意識にある。 

 

どんな人も、気づくか気づかないかに関わらず 「われ」 という根本的な自覚があるのだ。 

 

そうではないか? 

 

世界があって様々な出来事があるわけだが、それを見聞き知るのは、その「わたし」である。 

 

あなたの様々な身の回りや世間経験やらネットのニュースやらを見聞きしているのは、 

 

他ならぬ「あなた」以外に有りはしない。 

 

同じような経験をしている仲間や家族や知人等が周りにいるわけなので、みんな一緒にやっているという集団的感覚があるだろうが、  

 

根本的に言えば、 

 

それぞれのあなたの世界には、だた「あなた」しか、 

 

「われ」という主体的意識を持っている者はいないのである。 

 

これは、さらりと頭で知ることではなく、深く感得しなければならないこと。  

 

この世界では大勢の人が生まれ、そして大勢の人が死んでゆくわけだが、

 

ある人の死は、その人の「わたし」の視点が、この世界から外れるということであり、 

 

またその「わたし」の自己創造の時空環境、あるいは表現次元を変えるだけのことである。 

 

その人の根本的アイデンティティーである「わたし」がなくなるわけではない。 

 

ただし、その”不滅の「わたし」”とは、 

 

どこどこ生まれのどういう経歴の、男の女の、何歳の・・・特殊なキャラクターで定義される「私」ではなく、 

 

そういう様々な人生を生きてきた、様々な人格を培ってきた結果としての、個別の「表現形」の私的「わたし」ではなく、 

 

それらの様々な表現型を生み出すところの根源としての「わたし」である。 

 

それは作家が様々な本を出すのと同じことだ。 

 

ある時は女で生まれ、ある時代ではある人格を形成し、ある場所では男であった・・・ 

 

その人格たち、その私たちを生み出すというか、自己投影するというか、・・・ 

 

そういう根源的な「わたし意識」こそが、「わたし」なのである。 

 

だから不滅で根本的な「わたし」には、生命の体験履歴である様々な人格が含まれているということだ。 

 

過去生の記憶や他生の経歴は、その根源的なひとつの「わたし」の映し出す万華鏡的人格のようなものである。 

 

あなたは本来の不滅の「それ」なのだ。 

 

ある人が、例えば前世や過去生のことに気付くようになる場合は、死滅することのないそれ 

 

普遍的な<わたし>というアイデンティティーを完全に理解可能であるが、 

 

自分が個々別々の肉体人間であるとしか「自己認識」できない間は、 

 

自己観念が小さく閉じられている場合には、実際何が何だかわからないだろうし、 

 

そもそもそういう情報に接することもないし、また接してもその概念に共感することもない。  

 

すなわち・・・・わたしの意識の拡大がなされていない、意識の眼が開いていないということである。 

 

こういう話は、そういうことにどういう飯の種があるだとか、どういう経済効果があるだとか、どういう利益をもたらすかだとか、 

 

そういう次元の話ではないことは理解可能だろう。 

 

実に、・・・ここが肝心かなめな意識の峠なのであり、 

 

今の稀有な時代を有意義に経験できるかどうかの関所、

 

ある意味で1つのレベルでの卒業試験のようなものなのだろう。 

・・・

 

難しい話でもなく、高度な理論も、思考を極限まで働かせるような西洋哲学も不要である。 

 

ただ自己を観ること、生きている事実を単刀直入に感じること、 

 

そして少しばかりの思い巡らしが必要なだけである。 

 

ただ、あるがままを・真・摯・に理解しようとすることなのだ。 

 

そのために日常生活があるのである。

 

銭・金・物・権威・過ぎたる生存欲や支配欲、・・・・ 

 

そんなものはまるで幼稚園に備わっている積み木や遊び道具のようなものである。 

 

ましてや嘘や欺瞞で大勢の仲間たちを傷つけ惑わすことなど、 

 

まるで、幼稚園に入りたてのわけがわからない段階の霊的幼者の証拠である。 

 

不思議にこの世界は、そういう者たちがいわゆる上層に行きたがる傾向があり、 

 

彼らは、その物欲顕示や所有物の量などで満悦のごとき有様であるが、 

 

今はもう、心ある者はそれにかかずらわってはならない。 

 

さも栄華を極めたような、どこか何か良いことありそうな、そういう霊的幼児のパフォーマンスにかかずらわってはならないし、 

 

また恐ろ・・、おどろしい支配の噂にもひっかけ思念でかかずらわってはならない。 

 

何かしてくれそうな、様子の良さそうな政治屋のプロパガンダは、ほぼ完全に「欺瞞」であることは、 

  

もう気づかなければならないはずである。 

 

自己が幸せに在らずして、どうして大勢を幸せに出来るのか?

