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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

こころの浄化 (2)浄化は今、この瞬間

2011-07-31 12:02:07 | 覚醒意識

我思う、ゆえに、我あり」 ということは、

 

同じ意味の異なる表現をすれば、意識の根本的な自己認識作用を言うところの、

 

 I am that I am. 」 、

 

私は、わたしである・・ところのものである、という事が出来る。

 

これは抽象的な哲学、あるいは形而上的な言葉表現ではなく、我々の「今」の存在原理を示しているのだ。

 

今とは現在、過去、未来のどれかというものではなく、それらすべての元にある、永遠の「今」のことであり、意識的存在である人間の、最も身近で、肉体細胞すべてに浸透し、それそのものである「今」のことである。

 

「今」のこの瞬間の連続こそが、過去の記憶となり、未来への可能性となっていることに当然ながら気づくことだろう。

 

人生というものを過去の記憶であると捉えることも間違いであるし、片手落ちのようなものである。

 

また人は常に未来に向かっているという捉え方も間違いであるし、片手落ちなのだ。

 

なぜならば、今という瞬間から、意識が逸れているからである。

 

すべては、「今」しかないのだ。

 

この非常に単純な気づきを深く理解すればいい。

 

今という瞬間は、人のイメージでは、無限小とも無限大とも捉えられるだろうし、瞬間とは、容積も、広がりも、時間という量も存在しない。

 

科学的に言わなければならない場合は、「無限小」の時間量、あるいは時間量子のようなものかもしれない。

 

しかしながら、今・・・、

 

広がりでもなく、経過でもない「今」を深く意識すべきである。

 

あらゆる形態変化、生命表現、存在の諸相も、すべて「今」があればこそ展開できるのである。

 

我々の毎日は、その「今」の瞬間から限りなく湧出するところの、連続コマ送りの立体映画のようなものであると言えば、それほど外れてはいないだろう。

 

人は皆、そんなこと当たり前であると思うかもしれないけれど、その「今」を深く感じようとしたことは有るだろうか?

 

多分そうではないはずである。

 

常に未来はこうなる、こうしなければ、こうあるべきだ・・という理想を掲げて生きてきたか、あるいは、過去の残像に思いを寄せて生きてきたか、多分そのようなものであったはずではないだろうか。

 

若い人も年配者も、常に今の瞬間に有りながら、足早に、忙しげに通り過ぎてはいないだろうか。

 

若い時は未来の可能性を信じ努力を重ね、年老いては人生の履歴を振り返って、その過去という重みを財産としてきたのかもしれない。

 

そうやって大勢の人々が、生れては逝きながら、文明、文化を創り上げてきたのは事実であるが、そこには大きなミスマッチ、忘れ物、あるいは誤解があったことにも気づくだろうか。

 

そう・・、今のこの瞬間・・から遠ざけられてきたという現実である。

 

人は、 「我思う、ゆえに我あり」 という言葉の通り、「意識的な意識」を有する存在であるが、その意識的な意識によって、「今」の瞬間に気づくことが出来る存在でもあるのだ。

 

我々は、過去に生きているわけでも、未来に生きているわけでもない。

 

常に、今生きている。・・・と思っている、気づいている・・存在である。

 

それは、思い、そして思考や感情という「意識の働き」によって気づくことができるのだ。

 

謂わば、人間特有の「想念」によって、今という、全てを生み出し続ける、変化し続ける「瞬間」に気づくことが出来るのだ。

 

・・・

それそのものが、全てであるところの、無限の可能性を湧出し続けるところの、「」とは・・・、

有って無きのような、あるいはそれは「空」(くう)とも言えるだろうか。

 

「今」とは「空」(くう)であるがゆえに、全てを含むことが出来るのも、また自然のことである。

 

その空(くう)から現われ続けるのが、人間においては「想い」である。

 

空(くう)から、「今」の現実世界のような現象化への橋渡しをするのが、あなたの「想い」であることに気づけるだろうか。

 

あなたがいなければ「世界」は無いというのは、一面の真実である。

 

あなたの世界は、あなたの「自己認識作用」あるいは「想い」によって造られ続けているのが真相なのだ。

 

権威ある人はそれを単に『唯心論』として、議論する世界に引きずり込んで終わりにしようとするだろうが、大きな間違いであることは、それが「自分」でしか証明しえないところにある。

 

こころの法則として、こころの使い方を教示する多くの教えや、書物も出ているのだが、今一ぴんとこない人も多いだろう。

 ・・・・

例えば、こういう事ではないか。

「私はお金持ちになりたい」と「想っている」が、決して私はお金持ちではない。

想う事がどうして出てこないのだろうか、従って想いが現実化するなど嘘に違いない。」

・・・・従って、想いが自分の人生を決めているなど嘘にきまっている。

 

極めて論理的である。

ところが、実際にお金持ちの人に聞いてみると、

「そう、私は確かに今お金持ちですよ」 と言うだろう。

それも事実である。

 ・・・

何が違うのだろうか?

