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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か? (1)人生とは単なる「夢」物語

2015-08-30 22:39:14 | 新たなる地平線

あなたは世界の「夢」を見ているのである。

本来は、それを現実だ、現実だと言って嘆き悲しむことはないにもかかわらず

大勢の人々に巻き込まれ、夢を現実と言って怖れているのだ。

あなたは映画が怖いだろうか?

それを観ている自分から覚めるのに、


生きるの・死ぬのと、

そんなに大騒ぎしている・・・必死の形相の・・映画の中の、夢の中の自分に、

気づいている自分、

「本質のわたしが在る」ことに気付けるだろうか?

本質のわたしは、微笑みながら、いつもただこう観じている・・・

だからそれが、どうしたの?」



・・・


社会とは何か?

世界とは何か?

家族とは何か?

会社とは何か?

そういうことは既にわかっているだろう。

それら全て・・わたし・・の「外側」のことだと感じているから、

人生において、否応でもそれを見て、体験し、観察することになるので、

大体のことはもうすでに、大なり小なり、わかっているものである。


それら外側のこと、わたし・・の外側、

わたしの・・観察対象のことだから、否応なくそれが見えるのだ。

見る、聞く、味わう、嗅ぐ、体での触感、それらで「観察」しているわけである。

気付いていなくても、そういうことなのだ。

もう既に、十分に、知っていることに、気付けるだろう。


それぞれが、あなたや私としている根拠、

別個の個人・・個人として存在しているという感覚を生じている、

この肉体・身体は・・この世界との接点、インターフェースのようなものである。


しかしそれで、ずいぶん悩んだり、怖れたりするものである。

なんという、ろくでもない世界、恐ろしい世界だろうか、

しかしごくたまに、なんという素晴らしい世界だろうかと感じるものだが、

そうは言え、そんなに生易しいものではないとも・・思っている。

知らない顔を装いつつ、多かれ少なかれ皆、共に、そういう風に感じている。

そうだろう?
・・

実際それは・・全く映画を観ているようなものであるし、

TSUTAYAで借りるDVDを見ているようなものだが、それに気づいているだろうか。

そんな簡単に言えるものか?等と思うだろうが、実際はそうなのである。


DVDを借りて、その好きなドラマや時代劇に一時入り込む、

そこには何のリスクもない。

あなたが借りたか、あなたの家族が借りたか、友人に借りたかは問題ではなく、

人は皆、見ることと、聞くことという五感の一部を使って、映画の中に入り込んで楽しんでいる。

DVD、映画は、五感の一部で「観賞」するものなので、それは現実ではなく、仮想のストーリーを楽しんでいると・・・知っている。

だから実際には、恐ろしいとか、怖いとか、嫌だなとか、あー嬉しいなとか、思うものの

そういう感じを楽しんでいる、味わっているということを知っているのだ。

そうだろう?

・・・

人生も、生きることも、全く同じなのだが、映画や小説のそれと違うのは、

ここで人間として生きているということは、

身体の五感の全て・・・、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、そして触感というもの全てを使っているということである。

五感の全てを使って、この世界に自分を投入している、ということである。


ある意味で、実際そうなのだ。

ある意味も、どの意味もなく、「体験」を楽しんでいるということである。

あーあ、厭だよ、マジ・やだ!、どうしてあいつは、どうして人間は、なんで世界は、・・・

多分、そういう風に感じているかもしれないが、

それは単に、あなたの観察対象たる外の世界の「感想」なのである。

リアルなもの、どうしようもないという意味に、真に受けてしまったところの、

この世界を鑑賞している・・あなたの観想なのである。

・・・
本当に・・・気付けるだろうか。

映画は五感の一部を使った臨場感であるが、

人生や生活は、五感の全てを使った臨場感なのであれば、

五感の全てを使った「存在感」であるわけで、それを越えるような尺度や視点がなければ、

これはもう、

そこに、ほぼ完全に・・はまり込んでしまっている・・という、ことになるわけである。

周りの人々がそうだから、尚更である。


実際に言うならば、地球という世界物語に入り込んでしまった、

ネバーエンディングストーリーの主人公なのである。

気付かぬ限り、自らで、永遠に繰り返しの転生をし乍ら、

それを知っていない・・かも知れない、

この地球という物語に入り込んだ、宇宙でただひとり・・

そう、人はものすごく大勢いるが、

それぞれが、唯ひとりの・・いや、たった一人ではなく、唯ひとりの「わたし」という主人公である。

それは厳かに言う必要もなく、もったいぶった重々しい雰囲気も、神々しい演技もいらない、

神・・なのである。


そう、神であるがゆえに、木になり、岩になり、空気になり、

動物であり、花であり、水であり、光であり、

そして人間であり、

それにしても、生活を担ぎ、ローンを抱え、人間関係に悩み、

こころの置きどころもないまま、毎日を送っているとことろ、

この世界の住人にもなるのだ。

気付かず知らずとは、なんということだろうか。

そう、神であるがゆえに、木になり、岩になり、空気になり、

動物であり、花であり、水であり、光であり、

そして人間であり、

それらの・・・あなたの目にするもの全てが、あなたの中にいる者たちなのだ。

外の世界とは、外ではなく、事実あなたの中にあるのである。

・・・

人生や、生きていることは、実際そういうことなのだが、

外側の時空という物質波動の作る、立体映像空間の中の大勢の人々が、

実際それは別バージョンの私たちなのだが、

彼らが笑い、泣き、騒ぎまくる、その必死の形相や、難しげな自己演技を見るにつけ、

ついつい、それが真実だと思い込み、

あー、なんという事だ!・・いったい何なんだ?この世界はどうしたのだ?

・・と、

そういう混乱を取り込んで、そこにまた問題意識が躍り出て、

それでまたそれを解決すべく、入り込んでいくというわけである。

でも、実際は全てあなたの、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る・・・その全ては

実は外の世界などではなく、

それらすべてを見て感じて、観察している・・・あなたの中にあることなのである。

わたしがいなければ、わたしは世界を感じることはなく、

あなたがいなければ、あなたの世界を感じることはなく、

そういう大勢の「わたし」がいなければ、世界などどこにも存在しないのだ!