 

まさに最初から嘘や欺瞞なのである。

 

 

話はそれるのが常であるが、なかなか悲しいところでもあるのだ。

 

・・・ 

 

 

かつての魂の猛者たちは、今はもうそういうレベルではあるまいし、

 

 

また、今、この期に及び、そんな暇?はあるまい。

 

誰がどうしたこうした・・ということではなく、

 

 

 

あなたは「あなた」である・・・ということである。

 

あなたは・・あなたがこうあれば良いと感じる自身であることだ。

  

皆がこうだとか、誰かが・・ああだとか、他者依存、他者実現?をしてどうなるのか、 

 

それは他者・・・すなわち、別の「あなた」の霊的成長に任せなければならないはずである。

 

自己創造の根本であるあなたは、ひとえに「あなた」自身から生み出されているのだ。

。。。

 

ニサルガダッタ・マハラジの言う、わたしはそれ・・・ 「 I am that 」・・・は、 

 

最も簡単にそれを表わした真理の言葉である。 

 

わたしは何者でもなく、そして何者でもある。

 

 

実はそれは空(くう)と同じなのだ。

 

 

わたしは本来何ものでもなく、

  

わたしは、それ・・・・、あれであり、これであり、それである・・・ところのわたしである。  

 

わたしは・・・常に、わたしを自己定義して自己創造するということだ。  

 

だからあなたがどこか西洋的な自己アイデンティティー、個別別箇の肉体人格と自己定義、自己認識していれば、

 

まさにそういう自己を演じることになるのである。 

 

あなたは今、自己をどういう風に知らず知らずでも「定義づけ」しているのだろうか。

 

自己認識によってその流れに沿って創造するところの「わたし」・・・

 

それはいわゆる創造主の雛形に他ならないだろう。 

 

創造主の個別表現であるところの「あなた」は、そして別の「あなた」である「わたし」は、 

 

いわゆるところの神の子、仏の子であり、 

 

子は様々な経験を経て成長するように、様々な生命経験、人生経験、人格経験をすることで、

 

嬉しく、面白く、ワクワクドキドキするような意識の拡大を図っているのだ。 

 

そのために、この3次元的惑星生命圏にも、数十億以上の意識生命体が次元降下してきているのである。 

・・・

 

そして今その魂達の学び舎はすでに嬉しくも悲しくも飽和し、 

 

リニューアル・・・建て替えの段階が来たのである。 

 

そしてそれが既に音を立てて進行中なのだ。

 

拡大する魂・意識、足踏みする魂・意識、エゴで縮小する魂・意識、様々あれども、

 

それもまた、

 

それぞれの「わたし」たちの経験の道である。  

 

宇宙も世界も滅することはなく、

 

ただ本質的に、嬉しく楽しき創造や気づきのための変化があるのみである。 

 

頭の中に詰まったエゴのおもちゃ概念、意識の目にかけた厚く曇った色眼鏡を外そうか。

 

世間でかしましい肉体護持と快楽追究、 

 

欲得蓄積のための理論や理屈は、もう役に立たない。

・・・

 

過去でも未来でもなく、 

 

常に・・・今、われが在ること、その唯一の事実を・・・深く感じる時である。

 

そしてまた、 

 

根本的に言えば、 

 

あなたの世界には、だた「あなた」しか、 

 

「われ」という主体的意識を持っている者はいないのである。  

 

これは、さらりと頭で知ることではなく、深く感得しなければならないことなのだ。

 

 

それを識(しっ)ている者は、たとえ世界に在っても、世界に従属することなく、 

 

また決して愚かさの濁流に巻き込まれることはない。

 

しかしながら、・・・それもなにも、全てあなた次第なのだ

 

あなたはいったい・・全体・・何者であり、

 

そして何を望むのか・・・

 

 

 

Daruma20


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今は分かれ道

2013-07-15 11:24:53 | 新たなる地平線

今は地球上での一大変化の兆しが明確に顕れてきたようである。

 

明らかに以前とは違う環境となっていることに気付けるだろうか。

 

経済環境、国際環境、国同士、企業同士という人工的な組織の間での軋轢、諍いが表面化しつつあり、そしてまた欲望に駆り立てられている人間達を取り巻く大自然には、今までにない異変が顕在化している。

 

 

今まで、潜在下にあったものが表層に吹き出しつつあるのだ。

 