 

「今、私はそうだ」と、あなたが想っている・・・ことと、「今、私はそうでない」と想っていることの「違い」であることに気づけるだろうか。

 

それは、想いが足りないからだとか、真剣に想っていないからだという希望的取りなしのようなものでもない。

 

想いは量で量れない、謂わば高次元の波動といえるだろう。

 

しかし、あなたは実際に頭の周囲という感覚であれ、想いを感じることが出来るのだ。

 

・・・・

誰にも解り易い、ある意味下世話な話、お金持ちになる・ならないの例だが、

 

今それが事実である、真実である・・」と想っていることが、既に「出ている」ことなのである。

それを制御しようとする行為がマインドコントロールであり、それは、「共通現実」を不特定他者の「好都合」な方に向ける為の単に高度な技術である。

 ・・・・

未来への希望や期待は、常に未来というスクリーンへの投影で有りつづけるしかなく、それは逆に、今の瞬間を永遠に取り逃がす意識的行為のことである。

 

現象は、常に「今」この瞬間にしか顕れようがないではないか

 

今あなたが「事実である」 「真実である」と想っていることが、即ち今、この瞬間に出ていることなのだ。

 

これが人類という、そしてわたしやあなた達という、大勢の意識的意識を有する存在達の根本的有り方と言えよう。

 

「我思う、ゆえに、我あり」

  

「 I am that I am. 」

 

 

あなたの想いこそが、既にそこに、そのまま結実しているのがあなたの世界であり、それが集まって似たようなことを信じ込んでいることで結実しているのが、「共通現実」という、我々のこの世界なのである。

 

・・・・

今までの文明がどこか大いに堕落しているという意味は、

 

無限の可能性を意識の作用によって、自ら体現しているはずの人間達が、

 

結果、現象である外の世界の要素、即ち物質を最大限採掘・加工することで、

 

様々な二次加工品を創り上げ、それを身の回りに置くことで、

 

それを進化や進歩だと信じ込んでいたというところにある。

 

それらが、絶対的に必要なもの、即ちあたかも神のようなものとして信じ込んできた有様が、既に身の回り、社会、世界に溢れている現状を見るべきだろう。

 

・・・

人為的な創造物は依存すべき神のようなものではなく、単なるツールである。

 

自らの外郭形態・肉体自体を損なうツールを、どうして掴んでいたいのだろうか。

 

それは、

 

自らにある無限性に未だ気づかぬが故に、何かにすがっていたい・・というだけのことである。

 

我々人類において、霊的幼児達は、いわゆる現実世界で偉いと言われる人々、権力周囲にいる人々に極めて多いようである。

  

それらが世界に溢れてきたように見える昨今は、既にこの地球という学び舎、学習形態の最後に来ているということなのだろう。

 

例えれば、映画に慣れない観客は、いつまでも楽しい映画が続いてほしいと、観客席に居続けるかもしれないが、そういうわけにはいかないのだ。

 

まず1つには、この3次元的な時間・空間映画の興業主である、この地球という舞台がもたないところに来ているからである。

 

我々は、物質への執着を外し、過去の人為加工の想念群を、その意識の中から注意深く捨て去らなければならない時期にある。

 

その為には、それぞれの中にある様々な想いを自らで観じ、その意味合いを汲み取り、いつの間にか歪んでしまった色々な「こころ模様」という織物をきれいに洗い流さねばならないのだ。

 

今はもう、血走らせた眼を外の世界に投射する時ではないはずだ。

 

共通現実というこの世界の映画を映し出すところの、それぞれのあなたやわたし達のこころ、想い、そして付随する感情を、洗い出し、そして洗い流す時である。

 

想いは精妙で最強の波動であり、それは我々の行く末さえも「今」決めている。

 

今までもそうであるし、これからもそうである。

今、あなた自身に戻りたまえ・・!

 

・・・・・

 

毎日、毎瞬、ふと気づける時には、自らの想いを第3者的な意識のスタンスで、ただ「観る」ことが肝要である。

 

浄化の場合には、ポジティブ、ネガティブという判断さえも余計であり、

 

何かを加工しようと思わず、こころのあるがままを維持することが大切である。

 

そうすれば、様々な想いが相当に意識の中を去来していることに気づくだろう。

 

そのどれかの想いによって知らず知らず、常に行動させられていることにも気づくはずである。

 

虚栄心、体の欲求、ねたみ、自己保身、他者依存、そしていつの間にか常にある「恐れ」・・・・

 

それらが膿のように出てくるかもしれないが、それは正当な道なのだ。

 

今の時間とはその為のようなものではないか。

 

それらを『観る』ことが出来るならば、それは即ち、闇に光が点(さ)したという事なのだ。

 

闇と光、それらは決して抽象的な比喩ではなく、意識的存在であるそれぞれのわたしの、今生における極めて高尚な宿題なのだと思わないか?

  

そして「今」、がその時である。

・・・・

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こころの浄化 (1)自らの想念に気づくべし

2011-07-23 09:25:25 | 覚醒意識

我々は皆「こころ」をもっている。

 

こころとは「意識の高度な働き」である。

 

こころを構成する要素は、一般に想念ともいうし、思考と、感情とに色分けされてもいる。

 

想念とは、一般に「頭」に生ずる見えない思いのように考えられているだろう。

 

朝起きてから夜寝るまで、生活や、仕事、人付き合い等において、様々でめまぐるしい「思い」があなたの頭に去来していることだろう。

 

しかし、それは個々の人間の内面に生ずる「なにか」として、特に注視、注意されていないのが現状であろう。

 

想念、すなわち思い、思考、イメージは物理的に肉眼で見えないし、他人にも見えないがゆえに、不思議と実体のない、あるいは役に立たないものとして捨てられているかもしれない。

 

忙しく、あるいは暇に毎日を過ごしていても、あなたの意識の注視する先は、いつも自分の想いなどではなく、外の出来事、有様のほうに向いているに違いない。

 

あるいは昨今は眼の前に有るインターネットの情報に向いているだろうか。

 

多くの人々においては、出会う人間達、出来事の報告・ニュース、自分の行動の有様等、起きた現象のほうに意識が向いており、その背後でめまぐるしく生起している、自分自身の意識の働き、即ち様々な「こころ」の反応に、どれだけ気づいていることだろうか?