あなたの世界、その中に、

どうでもよい価値観や、小豆の競争観念、小さい尺度や、

尤もらしく聞き知った常識という手詰まり観念を持ちこみ続けることで、

嘘八百で華やかな観念世界を体験し続ける道理。

既に時代は、あらゆる嘘や騙しがバレバレで、あぶりだされてきたではないか。


嘘は確かに暴けば面白いが、なるほどもう十分ではないか。

小さな自分に、小さな他人達に、

あーだこうだと騙され続けることで、本質の自分を忘れ続け、

それが嫌さに小さな肉体の人として眠り続けることが出来たこの次元世界、

ここはあなたやわたしが、選んで自らを投入してきた世界、

嫌な事、嬉しい事、あらゆる遊び道具がそろっていた。

それらを、あなたの中に、こころの中に見ることができるではないか。

見ることで、観ることで、あーそうだったね・・と過ぎ去ってゆくのである。

それを見ないで、外の誰かを非難しては、溜飲を下げる愚かさを、

いつも同じところにいる自分を、すでに知っているだろう。

・・・

そして、大勢の魂の仲間が同じように目覚めてきているこの世界、

他の誰が、目覚めなくとも、あなたが目覚めれば、その見える世界が変わるという意味が、

すでにどこかわかるだろう。

外で見える形は、つまり自己の投影像であり、良いとか悪いとか、多いとか少ないとか、

何億円だとか、ゼロ円だとか、価値があるとか、無いとか、太っているとか、可愛いくないとか・・・、

そういう嘘でも花やかな、本当は重い観念尺度を、

一切合財棄て去ることで観える世界が、今、立ち現われているのである。

しかしながら、えー、何々・・どこに?ではなく、

あなたとは関係がないということではなく、

単なるそう思うだけの気休めのことでもなく、

すぐに忘れて、元の世界にまたその身を沈めることでもない。

そうだろう?

「そうはいっても、現実が・・・」という、こころ癖は子供の時に教わったかもしれないが、

それはもともとあるはずもない「観念」なのである。


あなたは世界の「夢」を見ているのである。

本来は、それを現実だ、現実だと言って嘆き悲しむことはないにもかかわらず、

大勢の人々に巻き込まれ、夢を現実と言って怖れているのだ。

あなたは映画が怖いだろうか、それを観ている自分から覚めるのに、

生きるの・死ぬのと、

そんなに大騒ぎしている映画の中の、夢の中の自分に、

気づいている「本質のわたしが在る」ことを悟れるだろうか?



外の世界と見ゆるものは、実際・・あなた・・という意識の中にある全てである。

あらゆる全ては・・外ではなく、わたしの中にあるものであり、


それを、「愛する」という言葉以外に、どういう表現をするのだ!





本日も拙い記事をご覧いただき、誠に有難うございました。





・・・



続)宇宙は多次元体

2013-08-28 08:51:23 | 新たなる地平線

意識が無数に個別化し、あらゆる次元階層を通じてから自らを認識する働きを「魂」と言って良いだろう。

 

自らの意識に・・・気付いているという事が・・・人間という存在まで進化した、あなたやわたし達の存在意義なのだ。

 

だから人間の「本質」のことを「魂」とも呼んでいる。

 

ひ・と・つ・・・の意識が多次元層へ展開し、

 

あるいはその中の副次的階層の全てに発せられた光・・・

 

光というのは、全てを明らかにする、未知が既知になる、霊的理解が拡大するということの象徴である。

 

すなわち創造の根源光、

 

あらゆる波動をその内部に畳み込んでいる『個別化されたの普遍意識』のことを・・・「魂」と言っていいだろう。

 

また、魂の中の無制限の波動が・・即ち多次元層を展開させるのは、多次元宇宙と同じ仕組みである。

 

古くから伝承される、人間の肉体・・エーテル体・・・アストラル体・・・コーザル体・・等と言われる複数の霊的ボディは、その魂顕現の多次元層を意味しているようでもある。

 

その霊的ボディなるものも、当然ながら物理的機器で観測できるのは肉体及び、電磁波動的放射を帯びるところのオーラフィールドのみである。

 

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そして、その魂(本質)の可能性、波動の多様性を順次開示、展開してゆくプロセスこそが、魂の進化と言われているものだ。

 

・・・それは、たしかに「神の分け御霊」という表現がふさわしく、また意識的生命はその根源である全包容的意識への大いなる帰還の道にある「旅人」という表現もなるほどうなずけることだろう。

・・・

また、あらゆる諸物、生命と言えども、何の意味もなく偶然にそこにあるわけもなく、全てにそれなりのレベル意識があるわけだし、 

全ての生命は、鉱物・植物・動物・そして人間、またいわゆる宇宙的存在、さらに大きな可能性を体現している存在へと・・・進化をしている、段階の異なる同朋だということに気付けるだろうか。

 

月や太陽の運行、宇宙の表情、地球の生態系、様々な生命の表現が、単なる偶然の組み合わせでしかないとする視点、あるいはそこに完全な調和を観ることの出来ない存在は、未だ十分に人間レベルの経験をしていない霊的幼児であるというのは言い過ぎではあるまい。

 

全ての生命は・・すべての我々につながっている「意識」なのであれば、どうしてその他の意識生命体をないがしろにし、あまつさえ闘いを起こしたり、他の生命を勝手に簒奪したりすることが出来るのであろうか。

  

そういう者達は、要は自己が何をしているのか皆目わからない、また死んだら終わりの物質生命であると思っているからこその好き勝手し放題なのである。

  

無茶苦茶な好き勝手し放題、なるほどこれは窮極のプラグマティズム・現実利益主義、功利主義という観念とも言えるだろうか。

 

ところが、どこか欧米の自慢するこういう功利主義が、肥大した利己主義と結合した世界は、すぐにでも終わってしまう運命になるのである。

 

何故ならば、・・・そこでは自我の欲得のみが主流となってしまい

自然や宇宙との調和や共生というものが眼中にないからであり、

宇宙・大自然との亀裂や軋轢を呼び寄せてしまうのだ。

 

・・・そう、これはもう今起きていることではないか?

