このシリーズ記事をご覧の方には理解されているかもしれないが、
たとえば、「夢」とは何かと言えば、肉体の休止している間の意識体験ということができる。
日常の肉体・五感体験と同じく、それも「魂」レベルでの経験なのである。
変性意識での覚りや、ふとした重大な気づき、画期的な霊感、インスピレーションもそうである。
それは例え一時、瞬時ではあっても拡大された意識レベルでの経験ということができる。
テレパシー等も変性意識というか、拡大された意識ベースで可能な当たり前のコミュニケーション。
それをそうと・・・認識していないのは、
ただ全くか、少しだけか、それに対する気づきのレベルの問題でしかない。
意識レベルの話だ。
気付きやアイデア、インスピレーション、そして明日を生み出すイマジネーション
それらが・・・・物・・金・・・からやってくると思うのだろうか?
いや、いや、そんなわけあるはずもない。
宇宙が偶然存在し、
物質が分子が、原子が偶然に運動しつつ、行き当たりばったりで高度な生命体が生まれてくるのか?
それがあなたやわたしなのか・・・?
考え方は面白いが、すべて偶然ではそれから先の話が見えないではないか。
アインシュタインも言ったように、神はサイコロ博打はしない。
・・・
それよりも愚かしきはこの国の有り様ではないか。
ここまで為政者の精神レベルが堕ちるのを先人は予想しただろうか。(笑)
無理やり仕組まれたような今の世相、
騙す方も問題だが、見抜けず騙されてあとで不平をいう者のほうが始末が悪くはないのだろうか。
株が上がった下がった、滑ったころんだ提灯だ・・・。
そういう何ものかの提供するような、面白恐ろしきシナリオに一喜一憂している人もいるかもしれないが、
肉体の一時の刺激や快楽よりも、魂の長い道を見た方が良いのではないだろうか。
この世界、結局は、人は何も持たず生まれ来て、何も持たずに去る定めなのだが、
それとも、いつの間にか変わったのだろうか?
そんなにお金や地位や自己生存欲に執着していては、それこそ闇夜に提灯さえも消えてしまうことになるだろう。
なるほど、今は、確かに古い時代の、最終最後のドタバタ劇であろう。
そういう類の物事から何か新しい世界が出てくるわけはなかろうし、
自己改革以外は己の意識を広げること、魂の進むべき道を前へ歩くことはできない。
人間世界のあらゆる物事は、物・銭・金だけで事足りるわけではない。
艱難辛苦をものともせず、転生を繰り返し、幾多のサイクルを通じて醸成される悟りへの階段、
神の社(やしろ)に詣でるがごとくの、1つ1つの人生、転生
いにしえよりの幾多の存在達の喜怒哀楽の足跡、
神々しい悟りや覚醒、あるいは洗脳や常識固定観念からの解脱努力は・・・
それこそ単なる・・・ 「夢」 だというのだろうか。
なるほど、ここに25800年で訪れるサイクルの、その分かれ道があるようである。
・・・・・
魂の経験は、単に肉体、物質という粗い振動レベルだけではなく、多次元レベルにまで繋がっている。
その多次元というのは何か意識を度外視した、純粋な別の物理時空ということではなく、
なじみのある今のような物理的存在形態をその1部に含みつつ、
より拡大された存在形態というか、表現世界というか、そういう意識存在レベルのことだと言えようか。
意識~意図、想念~エネルギー~・・・そして生じるところの顕現、表現が基本なのである。
その多次元意識への移行や意識次元の上下、気づきの範囲の縮小と拡大を可能とするのは、
・・・意識と意図である。
世界に偶然に起きることは何もない。
あなたの経験上に生起する物事は、あなたの意識と意図に沿ったものであり、
地球の大自然に起きていることは、地球という惑星生命形態の意識と意図によっている。
宇宙という無限の有限世界は、大宇宙という多次元時空を生起するところの意識と意図によっている。
意識という無限の「空」(くう)は、様々なレベルの生命体の自由な発想、意図をそこに生じさせるための、
無限の顕現母体・・・、
あらゆる可能性の、
あらゆる波動の、
あらゆる想念の、
あらゆるエネルギーの、
あらゆる顕現形態のベースなのである。
それは、何物かという「特定」の物ではなく、
また逆に、何物でもあるという普遍性を有する・・・それ、
だから「空」(くう)と呼ぶにふさわしいのだ。
空である「意識」と、それを表現形に持ち来たらす想い・・意図という根源の光、
それが何を生み出しているのかといえば、
どうして宇宙があるのか、
どうしてあなたや私たちはここに生きているのかといえば、
そう、・・・「無条件の愛」・・思いやり、慈しみが故なのだ。
「愛があれば何もいらないさ 」とか、何かのドラマでよく言われることであり、
愛をテーマにした歌や小説も多いが、
これらも、男と女という最も分りやすい切り口や題材を使っているのだが、
要は、もっとも大切な根源的真実の断片を直感的に表したものである。
愛がすべて・・・とは・・・その通りである。
ただし、当然ながら、それは一般の個人的な情愛とは全く異なる、似て非なるものであり、
霊的幼児の遊び道具、自我の虚栄像である「エゴ」とは似ても似つかぬものである。
今まではそのエゴの繁栄した「蜃気楼」の世界なのだ。
自他への<無条件>の思いやり・・・それを愛といえばいい、
そうであるからこそ、
あなたが生まれ、子供が生まれ、山があり川があり、花が咲く、
愛があるからこそ、
太陽が無条件にエネルギーと光を供給し、
そう、・・・愛があるからこそ、
多くの鉱物、植物、動物がこの地上に現れ出でたのだ。
そして様々な人類の文化文明の花が咲き、そして散ってゆく。
そういう学び舎において季節はめぐり、
光の現れである様々な生命たちは経験を積み重ね、
いずれあなたも大いなる意識へと拡大してゆくのだ。
さりげない無条件の愛、思いやり、理解、そして慈しみ、
常に誤解をはらむかのようなこれらの言葉、
「無条件の愛」、創造の根源意図、実は・・・宇宙最強のエネルギー、
どうか、あなたは、身近なところと、自然の中、至るところすべて・・・。、
そして見晴るかす天空をも自己の視野に抱き、
これを・・・ゆっくり、じっくり感じてみよう。
それが今のこの時、この瞬間の喫緊のテーマである。
実のところ、常に時はあって、無きがごとしなのだから。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
記事を出すようになって、なんとすでに500回を超えていることに気づきました。
1週間に1回とすれば実に10年近くやっているわけで、
メジャーにもならず、よくまあ、勝手ながらも続けられてきたものだと思います。
これも月並みですが、ご覧いただいている方がおられることが、
本当に有難いことだと感謝しております。