 

自分自身の源流を見ずして、遠くの支流ばかりを見ているようなものであり、あるいは人や社会の顔色ばかりを見ているようなものであり、それを見ている、あるいは感じている、観察している「当の」自分を忘れているということだ。

 

我思う・・ゆえに我あり

 

昔、ルネ・デカルトが表した重要な気づきは、いつの間にかどこに消えたのだろうか。

 

精神活動があるが故にこそ、人が存在しているという極めて重要な、当たり前の存在原理すらをも忘れているのかもしれない。

 

あなたはどうだろうか?

 

・・・・・

そんなことより、飯を食うのが先である・・・金が無いと何を言っても始まらない・・・状態なのかもしれない。

確かに、そのような刹那的な「思い」が、幅を利かせているような今の社会、世界情勢は、すでに相当なレベルまで堕落していると言ってもいい。

 

人々は、時代とともに人類は順調に進化、発達していると思っているのだろうか?

 

発達したのは、物質を製品として加工し、人間の身体をより快適により安楽にするための方法論とその機械的仕組みである。そしてその為の膨大な知識でしかないのではないか。

 

逆に、それは人間を肉体に縛り付け、意識の働きが無くても、こころの働きがどうであってもいい様な、安易な方向に大きく傾いて、そのまま進んでしまったようではないか。

 

生活に必要な物資を換算するための共通する価値観、「お金」の持てる量によって、その安楽さと快適さがいかようにも得られる仕組みになっているわけである。

 

しかしほとんど誰も、それによって「こころの平和」は得られていないではないか。

 

その逆に、それを得るために、借りを返すために、あたかも奴隷のような毎日を送らざるを得ない・・多分、そんなことにはまっていはしないだろうか。

 

大勢の人々の最大多数の最大幸福をもたらすという自由な人間活動という「思想」の周囲にあった、貨幣の最大利用という仕組みは、

 

本来人類にあってしかるべきの、まずそのままで生きていることの楽しさを、あろうことか奪ってしまったのではないだろうか。

 

我々は、本来ここに生れて、そして生きているだけで、まず、それが嬉しく楽しいことであるにも拘らず、それが不精だとか、怠惰であるとか、創作能力の無駄遣いであるとか、頭が良いとか悪いとか、あるいは何かを成し遂げなければ生きる資格は無いとか・・・、等という様々なもっともらしい「強迫観念」が植え付けられたのではないか。

 

人生終えるまでには、気づくべきことではないのか。

 

地球という生態系全体の為に・・、林立するビル群や大気を切り裂いて進む航空機や、ばい煙や汚染物質を大気や海に垂れ流しする工場が必要であるとでも言うのだろうか。

 

いいや違う。

 

行き過ぎたそれらの人為は、我々が生きてゆくべき、この地球生態系自体を明らかに「壊している」のだ。

 

その最たるものは、原子兵器や原発等であろうか。

 

自ら後始末のできない放射性物質を濃縮して創り上げ、それで一時の経済効果をせしめ、あとは野となれ山となれという有様は、少なくとも地球という生態系、いわゆるガイアという意識生命体にとっては、まさに百害あって一利なしである。

 

例えひいき目にみても、人類にとっては一利あっても99害の行為であろう。

 

濃縮された放射性物質は、その「崩壊」エネルギーによってあらゆる生命を死に至らしめるものであることは明白であり、そうであればこそ、それをすぐにも廃棄しなければ、生態系からの強烈な揺り戻しが必然として起こるだろう。

 

地球は巨大な生命、意識体であるからには、その生命維持のためにあらゆる現象が起きてくるのは明白であろう。

 

例えば、あなたが、誰かにひどいことをされたとした場合には、自らの維持のために、やはり同じことをするだろう。

 

警告を発し、それを無効にするように働きかけるか、どうしようもなければ、あるいはそこから立ち去るかのいずれかであろう。

 

全ての生命は、それ自体をまず維持する機能があり、また生命を昇華する、進化する方向にあることに気づけば、それが真っ当な反応であることが解るだろう。

 

それとも、人は機械であり、また自然は偶然の産物であり、無目的な物質粒子のランダムな集まりであるとでも考えているのだろうか。

 

 

ここは重要なこころの分岐点である

 

もう、

 

目先の一利のために制御の利かない物質を作り出すのをやめ、

 

大切な人生をお金の集団亡者で過ごすのをやめ、

 

亡者同士のカルマを造るばかりの争いをやめ、

 

他者の顔色ばかり見るような、支配の使役人をやめようか。

 

 

わたし自身の人生に戻る「時」である。

 

他人がどうであれ、あなた自身の人生に戻る時である。

 

そうでなければ、このままいきつく先は明白ではないのか。

 

天網恢恢・・疎にしてもらさず。

 

それとも、どうしても「物質」という教材の中に埋もれたままでいたいのか。

 

しかしながら、

  

物質という意識の為の表現形態は、自らも進化をすべく他に奉仕しているのであり、決して人間だけの身勝手な甘えを許さないだろう。

 

必然的に、その大好きな物質の中に埋められることになるかもしれない。そうして再び物質の中から目覚めるのだろうか。

 

それもこれも、人に関わる世界でのあらゆる出来事は、人の意識の働き、即ち思い、すなわち「こころ」によって起きるものである。

 

仮に、こころが無ければ、我々は単なる肉体機構、有機的物質体でしかない。

 

例えば、プログラム、ソフトのないパソコンや携帯端末のごとしであり、通信も画像表示も何も出来ない、機能的にがらんどうの単なる物体であろう。

 

人間も同じようなものであり、こころを度外視して生きてゆこうとする有様は、まことに異常なことなのである。

 

こころ自体が「眼に」見えない、「人にも」見えない・・ということで、単なる個人的なものであるとして、あまり意味のないものとして、重要視していないのであれば、それはかなり幼い魂の表現と言っても言い過ぎではないだろう。