あるいはいわゆるカルマの表出といっていいかもしれない。

 

 

それはあなたやわたしたち、個々人でも同じことである。

 

・・・

 

昨今頻発度を上げてきたこれらの様々な異変を概括するならば、

 

人類の知覚によって生じている時空環境に、潜在的なエネルギーが満ち満ちてきており、

 

その溢れたエネルギーが人類の想念に色付けされた形で、一気に顕在化する段階にあるということだ。

 

歪んだもの、清浄なものも含め、潜在下にあるものが現実、現象として噴出してくるということであり、 

 

人類はそれらの噴出を、経済、自然界の異変、イレギュラーな社会現象として我々が「知覚」するということなのだ。

 

科学的に敏感な人たちはそれが近来まれな太陽活動によってもたらされていると感じているだろうし、意識的にセンシティブな人々は、それが人類の集合精神の明らかな変化によって生じていると理解しているかもしれない。

 

大切なのは、外の世界が勝手に偶然に変化しているということではなく、外の世界を「知覚している主体」である人間の「意識」の変化であり、

そして巨大な意識体としてのガイア、地球の意識の変化が先行していると喝破することなのだ。

 

・・・  

外の世界、現象世界のほうだけに意識の眼が埋没しているあいだは、あるいは3次元意識、唯物論的自己認識にどっぷり浸かっている間はこれも何が何のことだかわからないだろう。

 

あなたはどうだろうか、何かおかしいと感じてはいないか。

 

しかしながら、これらが意識の変化に基づいたものだということ、

 

決して単なる考え方、比喩などではなく、 

 

意識~意図~想念~エネルギー~現象化・・・の基本プロセスによって生起していることに気付けるはずである。

 

人生でも人類文明でも同じこと、意識や想念、そしてそれを具体化するための潜在エネルギーの変化によって、現実、現象世界が変わってゆくのだ。

 

これを理解できるかどうか・・・、2つに1つの分かれ道である。

 

 

真剣に見詰めるターゲットは、結果である外側ではなく、常に因たる内側なのだ。

 

・・・・

 

昨今はあからさまに天候、気象、地殻等の自然の動きの変化率が増しており、またその変化率とは加速度すなわち力であって、背後には相応のエネルギーが周囲の時空間に増大してきたという事を示している。

 

身近なところでは、昨今の天候は非常に変化が激しく、青空であったと思えば数十分の間にみるみる雲が集積し、

それがあっという間に積乱雲となってその中に稲光が生じ、地上に落雷したり、急激な湿度、温度変化に伴ってビー玉、ゴルフの玉の大きさの雹(ひょう)が降ることも頻繁に生じている。

 

噂される、勝手な気中への物質散布、ケムトレイルやら電磁波集中照射装置であるハープ等のせいだけではない。

 

それらの人工的操作も自然環境変化の一環に組み込まれ、実際ある大きな変動要因に加勢をしているということだ。

 

多分・・・・明らかに「何か」が起きつつあると感じざるを得ず、かつそれらが次第に身近になってきたということだろうし、これはある意味で宇宙、大自然からの目覚ましチャイムが眠っている人々にも届き始めたということなのである。

 

しかし時ここに至っては、それがチャイムといっても耳に心地よいお知らせメロディーの段階を過ぎてしまいっては相当に激しい現象となりつつあるわけだ。 

 

頻繁する異常気象も「目覚ましチャイム」であり、各地の旱魃や洪水もチャイムなのである。

 

「最近はずいぶん洪水や雷や地震が多いよね・・・まあ、気のせいだろうよ」 で済ませることが出来るわけもないであろう。

 

明らかにイレギュラーな諸現象は、決して偶然でも一過性でもなく、大自然からの警告にほかならないと受け取るべきものである。

 

天空の異常現象以外にも、身の回りでの「微妙な波動の異変」を感じ取ることが出来る人々は、何かが大きく変わりつつあることを薄々にでも察知していることだろう。

 

あなたのお住いの地域、あるいは身の回りの人間関係、人々の意識等はどうだろうか。

 

政治経済なども含め、何かが大きく変化しているはずなのだが、それが見えているだろうか。

 

こころの眼でよく観察することが必要であろう。

 

・・・

多くの人々の共通の気がかりはお金にかかわる経済であるかもしれない。

  

例えば、既に世界の金融資本主義は十数年来から飽和の域に達し、あちらこちらでびりびり亀裂が入ってしまい、その亀裂を取り繕う時間稼ぎがもうできない状況になっていることは気づけることだろう。