 

そして、その先にある道程には、自己本位の観念のやむに止まれぬ爆発と崩壊以外にないことは簡単に理解できるであろう。

 

でも結局それは自己創造の原則上にあることなのだ。

 

自らの不調和が・・・他の不調和を呼び寄せ、

 

他への批判が・・・自らへの批判と批難を作り出し、

 

自我の主張が・・・他の自我の主張とぶつかり合い、

 

他から奪うことが・・・自他の奪い合いの修羅となるのは、

 

・・・誰でも分るはずではないか。

・・・・ 

意識においてすべてが・・もとは・・ひとつ・・であることを、頭の知識でなくハートで知ること、またハートで知るという事は、頭や論理ではなく、それはまさしくそうだと意識全体で感じることを意味している。

  

ハートを通じて・・・腑に落ちる・・という事である。

  

なるほど、それこそが・・その部分こそが、克服されなければならない3次元的自己の無明なる部分、今の段階においてどうしても気づかなければならない・・・魂・意識の重要テーマなのだと言えるだろう。

  

全てが兄弟姉妹というのは、単なるセンチメンタルで理想的な感情言葉ではなく、

 

事実のことを云っているのである。

・・・ 

 

翻って、今我々の意識の眼はどういうポジション、どういう視座にあるだろうかということを自省する必要があるだろう。

 

自己が大いなる道を歩んでいる「魂・意識」であることに気付くか、

 

分けもわからず、他者をも不幸や不都合に巻き込んで、あるいは巻き込まれてしまうような、単なる小さな肉体存在であることに甘んずるか、

 

その意識レベルのボーダーラインが、今の人類世界にはっきりと現れているという事である。

 

・・・

大きくは、そのボーダーラインは人類が窮極の物質的破壊エネルギーを手に入れた時点から既に現れていたのだ。 

 

そう、核の話である。 これを簡単に考えてはならない。  

こと核に関することは、経済効果やらパワーポリティクスやら、民族主義や安全保障やらの利己主義的思考次元では到底扱うことが出来ないのものなのである。

  

またそれは、それを扱うところの意識レベルの問題であるからこそ、世界の雛形とも言われるこの日本が背負っている問題なのである。

 

その要の日本が間違ってしまうと、世界は救いようがなくなることは、火をみるより明らかではないか。 

 

日本が世界の雛形であるという意味は、その日本列島の地形が世界の大陸との相似形として現れているということだけではなく、地球上に起きる現象の雛形でもあるということだ。

 

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日本における福島原発の放射能汚染の終止せざる現実は、今の世界を暗示しているではないか。

 

まともに扱えない代物を持ちつつ、それが安全だというあからさまな嘘を見よ。

 

本来ならば、全力を挙げてこれを解消せざるを得ない立場の者たちが、さも自分とは関係がないかのような顔をして、

おのれたちの欲得のパフォーマンスに、喜々として終始している様を見るならば、

すでにこの国の戦後システムもその虚飾性が明らかになってしまったこともわかるのである。

なるほど確かに戦後レジームの崩壊でもある。

 

事は、何もできない者達がさも訳ありそうに、知的能力や人徳が高そうに「宣伝」することで、律儀でまた他者依存性の高い民衆を操り、その「投資」をおのれたちに『回収』しようとする行為のみが席巻している社会の有様、支配の有様だけではない。

 

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・・・

要は、全ては「投資」と「宣伝」と利益の「回収」という・・・世間で言われるところの金融資本主義的な思考が元であると言えるだろう。

 

 

こと人間社会、国家間等の複雑怪奇さは、このような視点でのみ明確に解ってくるものである。

  

誰が、何が・・・利益を欲しがっているのか?  実に単純な論理 なのである。

 

政治も行政も企業も、メディアも教育も、大なり小なりその欲得の威力創出に特化したような歪んだ観念体系の中にすっぽりと入ってしまっているのだ。

  

そして、その観念の大本にあるのは、自己が単なる有機生物、銭金物を喰っては排出するだけの肉体存在でしかないという漠然とした集合観念なのである。

 

ある意味でいわゆる社会上層が・・・必死で頑張り、徹底的に自己主張し、我欲を張ってのしあがることが良いことだとする根の思考・・・・その思考を生み出すレベルに終止する魂達の独壇場となってしまったからには、

 

その『興ざめ』の社会的、国家的、世界的お遊戯会は終わりになってしまうのである。 

 

 

全てが一方的になってしまい、また多様化が失われた世界となり、魂的な経験と昇華の幅が小さくなってしまえば、なるほど魂達が下生する意味を失ってしまうという表現は妥当であろうか。

 

つまり生命の生存と多様性が失われるということである。

 

1970年代に発表されたローマクラブの言をまたずとも、このまま何もなければ、そういう事になると察しはついていることだろう。

 

しかしながら、あらゆる全てが意識的生命体であるからには、生命の進化にそぐわないものはこの宇宙には生起するはずもないのだ。

 

なるほど、心有る者たちはそれを知っているがゆえに、今か今かと・・・見ているはずなのだ。

 

この世界は決して終わることはないが、そこに作られた、既に歪きった感のある現有システムはもう終わっているのである。

 

・・・

 

将棋でいうならば既に勝負はつき、投了までの淡々とした形作りの段階であり、

 

株式ならば、既に相場のエネルギーが枯渇し、一気に崩落する寸前であり、

 

病気の快復ならば、最期の歪が急発熱となって現れて、症状が急激に回復する寸前であり、

 

重い物質が押され続け、それが摩擦力以上の力になった時に急に動き出す直前のようなものである。

 

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(余興・・・・・分る人にとっては、これはすでに詰んでいるという事)

・・・・  

全世界を破滅に導くような、この自分たちの生存舞台を破壊するような「核」や「波動兵器」を持った人類は、おバカにもそれを使って自らの魂の学習を放棄してしまうか、 

 

別の自己であるところの・・・他者を、威嚇し破壊する最終最後の愚かさを演じてしまうのか、

  