 

例えば、内面のプログラムが充実していないパソコンやipadなどなんの価値もないではないか。

 

人間においてはプログラムの充実とは精神の大きさ深さを意味しており、古くから言われてきた、精神の拡大と向上のことである。

 

・・・

こころ、精神を変えずば、その投影たる現象は変わり様がなく、

 

そのこころの描くシナリオでの結末を見ることが出来るほどの、

 

自らの「こころ」の観察が絶対的に必要な時なのである。

 

まず、自分自身の「こころ」、想念に気づかなければならないのだ。

 

もし、あなたが自らの、こころの働き、想念に気づいていることが出来るならば、自らの周囲の出来事の「ソース」根源であることに気づくだろう。

 

分けの解らないものに突き動かされることも、無意識の汚れた流れに巻き込まれることも無くなることだろう。

そこにあるのが、不動の「こころ」の平安である。

 

それは、いつでもどこでも、それぞれの わたしの中に あるのだ。

 

 

 

つづく。

Earth1

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ハイアーセルフ (5) 鳥に籠は似合わない

2011-07-08 11:09:21 | 覚醒意識

拡大された意識体験、その様な特典を享受した人々、あるいは探求する人々、あるいは霊的進化を理解する人々が増えてくれば、この世界自体の周波数帯域が拡大、上昇してゆくのである。

  

あるいはインディオやアボリジニなどの古くから続く民族のような、そして多くのあなた方のような、人生の艱難辛苦を耐え忍びながらも、こころが澄んでくるような、強靭な成長を遂げるような人生を送ることが出来る人々が増えてくれば、この世界自体の周波数帯域がさらに拡大、上昇してゆくのである。

 

そのような拡大された意識周波数帯域での顕現生命としての「肉体」は、意識体の本来備わる、肉体より上階層のボディの顕現形態で賄うことになるだろう。

 

単純に言えば霊化された肉体、あるいは霊的ボディ等と言えるのかもしれない。

 

しかしながら、どの階層、どの意識レベルであろうと、わたしは在る。

 

ある意味で、部分から次第に全体を観ることができる意識の「視座」は、魂の表現形態は、決して今眼にしている3次元的肉体だけではないということである。

 

昨今はそのような、物質主体的3次元を超えるような内体験をした人々が増えてきているのも事実であるし、それを拡散するための書籍類も急激に増えてきていることがわかる。

 

そのようないわば拡大された多次元的な意識体験をした場合には、普段の現実であると信じ込んでいる、常識とされる、あるいは皆同じようだとされる「共通現実」のほうが、幻想のように感じられるのだ。

 

なぜならば、わたしは在る・・意識そのものが時空に縛られない経験をするからには、わたしはより高いより広い存在であるということが実感できるからだ。

 

ありふれた五感による情報に基づかない意識的体験といえども、それは観念ではなく、事実であることが分かるのであり、頭であーだ・こうだと悩むこともない。

 

霊的事実は、思考の介在しないレベルでの、意識的な体験によって知覚されるものであり、

 

それ」はまさしく「それ」なのである。

 

観念の介在しない、まことの直覚的知覚には議論の余地がない。

 

内面がたまたま、あるいは必然的に清浄な?クリアーなある瞬間に起きる意識的体験は、確実に内面の気づきと意識的成長を促すものであり、自らの接する外面・世界はそれに従って変質を遂げることもわかってくる。

 

外面が変質を遂げるといえども、大勢の作り上げる物理的な「共通現実」が、そのまま一大変化を遂げるものではないだろう。

 

例えば、人一人が悟れば、世界の文明が一挙に高度な宇宙文明になるというようなおとぎ話ではない事だけは自明であろう。

 

世界の物理的な変化が、例えばあなた一人の意識によって変わるということではなく、あなたと、世界という「共通現実」との関係が質的に変わるということである。

 

不浄と思えたものが、美しさをひきたたせる必要な脇役であると解り(わかり)、

 

悪と思えたものが、必要な成長のための肥やしであると解り、

 

どこか洗脳・誘導されていた夢遊病的集団行動が、

全自由であることを知るためのいわば訓練であることが解り、

 

孤独であると思えたことが、共感と愛を感じるための反面教師であると解り、

  

物欲、色欲で右往左往する愚かな有様が、

それを超える途上で七転八倒している成長途上の意識体の有様であることが解るのだ。

  

・・それを二元性の「見切り」と言っていいかもしれない。

 

またそれはどこか、武道での間合いの読み、見切りはそれに似ているかもしれない。

 

見切りが起きれば、その状況は越えたことを意味するのであり、 その対象への攻撃や批判や小言は消え去り、 ただ単にそれを見守る眼差しが残るのだ。

  

そう、

 

まこと理解が起これば、どこに恐怖があるだろうか。

 

まこと理解が起これば、どこに逃げる必要があるだろうか。

 

まこと理解が起これば、何にしがみつき依存する必要があるだろうか。

 

まこと理解が起これば、蔑み、非難攻撃をしなければならない敵がどこにいるのだろうか。

  

 

人間の偏向された価値観を、そのこころから外せば、「あるがまま」はそれだけで素晴らしく、尊いことであることもまた当たり前のこととなるはずだ。

 

今までの我々は、どこか、あるがままを見る目を持たず、それが故にこそ、その神々しい輝きに対して、人工的な観念を覆いかぶせてきたのかもしれない。

 

自己自身、身の回り、宇宙、自然の「あるがまま」の中にはとんでもない奇跡が充満していることが推察できるだろう。

 

ひとたび大いなる理解が起きるならば、その在り方は、高い位置から地上を俯瞰し、あるいはまた地上に舞い降りることのできる「鳥」のようでもある。

 

カゴメの歌にある、籠の鳥は、自らの自由を極限し、自らの檻を設定している「飛べない鳥」を意味しているが、

 

本来は時空に縛られない「鳥」であることも知っていることを如実に示しているのだ。

 

・・・・・・・・・・・

かごめ、かごめ~

籠のなかの鳥は・・

いついつ出やる~

夜明けの晩に、

鶴と亀がすーべった

後ろの正面・・・だあれ?