 

その亀裂の氷山の単なる一角であった2008、リーマンショックも実際には収束などしていないのだ。

 

リーマンショックは終わっても、それを起こした原因そのものは未だ顕在であり、ますます勢いづいている。

 

お金にお金を生ませる金融工学的発明が、結局は急き立てられた物欲の産物であり、過ぎたる欲望に突き動かされて行った過大な投資が、結果、償還、償却されない負債を生んでしまったのだ。

 

難しい話ではなく、要は「利息」という「数パーセントの数字」を焦って操作ミスしたことによって起きたということが言えるだろう。

 

融資、投資の利益である、利息、利率を操作して各国の経済発展の制御をしつつ、投資側に最大限の利益を生ませるような・・・そういう米欧の作り上げたグローバルな仕組みが既に破綻しているということである。

 

盛んに行なわれる世界各国の金融緩和なるものは、要は紙幣を増刷してインフレを起こして、その契約破綻で生じてしまった大きな亀裂を補修しようとする単純な行為であるが、インフレで借財を誤魔化しきれる段階をすでに超えてしまったことに気付かねばならないはずである。

 

資本主義の基本は「契約」であり、金の貸し借りは厳密な「約束」によって、すなわち信用によって裏付けされているわけであり、これを簡単に反故にすることも出来ず、借りを返すことも出来ないからこそ、世界中での危機が次から次へと出てきているのだ。

 

危機のたらい回しである。

 

米国、EU、ギリシア、キプロス、そして今はブラジル、中国へ飛び火している表面上の金融経済危機は、約束期日までにお金が回収できず、また返済できず、流動性が不足してしまうことで起きているのである。

 

まるで世界中が病院となり、血液が不足する病人があちこちに出てきたようなものである。

 

しかしながら、その不足分を政府、中央銀行が、紙幣増刷によって輸血し、いったん小康状態になったとしても、その資金供給にもまた「利息」が付いているわけで、それこそ一時のお金が流入したところで結局は、さらなる借財が増えていることになるわけだ。

 

返済利息が返済利息を生む、負のスパイラル、まるで世界中でサラ金地獄になっているようなものだ。

 

要は、資本主義的な利益増大意欲が歪なまでに増大し、堅実以外に有りようのない実体経済をはるかに超えてしまったということである。

 

そう、資本主義、物質繁栄主義、金融資本主義は、その うちでの小槌たる「利息」によって自らを崩壊の淵に至らしめたのである。

  

資本主義の根幹である「契約」、返済の約束を破れば、すなわち資本主義の土台を根こそぎにしてしまうがゆえの、実にもどかしく苦しい、誤魔化しや嘘の為の嘘で固めた対応しかできていない。

 

実際はもう「見切り千両」の段階、すなわち潔くその金融資本主義を放棄するしかないのである。

 

従って、今の様々な金融、経済危機なるものは、自己崩壊以外に道がない。

 

借金は返済するか、激痛を伴う信用の放棄以外には道がないのだ。

 

ここまで来たら、政府がいくら騒ごうと、民衆を煽って余力金を企業や政府に回収しようと、何の解決にもならないことを知らねばならない。

 

 

戦後の経済成長の一大成功の記憶は、戦前、戦中、戦後の多くの日本人の言うに言えないような苦労の賜物であり、単なる雰囲気作りと、紙幣増刷、外来ファンドの呼び込みを利用するような経済政策で生まれるはずもないのだ。

 

いままで長く続き、それなりの物質栄華を創り上げてきた、いわゆる資本主義は潜在界ではすでに崩壊しているのである。

 

 

嫌々ながらこれらにしがみつき、持続しようとする行為は、そのうち経済危機の国家間のたらい回しに飽きが来た挙句、それ・復興需要創出だとかで、どうでも良いような理由づけによって、どこかの地域をスケープゴートにして攻撃して破壊しようとするだろう。

 

いや、それはもう既にアフリカ・中東等で悲しいかな行われているのだ。

 

そしてアジアでもその下地が愚かしくも作られているではないか。

 

もうこれ以上、何かを獲得すべく彷徨い出でて、外の世界に埋没してはならない。

  

なるほど、これは個々人の魂の通るべき1つの重要なプロセスにもなっている、

 

魂の学習、進化プロセスでの「エゴの放棄」と、まさに相似象のテーマなのだと気づけるだろうか。

 

すなわち、今は人類が3次元的意識レベルを超える、ぎりぎりの瀬戸際にあるのだ。

 

 

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