あるいはそういう最終段階の物質的パワーの誘惑を乗り越えて、破滅や破壊ではなく・・・一段次元の高い新たな創造の道に進むか・・・・そういう抜き差しならない時期に来ているのである。

 

これは、例えばまっとうな?宇宙チャネリング・・で云われるところの、第3密度の文明から・・・第4密度の文明への移行という事に相当するだろう。

 

このシフト、移行は地球の膨大な意識的歴史の一大ターニングポイントであり、その中に住まう意識体、生命体は、・・・生と死を問わず・・・必ず通過しなければならないものだと思われる。 

  

多分、これは人命だけを尊重するなどという、人類生存だけの自己都合などは通用しない<シフト>になるだろうし、より大きな意識的観点からでしか観えない<移行>になるはずである。 

  

例えで云えば、我々が淡々と通過してきた進学での卒業式のような、 

 

しかしながら完全なる自由意思と自己昇華を伴った魂達の重要通過点、そういう一大移行時期が来ているということだ。 

 

なるほど、自己が単なる物質的肉体ではなく、時代や時空を超えて在る『魂』であるという自己認識に至るならば、

 

そして、魂レベルの自己の進化や開花のプロセスに気付けるならば、怖れを抱くことなくこの理由が分るのである。

 

またなぜ古い世界が終わりを告げているのかが、わかるはずなのである。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 

 


宇宙は多次元体

2013-08-25 10:40:02 | 新たなる地平線

宇宙は多次元構造体という話が科学では当たり前になりつつある。

 

その中の様々な生命形態も実は多次元体なのであるということだ。

 

え?マジ・・・であるが、理論物理の先端ではそういう事になっているようである。

 

多次元構造・・・?  それは、遠くに見える1つのビルディングが実は何階層かに分かれているのと似ているかもしれない。

 

その1つの階層、例えば1階の人は普段は2階の有様に気付くことはない。

 

2階、3階にどんなテナントが入っているのか薄々知っていたとしても、実際に何が行われているのか知る由もないのである。

 

要はその階層面にいる存在は一般的に下や上の階層は見ることも聞くこともできないということである。

 

また1つの階層から上に行くためには、歩くなり走るなり、エレベータで代用するなり、エネルギーが増加しなければならないわけだ。

 

普通の物理的解釈では、階層が上になるという事は、重力による位置エネルギーが高くなるということなのだが、これを相似象的に考えれば、次元間には何らかのエネルギー順位のような、何か明らかな違いがあるということを示している。

 

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これと同じく、宇宙が多次元であるという事から、この地球も多次元構造をしているという事が想起され得るだろう。

理論物理の最先端とも言われる「ひも理論」は、要は素粒子のさらに窮極の微粒子のようなものが振動する「ひも」のようなものとして、その振動率の違いによってn次元的世界階層が生じるという理論と考えていいだろう。

 

要は、全ての元は、エネルギーの振動、波動であるというわけだ。

・・・

 

また、ヘミシンクでは地球を取り巻く階層のことを複数のフォーカスレベルと言っている。

 

そのフォーカスレベルという階層の中に、昔から言われる天国や地獄なども含まれているのである。

 

それは誰にとっても通過する、あるいは歪んだ想念によって引っ掛かるところの、地球周囲の多次元世界とも言えるものである。

 

この今の3次元的リアリティの世界にいるという事は、そういう多次元世界の往来を行なっている結果であるという事を示しているのだが、

その記憶はこの次元特有の波動の荒さ、情報の粗さによって、それが意識表面まで浮かび上がっていない場合が多いということだ。

 

要は忘れているということだ。

 

何せ多くの人々は、この世界の小さな常識観念ばかりが正しいと思い込んでいるわけだから、その自己認識によってそういう小さいだけの自らの存在感を醸し出しているのである。

 

あまつさえ、常識人?にとっては宇宙には生命が存在するのは地球だけのようでもある。

 

なるほど、この次元は、自己認識、自己創造に・・自らで気付かない意識レベルの魂の・・修行場であったとも言えるわけである。

・・・

 

振動・波動という事になれば、電磁波でもわかるように、その振動・周波数の違いによって複数の階層を設定することが可能となり、その一定の周波数範囲の中の波動表現によって、一定の完全に見える世界が描けることになるのである。

 

例えば、3チャンネルTVの映像、音声はある一定の周波数の範囲で伝搬、再生される電磁波によって生成されている。

 

3チャンネル、4チャンネル、・・12チャンネル等の違いは、単なる電磁波の周波数帯域の違いだけなのだ。

 

そして人はそのチャンネルを自由に切り替えてその階層別の映像や音声を楽しんでいるということである。

 

このチャンネルの切り替えは、チューニング・同調という機能で行われる。

 

そう、電磁波に限って言えば、周波数の切り替え、これは実際に行われていることだ。

 

・・・・

 

波動、周波数の中での階層構造による様々なチャンネルの生成は、

 

TV・ラジオ・携帯端末での電磁波のみならず、それ以外の様々な波動によって異なる周波数世界が現出するという基本モデルと考えることが出来だろう。

 

確かに、物理学等で真剣に考えられているn次元的世界も、つまり波動理論での世界顕現の数学的説明の探究なのである。

  

 

つまるところは、全ての存在は『波動』によって顕現しているということであり、また波動には周波数という不可分の属性があり、その「周波数」によって様々な階層、周波数帯域が創生されているという事を示している。

 

そして、その周波数帯域への「同調」、チューニングによってその階層世界を経験することが出来るという事である。

 

・・・・

 

そして気付けるように、 

 

そういう世界の様相を探究している主体なるものは、 

 

人間の『意識』に他ならない。

 

ここが肝心要なところであろうか。 

 

意識ある存在でなければ、何が何だか存在すらも感知などできるわけもなく、もともとが『』なのである。

 

意識がなければ・・すべてはいわゆる『無』なのである。 

 

意識がなければ、全てはもともと「無」であり、今も、未来も、過去も「無」なのだ。 

 

また元々、「無」なのか「有」なのかそれすらもあるわけもない。  

 

意識』という言葉で表されるものは、全ての創造の原点にあるもの・・という意味だ。 

 