 

色々な意味を含んでいる深遠な日本古来の伝承歌であるが、

 

後ろの正面にいるのは、大いなるあなた自身であり、

 

自らを籠の鳥に自己同化して今は悦に入っている、

 

それを体験している自分自身を高所から観ている、あなたを見ている「高次のあなた」・・である。

 

あなたは、本当は既に籠の外にいる「あなた」に気づいているはずである・・・と言っているようだ。

 

多くの人が、自らをか弱い肉体存在であると思い込んでいた有様は、

  

自らを卑小な物質肉体に自己同化し、何かになる・・ことで、様々な可能性を体験している、神なるもののひとつの小さな視点の体験と考えていいだろう。

Ryobu_01

  

ハイアーセルフとは・・・、

  

何かになった結果である今のあなたの常に背後にいる、 あるいは「あなた」を直視しているところの、

 

今のあなたを含む、常により大きな「あなた」のことである。

 

また、ハイアーセルフとは・・・、

 

決して消えることのない「あなた」自身であり、 どこに有っても、それを常に思い出させる働きを有する、本質の「あなた」のことであると言ってもいいかもしれない。

 

ある時は道を示すガイドであり、ある時は理解を促す教師である。

  

しかしながら、より大きなあなた自身であることに違いはないことを忘れないでおこう。

  

心地よい低次元での眠りも、物質形態への自己同化も、それが十分過ぎる、行き過ぎる時に、

 

目覚めの働きとしても確実に顕れるのが、それぞれの高次のわたし・ハイアーセルフである。

 

・・・

1つ1つ別個の生命と思われる、あなたやわたし達、あるいは鉱物や植物、動物といった存在達は、様々な階層から自らを観ている、感じている、あるいは振動している「意識」である。

 

大いなる、一なる意識が宇宙という自らの多次元体を通じて、多方面、多次元、多層に渡って展開する「自己」を観察しているのだ。

  

人間意識においては、小さな分裂したような観のあるそれぞれの「わたし」が、 その小さな私を含むより大いなるわたしに気づいてゆく過程が、 意識の進化と言われるものであり、

  

人間として、今その高みの途上まで登ってきた、あなたやわたし達という人間意識においては、

  

想念、思考、感情というツールの昇華において、更なる意識の拡大が出来るということに気づく必要があるのだ。

  

いわば人間の高貴な遊びの道具は決して物質ではなく、「こころ」なのである。

  

古来からの精神の向上の重要性は、言い過ぎても決して言い過ぎは無いほど最も大切な人類の道標なのである。

  

顕れた物質形態の豊富さや、表層肉体の飾りにこだわるような文明は、残念ながら進化せる文明とは言えないだろう。

  

魂の花ともいうべき精神の向上と拡大、世界に対する受容性の深化なくして、 その存在表現のツールである物質科学は扱えないという事を肝に銘じなければならない。

  

そうでなければ、必然的に制御できない物質に押しつぶされ、物質のエネルギーに破壊され、 エゴの期待する最終幕を演じる可能性が増えてくるのだ。

 

今・・・がその選択の時なのだ。

 

さて今から一体どういうことになるのか、という外の人事のような思考よりも、

 

あなたは本来どうあるべきか?、という問いかけにフォーカスすべきである。

  

世界の騒ぎの急激な増大を観るにつけ、今はもう「その」時期にあることに気づくだろうか。

 

でき得れば、・・・あなたが今考えうる、

 

それも真に妥当と思われるところでの「最高のあなた」を、

 

自らで宣言しておくべきである。

 

全ての・・・始めに・・・言葉ありき・・・

 

それがまず第一になければならない。

 

  

・・・  汝ら・・・神なる・・ところの「汝ら自身」を知れ!

 

 

ハイアーセルフの章   (了)

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ハイアーセルフ(4) わたしの集合

2011-06-27 08:42:33 | 覚醒意識

ハイアーセルフ(高次の自己)とは何かと言えば、それは「わたし」の集合のようなものである。

 

集合と言っても単なる無機的な集まりというものではなく、簡単に言えば「わたし」の経験した、多くの「人格的記憶」の集合と言って良いだろう。

 

過去生や前世という概念を理解できる人は、その過去の自分とはなんだろうかという問いかけが生じるものである。

 

過去という時間軸においても、「わたし」が生きていた・・・という事を考えるならば、今の「わたし」についての自己認識は、自然、大きく拡大されるのだ。

 

実は、「わたし」とは、今の世界に偶然、あるいがスポット的に生じたような者ではなく、あちらこちら、いつ何時なりとも現われているところの自己認識主体である・・という結論になるだろう。

 

幾多の過去生の記憶のある「わたし」とは、今生きている人格としての、あるいは、今回の人生舞台設定をされた「わたし」を含んでいる大きな「わたし」なのである。

 

その拡大された「大きなわたし」が、今この瞬間の存在次元のなかで、1つの特殊な人格を演じている、あるいは、生きているということである。

 

今の現実のあなたは、より大きなあなたの1つの人格表現である。

 

それを例えれば、地上を走る車のタイヤは、くるくるまわりながら、常に1点で地上と接しているようなものである。

 

人生とは、円といういわば1つ大きな次元の形態(高次のわたし)が、線という低い次元の接点(人生経験)を持ちつつ、くるくる回りながら(色々な過去生を体験しながら)進んでいるようなものなのだ。

 

我々が、外界との接点でしか自己を認識出来ない有様、すなわち偶然のスポット的な存在として自らを定義している有様は、

 

自らを単に朽ち果てるべき有機的存在、すなわち自己を肉体であると定義していることに等しいのだ。

 

ところが、そうではなく、実は、わたしは幾多の人生、過去生という経験を記憶している存在であることが理解されるならば、

 

現実生活で孤軍奮闘している、健気で、小さなわたしという自己感覚は次第に消え去ることになるだろう。

 

また、何が何でも、是が非でも、生死を駆けてまで自己の肉体保身に走り続ける愚かな行為は止むことになるだろう。

 

但し、現実生活という生の在り方そのものが疎んじられるということではなく、現実生活そのものに束縛され、拘束された、硬直した在り方ではなくなるという事である。

 

多くの人々が感じている重荷が意味がなくなるということであり、

 

すなわち、現実という今の生が、より気楽で、軽く、かつ面白いものだと気づくようになるということなのだ。

 

より大きい自己認識に至るならば、人生で刻苦奮闘しながらも、それまで重圧と感じていた社会的な観念枠や、その他大勢の理解に至らぬ人々との軋轢や、気まずさ、倦怠感などは、ごくごく小さいものになってくるのだ。

 

たしかに、まさにそんなことはどうでも良いことになるだろう。

そういう意味では、社会のありもしない価値観に翻弄されることが馬鹿らしくなり、どうでもいいものになる。

 

この世界に在りながらも、世界、社会の観念の縛りから自由になることで、その世界、社会が逆に良く見えるようになるのだ。

 

世界、社会という「共通現実」は、ここに参加している意識的存在である人間達の創り上げるその時々の観念的生成物である。

 

その観念の生成物をいつの間にか信奉していた自らの愚かさに気づき、その虚妄の観念の作られ方、あるいはある意味で支配のされ方にも気づいてくるものである。

 

生への疲れと死への恐怖、疎外感という孤独感、個々別々の解り合えない自我の群れでの軋轢、生きることがすなわち金銭を稼ぐことだという疲れるだけの誘導洗脳、・・・それらが全て幻想であるということに、既に集合意識でも気づき始めているようだ。

 

この地球という表面次元の主流を占めていた3次元的演目は、すでに時間切れであり、飽きられてきたのだ。

 

人が自らを単なる肉体、偶然の生成物等と思っている間は、かろうじて存在感のあるだけの小さな自我を維持しているだけであるともいえる。

 

「わたしとは何か?」という問いかけの、ほんの端緒についただけの「自己認識」レベルにあるとも言えるだろう。

 

未だそういう意味での無意識レベルにある人々は、小さな自己感、小さく分割された自己認識を、いつかどこかで拡大させることになるだろう。

 

あなたはどうだろうか?

 

既に一段「大きなあなた」に気づいてきただろうか。

そうであれば、いわゆる目覚めてきたといえるだろう。

 

「覚醒」とは一度だけというようなものではなく、1段1段階段を上がってゆくようなものであり、

 

さらに、より大きな「わたし」に気づいてゆくということである。

 

そのより大きなわたしは、より大きなあなたがたと、同じ仲間どうしである。

 

ふー・・っと、一段の階段をあがること、即ちより大きな見通しが可能な高次のわたし達に気づくこと、

 

今回の地球規模で行われている様々な意識的変化、それに付随する大自然の変化はその最終幕を示しているのだ。

 

いわば卒業のテーマでもある。

 

しかしながら、この先何があろうと、また無かろうと、全く問題ではないのだ。

 

おおきなあなたは、小さなあなたを超えて、しかしながら今のあなたとしても結実していることをいつも忘れないようにしようか。

 

ハイヤーセルフとは、あなたの内面の「あなた」の集合であり、

 

その集合はそれぞれのあなたという「今の瞬間」に燦然と輝いているのだ。

 

まさにその輝きは無限でもあり永遠でもある。

 

 

一は即ち、多なり。

 

多はこれ即ち、一なり。

 

 

 

 

(つづく)

 

Tulips

 本日も誠に拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました

 


ハイアーセルフ(3) 私を観ている「わたし」に気づく

2011-06-19 11:27:30 | 覚醒意識

通常目覚めている時と同じように、寝ている時にも意識的になることで、身体的な影響を極力少ない状況での意識的経験が得やすくなる。

 

身体が寝ている時に経験などと??ばかな・・

寝ている間に経験等があるものか!・・・・

 

・・・通常観念ではそうであろう。

 

わたしもそうだった。

・・・・・

肉体が自分という存在の全て・・・と漠然と信じ込んでいる場合は、肉体の休息、あるいは停止は、自己自身の休息、あるいは停止と考えてしまうのも無理はない。

 

ところが、人間とは肉体ではなく、それを通じて表現しているところの、内面から外面に投射する働きを有する「意識体」である・・

 

というような、いわば拡大された自己認識に至る段階になった場合には、そんな悠長なことは言っていられないのだ。

肉体が寝ていようと、あるいは肉体が死のうと意識は存在するからだ。

 

魂と言われる人の意識体も、時間空間にとらわれずに存在する。

・・・・

実のところ、意識すること・・が自己の本質であり、それこそ全き自由であるのだが、その自由である意識によって、自己を肉体という観念に幽閉している有様に気づくだろうか。

  

それはあたかも、通年に渡って車(肉体)に乗りつづけているドライバー(魂)が、自分を車(肉体)と一体化した「意識」を持ち、車に「自己同化」しているようなものである。

 