意識には1個、2個、30個などはなく、ただそれ、ひとつというか全てというか、それだけ・・というか分解分離もできるわけもない 

 

・・・源、原点である。

  

 

だからその『窮極の意識』なるものを昔から「神」とか「創造主」というのだ。

  

どこか遠く、あるいは最高次元に鎮座する、ここ以外の何か・・・ではなく、

  

今、ここ、そして・・・あなた、わたし・・・という「意識」がそれであるということだ。

 

只、今は、その無限の可能性に気付いた段階にあるという事であり、わたし達がそのまま神であるという事ではないために、神の子というのである。

  

・・・・ 

あなたが『今在る』という・・自意識・・気付きは、

 

実に、いわば「」から「」への不可思議で奇跡的な宇宙創造をまざまざと自己証明しているのである。

 

そこにある・・・・この当たり前の事実を感じること。

 

というか、在るがままに気付くことである。

 

逆に、実にその障りになっているのが・・・世俗的で常識的な、様々な強迫観念を含んだ社会通念、あるいは歪んだ想念なのである。

 

特別で物的な効果や成果、刺激等を期待するような、悲しいこころのパターンがある場合は、なかなかそれに気が付かないものである。

  

だから昔の人々、賢者と言われる存在達は・・・・こころを無にするという表現をするところの「空なる境地」を求めたのである。

 

自省や瞑想、座禅やマントラなどという意識的行為によって、様々な惑わす想念を静寂の中に滅することに努めてきたのである。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 

 


今起きていること(2)

2013-08-24 12:24:32 | 新たなる地平線

これから起きること、と言っても別に予言をするでもなく、全てわかっているわけでもないのだが、あらゆる現象の背後にある一定のパターンを読み取ることで、事の本質をどこか察知することは可能なのである。

 

例えば、昔現代国語という授業で、ここに書かれている文章の「主題」は何かという問題に対して、その答えを見出すようなものである。  

 

国語の回答は単なる教科書の文言中からの主題の抽出であるが、人生や社会、世界の中からそういうテーマというか事の本質を見出すのも、それほど難しいことでもないかもしれない。 

 

例えば世界の出来事を知らせる報道やニュース映像、ネット情報等の普通の表現の裏にある実に微妙な意図や宣伝、あるいは洗脳情報と言った事がらにもしっかり気付いていることで明らかになるかも知れない。 

 

外側から無償で来る情報、勧誘、お誘い、それらのほとんどは、その外側の利益に供するものであることは知っていよう。 

 

簡単に言えば、一生懸命に宣伝していることは、即ちその宣伝側の利益の為なのだという事である。 

 

現状の人間社会においては、あらゆるところに、この自己宣伝・自己利益誘導パターンが行き渡ってしまったわけで、例えばTVラジオでは当たり前の宣伝、コマーシャルであるが、 

 

要は、情報にもお金をかけて、投資して、その情報によって人を動かして利益誘導し回収するということが、世界全般で当たり前になっているという事である。 

 

肝心な点は、単なるビジネス、企業活動のみならず、社会行政、国家運営においても、法の縛りを除く部分ではそれが、当たり前になっているということである。 

 

だから今その邪魔な法の縛りさえも外そうとしているのだが、気づいているだろうか。 

 

オー、マイ、ゴッド! 

 

なるほどこれは、宣伝、投資と回収という、資本主義としては当たり前の行為であり、ただちに嘘と断定されるような愚を避ければ、なんとでも虚飾することが出来るわけである。 

 

要するに、宣伝あるいはパフォーマンスとは・・・そこにいかに過大な価値があるように見せるか、いかに真実があるように虚飾するかということである。 

 

従って、そういう世界に氾濫する情報の類は全部とは言わず、多くが特定の集団、組織、団体あるいは個人の投資行為であり、また期待される利益回収のためのものである。 

 

・・・・

 

最近クローズアップされている様々な政治経済の動きは、TPP、軍事増強、増税、福島原発事故の状況等、全てがそこから来ているのである。 

 

要は、一般民衆、諸国民の為のパフォーマンスではないという事なのだ。 

 

我々がどこか理想的にイメージしている、あるいはそうあるはずだという公共福祉、国民の為の国民による政府や政治だという幻想、事ここに及んでは、実に様々な人間や組織のドロドロの思惑の「利益誘導行為」であるということがわかるはずである。 

 

古き・・そしてどこか良き時代は・・・すでに終わっているのである。 

 

TV、ラジオ、新聞、ネットニュース・・・本来そういうものは観察すべきものであり、そこに真実があると思ってはならない類のものである。 

 

自己のこころ模様の微妙な影や襞を観ることが出来るならば、そういう外側の世界の背面にある闇の部分も理解できるはずなのだ。 

 

そういう、真実よりも宣伝を事実として架空に提示するような活動を観るにつけ、ある意味でそれがバレバレになった時代に至り、

 

資本主義でも代表されるような、自己利益、自己存続に特化したような、そういう時代は既に終わったという事が分るだろう。  

 

そう、古いそれは、今音を立てて崩れているのであるが、その耳障りな崩壊音、それがわかる人にはどこかすべてが悪くなっていると感じるものである。

 

・・・・

以上は、これからの消えゆくところの社会情勢を観るうえで1つの重要な観点であるはずだ。

 

 

決して全てとは言えないが、世界の宣伝される活動の多くが、自己利益のための宣伝、投資そして回収というパターンに成り下がってしまったということ。

  

そういう行き過ぎた自己存続や自己主張が、行き着くところまで行けば、そういう者同士が最初は水面下でそして表立って戦いを始め、結局は相互消滅に至ることにもなるだろう。

 

 

・・・ 

 

例えば、福島原発の状況経過はどうであろうか? 