魂の受肉とはそういう、世界の中の存在への自己同化のことを言っているようだ。

 

人生への参入、それはあたかも好きな映画での主人公への「感情移入」のようなものである。

 

あなたもわたしも、いまそのようにして、この地球教室という仮の世界で、それこそ必死になって、我を忘れて生活している・・・。

 

あなたも私も、今この世界に感情移入ならぬ、意識の自己投影、自己投入を行っているのだ。

 

人は皆、時間軸という幕劇間隔の進行において、即ち仮想の歴史の流れにおいて、何年何月に生まれ、そのうち去ってゆくという設定を通じて、この世界に参画しているのであろうか。

 

時間も相対的というよりは、仮想現実と言った方が良いことがそのうち科学的にも理解されることだろう。

 

当然ながら空間も実のところ、突き詰めれば「仮想現実」である。

 

例えば、あの相対性理論では、空間と時間が相互に変換されるような相対性を説明しているが、あくまでも空間と時間のリアリティ自体は温存しているだろう。

 

空間と時間の相対性に関して、極めて大きな進展ではあるものの、ここには壁が用意されているようでもある。

 

空間も時間もエネルギーを通じて移行するが、それにはリアリティがあり、そのリアリティ・時間空間というものは、たとえ光によってもそれを越えることは出来ない・・という観念になるかもしれない。

 

光速という壁が設定されているともいえようが、光速より速いものがあれば、我々の科学的な四次元認識は、はかなくも崩れさってしまうのだ。

 

時間も空間も、科学でいかにも規定されて、あるいは説明されているように見えても、それは期待するほどの客観性は持っていない・・・と言えば、

  

科学信奉している人々には合点がいくはずもないと思うが、実は未知なるものに意識を向けること、・・それこそが科学的なのである。

  

科学の最先端の量子物理系の世界では、そのことが今まさに解明されつつあるのだ。

  

量子レベルでのスピンという形態の瞬時的伝達は、光を越える情報伝達があることを示している。

  

人間の所作である超感覚的知覚、テレパシー等も、既に時空に縛られない人間の本来の在り方を示しているのだが、これすらも気づかない人々が多い。

  

簡単すぎる言い方ではあるが、光の伝達の対称性にもとずく四次元時空の認識はすでに越えられているのが実情である。

  

また宇宙という存在場においては、素粒子レベルでのスピン場の瞬時伝達のように、情報伝達はある意味で ’時間を必要としない’・・

 

すなわち「時間」という要素には、決して縛られないことをも示している。

 

我々が後生大事に、あるいは束縛として感じている「時間」の流れ、あるいは人類の観念における「歴史」も含め、それらは絶対的な事実、変えようもない厳正なる、あるいは客観的なリアリティではなく、まさしくバーチャルな仮想現実といえるのだ。

 

・・・・・

 

少なくとも我々意識的存在である人間は、「今」そうだと思っていることに固執すべきではなく、つねにより大きなストーリーの中にいることに気づかなければならない。

 

その為には、そのテンポラリーな映画を観ている、この人生を生きているところの、それぞれの「わたし」自体に気づかなければならないということである。

 

映画ばかりに気を取られている有様から、その映画をみている「わたし」自体に気づくということである。

 

あなたもより大きい「あなた」がいるからこそ、今の、その「あなた」がいる。

 

 

・・・・・・・・・・・・・

 

これに気づくこと、それは本質的な転換であり、「観の転換」でもある。

 

観の転換・・・とは、ある観念から違う観念への、あるいは違う価値観への移行ということではなく、その観念、あるいは想いを観ているところの・・・「わたし」に気づく意識的行為の事である。

 

混乱が誰にも明確に認知される今の時期は、ある意味で、我(われ)に帰る・・・という言葉が極めて重要な時であると言えようか。

 

その為には、自らの「内面を観る」という行為が必要であり、それらを昔から修養、修行と言ってきたのだろう。

 

肉体というバーチャルな外界の接点への意識投入からその「注意」を外し、肉体の接点(五感)が不活発な状態での意識レベルに、一時ながらもシフトする行為への気づきが必要であるということだ。

 

それは我々の今の存在場を大切にしながらも、自らの「意識を拡大」するという行為だ。

 

禅や瞑想、経典等の集中精読や、あるいはマントラ等もその一環の手法である。

 

あるいは、身近なところとして、日常の、身体が行為としてあるいは五感として不活発な就寝時においても、内面を観るということが容易に出来るのである。

 

但し、何もせずに情報だけかき集めても不十分であり、そういう意図、意識の方向づけ、あるいは行動への意思がまず必要でもある。

 

・・・

 

隠遁や出家等が出来た昔と違い、めまぐるしく、忙しいばかりの現代生活においては、起きている日常において、そして寝ている間にも行う事が出来る、ある意味での修行もいいのではないかと思う。

 

確かにどのような状態も、無駄なものは無く、その逆に、価値がないと思われてきた所にこそ、極めて重要なものがあるのが常であろう。

 

確かに、起きていようと、寝ていようと、わたし達は存在しているのだ。

 

人の就寝中にも極めて活発な意識作用が生じている。

 

・・・・・・・・・・

 

自分の場合は、その就寝中から目覚めへ移行する「ある段階」で、極めて多くのビジョン、メッセージがあることに気づかざるを得なかった。

 

夢と言っても、様々な色々なレベルがあることにも気づくし、いわゆる単なる現実の生活での印象の独り歩きのようなものもあるし、あるいは『想定外』のビジョンもあるし、あるいは体脱していることを感じさせる経験もある。

 

・・・・

 

多くの人々の記憶層には少なからず「恐怖」を培ったようなトラウマがあるものだ。その多くが幼児期の体験によって無意識に蓄えられてしまったものだ。

 

今のこのような世界では仕方がないものだ。

 

あるいは、いわゆる前世からの持ち込み分もあるし、これらを解消することが今回の具体的な人生の大きな目的と考えても良いだろう。

 

何かをこの世界の価値観の中で、是が非でも行うべく生まれてきたというよりは、幾多の過去生での「付け」を解消すべく、 あるいはやり残しの宿題ををするべく生まれてきたと考えて良い場合が多いだろう。

 

忘れてしまったけれど、それが歪みとなって、表層意識への突き上げを行っているような、そんな気づかぬ歪みがあるのである。

 

「わたしは関係ありません・・・」というような顔でいる多くの方々も、実は内面での歪みを多く抱えているものである。

あなたはどうだろうか?