 

どこかの偉い人?が約2年前に収束宣言をしたのだが、そういう一時の心理的効果以外は、さらにどんどん悪くなっているようではないか。 そして、そういう情報は公でははっきり宣伝がなされないのである。 

 

宣伝・喧伝、情報開示されないから・・・それは無いのだということになっているかもしれないが、それは実際に在るということに・・・・嫌でも応でも自らで気づかなければならない。

  

こういう事が実にあらゆる所にあるという事、これが最も重要な混乱する世界の背後状況である。 

 

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 (この写真は宣伝と実際の出来事を如実に示すものだろう。)

 

 

他者宣伝あるいは洗脳などというものからでなく、自己で認識すべしという・・・根本的な霊的ステージの一大テーマである。 

 

それは各自で・・独自で自己認識、感得するべきものなのだ。 

 

そして世界はそういう霊的な気付きの問題の真っただ中にあり、そして、またそれはもう足早に過ぎ去ろうともしているのである。 

 

西洋の諺にいわく、幸運の女神には・・・後ろ髪はないということだ。 

 

・・・

 

例えば、福島原発に関して、未だに放射能漏れが続いているということは、 

 

以前の収束宣言、あれも虚飾の類であり、国民を鎮めようというお為ごかしの発言であるが、それはギリギリ崖っぷちに立っている人々に対して、安心をさせようとして?、安全だからどんどん歩け・・と言っているようなものである。 

 

おいおい、人々を安心させて崖下に転落させようとするのか? ということだ。

 

あるいはそれに対して、有名大学や有名企業にはどんなことでもできそうな権威や技術がありそうで、実はほとんどないという現状はどういうことだ。 

 

往夫にして学者は頭だけの世界に閉じこもりつつ、何か偉そうな権威を張りつつ、尊敬されて豊かな生活の維持に固執し、企業は生き残りのためだけの自己利益活動に邁進しているだけではなかろうか。 

 

福島原発の周囲に、出来れば濾過装置、空調付のシールド防護壁さえも建築しようとしないのは、お金か技術的な不足が故なのか・・・・費用対効果を見誤った計算によっているのだろうか。 

 

つまり、どうしようもないことにお金や知恵は使えないという事なのか。また政府が乗りだせば政府が責任者として追及される状況証拠をつくるとでも恐れているのか。 

 

あるいは起きた事故をめったにない研究事例として放置するつもりなのか。 

 

 

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・・・

 

今、事故が起きた原発で何をやっているかと言えば・・・、水で永遠に冷却しようとしているだけだと聞く。

 

それも高度で最先端の技術ではなく、真面目な作業員の働きに依存しているという。

 

当時の経営者連中は全て責任取って?(笑)、外国に逃げたとも言われている。

 

それでは毎日何百トンの汚染水が出るのは当然だし、その放射能汚染を浄化する技術も今はそこにはない。日本のどこかにそういう技術はあっても、それを採用しよう、何でもやってみようという英知やまた真剣な意図もないのであろう。 

 

従って、何十兆ベクレル、といってもなかなかピンと来ないが、次第に次第に太平洋、大気圏へと拡散しているということだが、目に見えないということで無いものにしたいという幼児的希望で誤魔化しているのだろうか。

 

これは他人事にするようで、また言い過ぎかもしれないが、自らのカルマを他者に押し付け、あまつさえそれを直視せず、先延ばしにしている停滞する魂たちの特徴ではないだろうか。

 

そのうち、世界に拡散した放射能による生命の棄損が学術的に証明され、ある時点で宣伝され、数多くの他国の子供達や自然という生態系への悪影響の補償を要求されたら、一巻の終わりである。

 

それもまた、ゆすりたかりの材料に化けもするのだ。・・・だから逃げたくもなるだろう、そういう事である。 

 

頃合いを見計らって、多分に、・・・世界中から訴訟の嵐で攻め込まれるかもしれない。 

 

現在起きている様々な人為的行為による地球生態系への影響を証明する煩雑さに比べれば、ある時からの放射能の影響を検証するのは比較的容易であろう。 

 

そうなれば、ことは一電力会社のせいだけに済ませることなどできるわけもなく、それを推奨した政府や支持政党、ひいては主権者と言われる国民全員のつけに回されることは火を見ないでも明らかだろう。 

 

第1次、第2次大戦後のあのドイツの戦後賠償の比ではないはずである。 

 

話しはそれるが、国民の1400兆円とも言われる金融資産を、ほぼ使い切ってしまった感がある日本国債の負債残高1000兆円の比でもないだろう。それらも・・・いつの間にか宣伝・喧伝に乗せられて積み上がった・・・・『国民の負債』と言われている?のであるが、あなたはその負債の自覚があるだろうか? 

 

いいや、あるはずもないだろう。あなたが決めて債権を購入しているわけでもないからだ。 

 

そうではあっても、銀行に預けるとか、保険に掛けるとか、あるいはそういう間接的なものではあっても、直接民主制でない場合は・・・間接的に国民が行っている事・・・そういう事になるのである。 

 

知っていただろうか? 

 

同じように、B層とか言われるどこか律儀で、真面目で人を信じやすい大勢の人たちの『つけ』を、いつの間にか作ってくれている者たちがいるということは、もういい加減に気づいて良いころである。 

 

政治であろうが経済であろうが、精神の輝きのない単なる物質的な組織ならば、それが時が経つにつれて腐ってゆくことは良く知っているはずである。 

 

今の時期にそういう事実に気付くという事は、それらがもう終わっているという事に気付くという事なのだ。

 

銭・金・財物で事を終始することなどできない世界になっているということ。 

 

それでも、なんとか・・がんばれ・・・の時代は過ぎているのである。 

  

 

あの大東亜戦争の終戦日のような、古い観念の全てを手放さなければならない時期がもうじき来るはずである。

 

・・・・  

核の話にもどるが、 

 

悪意満面の核爆弾に2度まで洗礼され、その核を廃絶するという原動力たりうべき唯一の国のはずが、逆に自ら呼び込んだ第3の核によって荒廃するなんぞは、実にどんなに愚かなことであろうか。

 

こと『核』に関するものの選択を誤れば、確実にそのつけがまわってくるだろうし、その時こそ全ての終わりの終わりとなるのだ。  

 

 

実のところ全ては・・・、今までの物質繁栄至上主義のその観念のなせる業(わざ)である。 

 

そして、そのカルマ・・・業(ごう)が出てきているということだ。 

 

そのことに否応なく気づける者たちが増加するということは、逆に救いでもありまた深い意味がある。 

 