  

セレブやリッチや、権威への成り上がりや、政治での駆け引きや、巨万の富の蓄積行為や、あるいは経済で成功するしないなどの、派手なドタバタ劇に興じている暇などありはしないのだ。

  

・・・・

 

以降、解り易く夢としておくが、その様々な夢の内容を多少ながらも憶えておく行為によって、次第に普段の生活と同じような有意味な現実があることに気づいてきた。

 

1つには自分が観ている夢に、何かのサポーターかあるいは保護者か、あるいはガイドか、また親友とも思えるような存在が有ることに気づいたのだ。

 

特に、これは!と思われる恐怖を感じる夢や、何か果たすべき重要な意識的内容の夢や、あるいは自分の培ってきたトラウマを解消するような浄化の夢、あるいはカタストロフィー的な夢で必死に対応しようとしている夢には、

 

必ずと言っていいほど、夢を観ている自分の ちょっと後ろ、右横あたりに「何か存在感」を感じた。

 

いつも「右横背面斜め」に在る・・ような何者かの存在感・・・。

 

それらしく言えば「守護霊」などと言えようが、そのような使い古しの霊的用語はぴったりあてはまりそうもない。

 

その存在の立ち位置とも思える感覚には、決して出しゃばらずに、見守っているような優れた親の立場のような感じがある。

 

誰でも経験しているように、その時に夢であってもそれが夢とは、ユメ夢想わないもので、それをたった一人であっては、それこそ必死で逃げ回り、やっとのことで目が覚めて安堵の溜息をつくような「恐怖」の夢に対しても、

 

その右横少し背後に在る存在のおかげで、恐怖が恐怖に感じないで済むことが出来ることに気づいたのだ。

 

ふつうは恐怖を感じれば、それからとっさに逃げようとするものであるが、そのやや背後の存在のおかげで、それから逃げずに恐怖そのものを観ることが出来るのだ。

 

例えで言えば、たった一人で恐怖映画を観ているのではなく、右の席またはちょっと後ろの席に、親友または親兄弟が一緒にいるようなものである。

 

いわば自分は一人ではない・・という心強さを感じさせる存在感がある。

 

「わたしは一人ではない」という不思議な安堵感、あるいは心強さ、そして親しさと、余計な指図などない奥ゆかしさを感じるのだ。

 

眼の前にファンファーレを響かせながら、コトサラそれらしく現われてお告げを下すようなものであれば、それは似て非なるもの、違うものだと理解できよう。

 

もしそうであれば、それらはいわゆる「偽もの」である可能性が大きいし、言いかえれば自らのこころのフィルターの汚れによって現われてくるエゴの影とも理解できるのだ。

 

ところが、これはそうではなかったのは、自分の直感と分析による。

 

自分で気づいていて、決して分析評価の対象にならないような存在・・・であるという事を、後の分析?で、それがいわゆる「ハイアーセルフ」、「高次の自己」・・の顕れであったと気づいたのだった。

・・・・

現実の生活歴の中でそれが近いと言えば、子供を見守る賢い親、あるいはきごころの知れた無二の親友か、あるいは酸いも甘いも解り合えた伴侶、あるいは極めて広い見識をもった完全に信頼できる教師、・・そのような存在である。

 

 

要するに、アイデア獲得という別の目的であったのだが、夢という意識状態で何かを感じようとして、それに意識的になったあたりから、

 

そのような自分に極めて近く、信頼のおける、いわば「自分より大きな存在のようなもの」が数々の夢の中に現われてきたということである。

 

わたし自身は科学技術系の仕事柄からか、元来疑り深く、自分で確認しないでは何事も簡単には信じない精神構造をもっているのだが、このような自分が疑いの挟む余地が少ない形で、その存在感を与える「存在」には感じるところがあったのだ。

 

阿吽(あうん)の呼吸の関係・・・とでも言うものである。

 

図らずもそういうことに気づいてから、身体の休息している期間のなかにも、極めて重要な意識的体験があることも解ってきた。

 

余談ではあるが、

 

いわゆるスピリチュアル系の情報の中には、現われたビジョンに驚き、感激し、それそのものに意味があると考えて発信する人々も多いと思われるが、

 

その多くの意味ありげなビジョンも、その時その時の個人としての「想い入れ」という「こころのフィルター」によって変換されている部分があることに気づいていなければならないのだ。

 

例えば、予知や予言というものも、どこかネガティブであり、騒ぎの割には当たらない傾向がある場合は、

 

せっかくの、そういうビジョンなり直感的感覚を受け取る「当人」のこころのフィルターを、自らが観えていない場合が多いと思われるのだ。

 

本当ならば、人間こそが未来・過去・現在も知ることさえも可能であるのも事実であるが、

 

やはり、何事においても人間の意識の透明さ、あるいはそれを可能にする「こころ」の浄化が必要なのだ。

 

夢夢、こころの浄化を怠ってはならない・・ということだ。

(つづく)

 

Penguins  

 本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。