世界のあちこちに生起している悲惨で愚かで、無知蒙昧極まりない事象も、・・・現れるべくして現れているのであって、これを回避し続け、気づかぬふりをし続け、他者や他国を責めてばかりいる組織、集団、国家等は、 

 

カルマの刈り取りもままならぬまま、再び寄せては返す波のような、そんな荒い繰り返しの世界に在り続けるのも仕方のないことなのであろう。 

 

カルマとは身から出た錆、あるいは克服すべき霊的テーマ、魂の重要なステップでもあるのだ。

 

宿題はを回避し、何か別にありそうな理由を掲げて無駄をするよりも、また他人の汚れたふんどしを洗う行為よりも、自己のマインドの中でおのれ自身を潔く洗ってしまう事である。

 

苦しいからと言って、決して下手な理屈や物質的財貨で補われるものではない。 

 

今そこにある見えつつある新しい世界は、あなたや私たち一人ひとりの中で、今までの古き価値観念をいったんすべて捨てなければ見えることもないかもしれない。

 

なるほど、その手から一旦捨てなければ、新しいものはつかむことが出来ないのが道理である。 

 

また捨てて、つかむものとは・・・、決して銭金財物ではなく、新しき嬉しき、喜ばしき、愛深き自らの想いのことである。

 

・・・・ 

 

自我、自己都合からでなく、より大きな大きな枠組みから観るならば、

 

今から起きる、そして起きている様々な事象は、1人1人のこころの浄化、清浄化を促す為の切なる宇宙の願いからなのかもしれない。 

 

そうであれば、どうして自らのこころの浄化する努力をしないでおけようか。 

 

意識ある人々の世界の原点は・・・・その人々以外になく、それぞれの観照する世界は同時に存在しているように見えるが、それは独立した原点が集合しているだけのことであり、相互干渉はないのであることに気付いていよう。 

 

外からの宣伝・喧伝と、それを鵜呑みにする幼き想念こそがその干渉を生み出すのである。

  

想いや価値観で自ら縛られない限り、絡みまくった濁流に無意識的に巻き込まれることもありはしない。 

 

人々は誘いに応じて眠り続けてレミングの群れになるか、そうでないかの選択能力、意識的意識を有しているのである。 

 

だからこそ、・・・それぞれが宇宙の共同創造者という事なのだ。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


今起きていること

2013-08-22 19:03:44 | 新たなる地平線

今急激に世界では様々なことが起きているが、世界で起きる物事、人間社会の全ての現象は、

 

人間達の「想い」の結果であることを知っていることだろう。

 

地球上で生起する様々な出来事、歴史等は、

 

地球という巨大な意識体の表現、そしてその中に生きてあるすべての意識、生命、それらの生態系、

 

およびその舞台で演じる存在達の起こす出来事、自己意識を有する人間の想念、言葉、行為という創造エネルギーとの複合創造の結果なのであるが、

 

人間が知覚する範囲で生起する物事の最も大きな要因は、なにあろう人間の『想念形』なのである。

 

そして、狭いか広いかは別として、それぞれのあなたの知覚する範囲の全ては、あなたの想念形投影である。 

 

その人の知覚する、つまり見る・聞く・匂う・味わう・触るところの範囲が創造責任範囲とも言えるのだ。

 

人の前に生起する事象、その元に在るのは・・・どういう風に感じるか、どう思うかという固まった想い、定在波と化した想念が、基本ベースにあるということなのだ。

 

その想いや価値観念等の、その質的なものに相応する事象が・・・自己にかかわる世界に生起するとも言えるだろうし、

またことは想いの本質に関与しているため、すぐにそのことが理解できない場合が多いのも事実であろう。

 

多分に日常に起きるの不都合な事象も、自分の環境の問題も、そして夢で見るものさえもどこか釈然としないこともあるだろう。

  

しかしながら、それらは全て想いで蒔いた種が出てきたという事なのである。

  

・・・

 

至極簡単な例なのだが、 

 

トイレに行くのも、買い物をするのも、何をどうしたいのも、何をしないのも・・・

 

何かに怒るのも、隠微にそれを隠すのも・・・

 

その存在自身の自身の『想い』からであり、本質的に言えば誰かの命令でも洗脳でもなんでもないわけだ。

 

政治だろうが、経済だろうが、お茶飲み会だろうが、会社の命令も本来はあまり関係がない。

  

どれが重く、それが軽いという事でもない。

  

人間関係をうまくこなすのも、喧嘩をするのも、人付き合いを避けるのも・・・全て『自分』で決めている事実に気付けるだろう。 

 

とはいえ、国や社会の規則はどうなんだ・・・強制的ではないか?と言っても、

 

それに従うのも反発するのも、全て自分の想いによっているのではないか。 

 

教えられたようにとか、大勢の流れに沿った方が無難だとか、あるいはそういう風にすべきだとかという観念で動いていることが多いだろうが、

 

それなりに判断し計算しているのは・・・誰あろう・・それぞれの<わたし>なのだ。

 

多くの人の想いが、まーそんなものだから仕方がない・・・と思っているのであれば、そういう事がだれも責任取れない形でおきてくるのだ。 

 

社会は誰かの所有物ではなく、個々人の意識の、価値観の、想いの集合でしかないからだ。

 

 

それでもそれを解ろうとすることもなく、誰か他の責任にしてしまうくぐもった想念を、一体全体どうするのであろうか。

・・・

翻って、間違いもなく、それぞれの人間においては、それぞれの人間が主人公であり、

 

狭いか広いかは別として、それぞれのあなたの知覚するその範囲の全ては、あなたの想念形の投影であるということは知っていなけれならない。

 

想念形の中の様々な質的要素が、そういう質に共鳴する事象や現象を呼び寄せるということ。

 

余計なお世話なのだが、・・実は・・・そういう事なのだ。

 

意図・想念によってエネルギーが形を現してゆくという事実、

 

それは只・今でも、・・生きてる間も、それを終えて転生をするフェーズでも同様である。

 

あなたや私の生き様、あるいは死に様を・・・誰か、何かのせいにできるわけはないという事である。

  

そういう意味では、今までの世界全般にわたる巨悪の陰謀暴きも、それはそれとして知る必要はあるものの、それにまたぞろ感情的に捉われては実際問題うまくないだろう。

 

嘆いても、批判してもそれだけで心を浄化することにはならない。

 

肝心なのは、誰が何を言おうと、強制しようと、宣伝しようと、それをどうするかは、・・・

 

それぞれの『意識』における『意図」によっているということである。

  

よく言われるように、信じるも信じないも、採用するもしないも、自由なのである。

 

それが”意識的”存在である『人間』の定義であるとも言えるだろう。 

 

・・・

今までは、そういう人間の本当の自由意思、想念によっていかようにもなる・・

 

そういう事実が隠ぺいされていた、覆いを掛けられていた、あるいは気づいていなかったということである。

 

これこそが最大のディスクロージャーである。

 

世にいう、支配層の陰謀、歴史の捏造、暗い組織の策謀、政治の中の権謀などは2次的なものでもあるだろう。

 

また、UFOがいるとかいないとか、そんなことをいわゆる偉い人が暴露して、何とか人類の意識が進化するような時期は過ぎたのではないかとも思われる。

  

なるほど、

 

あらゆるものが・・・既に・・・わかる人には分るようになっているのである。

 

・・・・ 

 

人間は単なる知的生物であって、その知力は動物と比べかなり高度であっても、それは頭の中の抽象的な思考に過ぎない・・・等という風に思い込んでいたのではないか。

 

仕方がないことだが、たしかに学校ではそんな風な感じで受け取ったはずである。

 

思考やイメージ、強い想いがあっても、想いや感情など頭の中の抽象概念に過ぎない等と、こころの底で『そういう風に信じ込んでいる』がゆえに、想念は例えば単なる抽象的なアイデアとしての位置づけしか与えられていなかったのである。

 

そう・・そこにも「想念」の創造力がしっかり働いているのだ。

 

So be it ! (なるように・・なっている) のである。

 

要は、想念をダイナミックな『イメージ原動力』としてではなく、単なる『抽象思考』として抑え込んでいたということである。 

 

・・・・

 

何を言っているのか意味不明の人もいるかもしれないし、

 

このサイトでは、おバカな繰り返しのように、「想いを観る」ことの必要性を示してきたのだが、想いこそが創造の原動力であるならば・・・その重要性は当然のことだと気づけるだろう。

 

あなたの世界、知覚する出来事、経験に誘う方向づけ、それらはあなた自身の発する想念が元になっているのであれば、どうしてこの「想念」をチェックしないでおけようか。

 

またどうして「想念」を愉快で楽しく、清純に保たないでおけようか。

  

また生起する物事が「想い」によって強烈に色づけられるならば、

  

どうしてあらゆるものに感謝の念を発散しないでいられようか。

 

・・・

事は非常に単純である。 

 

全ての人は、意識的な意識を駆使できる存在であるからには、そういう『意識の方向づけ』によって自らの進む先を切り開いているということを心底知る必要があるのである。

 

今までの漠然とした自己認識、そして意識的存在としての自由意思・意図から生じる、想念のパワー、それぞれが完全にオリジナルで不可侵な「想念」「思考」という言わば創造のパワーに気付かなった時代のことを、

 

スピリチュアル?な表現では、いわゆる3次元世界あるいは第3密度の世界と言っているのだ。

 

想いや精神でなく、縦横高さの空間にある動く物質形態・・・そういう3次元的観念でこうちくされる世界のことだ。

  

・・・

 

しかしながら、嬉しい悲しい、気づく気づかないは別にして、それらは既に過ぎ去ったのである。 

 

舞台、あるいはベースバンドである地球という存在周波数帯域は、その帯域を一段と高い位置に変えつつある。

 

そして、そのベースバンドでは、想念が相当にダイレクトに顕現することになる。 

 

いわゆる次元上昇、アセンションの時代なのである。 

 

201X年にかけて時間が短縮するという仮説、タイムウエーブゼロ理論などもそういう事でもある。

 

時間短縮や同期現象、シンクロニシティ等、ひょっとしてあなたもそれをどこかで感じてはいないだろうか。

  

想いや感情という想念形が事象として、短時間で顕れるという事も言えるだろう。

 

・・・・

従って、今現在その結果である世界の様相は、気象異常、地殻変動、経済崩壊、政治の急進、国家同士の軋轢増大、あるいは悪意と陰謀等があちらこちらで急激に巻き起こっているのである。

 

それはカルマの放出、あるいは想念形の歪の解消、悪感情の噴出となって現れているのである。

 

社会、国家レベルでも、そして個人レベルでもそれが起きているのである。 

 

たまりにたまったひずみは強烈ではあるが、それらは現れては消えてゆく残照なのである。

 

 

今の時代とは、近宇宙、地球の波動域の移行に伴って、今まで隠された社会的歪あるいはカルマと言われる個々の歪が、非常に表に出やすいことになっており、逆にこの歪の放出こそが古い時代から新しい時代への移行の前に通過しなければならない領域であろう。

 

歪や汚れは当然だがしっかりと落とさなけれなならないという事である。

 ・・・・ 

自己をみつめることの出来る人々は、それが理解可能であろうか。

 

自ら湧き出でる想念はそれに決して捉われるべきものではなく、

 

それを監察しそして有用に使い切るのが、我々意識的意識を有する存在としての、

 

そう、責任と栄誉なのである。 

 

それぞれにとって最も身近で、最も重要なものは自らの「想い」なのだ。

 

 

そしてその「思い」は・・・全宇宙を満たして在る全包容的『意識』から生ずることに静かに気付いているはずである。

 

また、その想念という原動力を、どういう風に嬉しく楽しく、より豊かなものにするかは、

 

それぞれが自由な意図によって、責任をもって行うべきことであるわけだ。

  

そして今はもう、

 

創造する自己の立ち位置に気付く方向と、

 

何かに盲従する意識レベルに甘んじる方向の、

  

その・・・分かれ道に来ているのである。

 

未だその道が見えていないのであれば、

 

 

この次第に増加する騒然たる世界の有様をも、

  

未だに観えていないという事かも知れない。

 

 

 

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。