救いの道筋

 「死の綱が私を取り巻き、
 よみの恐怖が私を襲い、
 私は苦しみと悲しみの中にあった。
 そのとき、私は主の御名を呼び求めた。
 「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

 主は情け深く、正しい。
 まことに、私たちの神はあわれみ深い。
 主はわきまえのない者を守られる。
 私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。
 主はおまえに、良くしてくださったからだ。

 まことに、あなたは私のたましいを死から、
 私の目を涙から、
 私の足をつまずきから、救い出されました。」(詩116:3-8)

---

 「私がおとしめられたとき、私をお救いになった」。
 上の詩(の一部)は、救いの道筋そのままだ。

 苦しみと悲しみの中、死の綱が取り巻き、よみの恐怖が容赦なく襲いかかってくる。
 これが主のあわれみだと、誰が思うだろうか。
 しかも、あわれんでくださったのは、正しいからでも行いがよいからでもなく、かえって「わきまえのない者」だからだとは。
 「わきまえのない者」が、ただ訳もなく苦しみの中にいるのではない。
 「わきまえのない者」が、自らのわきまえのなさを、ようやく知った。
 知ったが故に、彼はこの苦しみのさなかにいる。知ったこと、これこそ主のあわれみなのだ。
 最後に彼は力なく言う。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください」。

 「主はわきまえのない者を守られる。
 私がおとしめられたとき、私をお救いになった」。
 最後かと思った彼を、主は救われた。
 いのちを助け出され、「いのち」を得た。
 まだひどく痛み、血も止まらない。
 だが、自分にこう言おう。
 「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。
 主はおまえに、良くしてくださったからだ。」

 ああ、もうすっかり良くなった。あれほどの苦しみがうそのようだ。
 これこそ主が救ってくださったしるしだ。
 わきまえはもちわせていない。そして、それでいい。
 わきまえの無さのために、私の足はつまずいていた。
 そもそも、つまづいていたこと自体に気付かなかった。
 しかし主がそのことに気付かせて下さって、苦しんだ後に救い出された。

 「わきまえのない」という部分は具体的には、人それぞれだろう。
 だが、気付かされて、よみが襲いかかるかのように苦しみ抜いたあげくに、あたかも雲一つない青空が覗く台風の目の真ん中に出会い、その真ん中の上へと抜け出したかのように救われ、もうあの苦しみに戻ることはない……、このプロセス、救いへの道筋は、多分どの人も同じだろう。
 アウグスティヌスがそうであった。
 苦しみの期間が長かったが、内村鑑三もそうであった。
 そのように筆が立つ人は、書物を残した。
 だが、この二千年来、無数の無名者が、この救いに与ったことは想像に難くなく、そしてほんとうの「いのち」を得た彼らは、誰にも何も伝える必要を感じなかったことだろう。

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[付記]
 本日の記事は、2007年9月10日付の記事に筆を入れたものです。

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植わった木

 「その人は、
 水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。

 悪者は、それとは違い、
 まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」(詩1:3-4)

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 東に騒ぎあればすぐさま東に飛び行き、南の群れを見いだすや乗り遅れまいと群れに混じる…。
 あるいは世渡り上手というのかもしれない。
 根がない、というか、まさに「もみがら」だ。

 「水路のそば」というのは土が軟らかいと思うのだが、そういうところにがしっと根を張る「植わった木」。
 一本、芯があるといえばよいだろうか。
 私はこういう人間になりたい。

 根は水路の土手が崩れることを防ぐ。
 木の実を喜んでもぎ取る人がいる。
 そして葉でできた木陰で人は一息つく。
 こういうのをこそ「栄え」というのだろうと、私は思う。

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[お断り]
 本日の記事の初出は2007年5月10日、筆を入れて同年9月14日に再掲し、今回再度筆を入れて再掲しました。

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たましい

 「――たましいの贖いしろは、高価であり、
 永久にあきらめなくてはならない。――
 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
 墓を見ないであろうか。

 彼は見る。知恵のある者たちが死に、
 愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、
 自分の財産を他人に残すのを。
 ……

 彼らは羊のようによみに定められ、
 死が彼らの羊飼いとなる。
 朝は、直ぐな者が彼らを支配する。
 彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
 しかし神は私のたましいを
 よみの手から買い戻される。
 神が私を受け入れてくださるからだ。セラ

 恐れるな。人が富を得ても、
 その人の家の栄誉が増し加わっても。
 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、
 その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。」(詩49:8-10,14-16)

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 詩人は当初、「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」と言っている。
 これは、たましいは自分の手でつかみ取るもの、そういう発想だ。
 彼は言う。
 知恵ある者も愚か者もまぬけ者も、等しく死ぬ。
 そして蓄えても、自分が死んでしまえばそれは他人のものになることを嘆く。

 しかしこの詩人は行くところまで行って、「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される」ということに気付かされる。
 たましいは自分でつかみ取るものではなく、神が買い戻してそして与えてくださるものだ、と。
 それはすなわち、「神が私を受け入れてくださる」証でもある。

 自分のたましいの主権は、神にある。自分にあるのではない。

 彼は富や栄誉というものを死後「何一つ持って行くことができ」ないことを受け入れる。
 そして誰しもそうなのだから羨む必要も全くないということを知る。
 また、そもそも富や名誉を持つ必要も、更に、持っていく必要もない。
 「神が私を受け入れてくだ」ったのだから。
 それで必要十分な全てであった。
 それがとりもなおさず、たましいを買い戻してくださったということだ。

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[付記]
 本日の記事は、2007年9月16日の記事に筆を入れたものです。

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そうであっても

 「まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。
 私の年もまた、嘆きで。
 私の力は私の咎によって弱まり、
 私の骨々も衰えてしまいました。
 私は、敵対するすべての者から、非難されました。
 わけても、私の隣人から。
 私の親友には恐れられ、
 外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
 私は死人のように、人の心から忘れられ、
 こわれた器のようになりました。
 私は多くの者のそしりを聞きました。
 「四方八方みな恐怖だ。」と。
 彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、
 私のいのちを取ろうと図りました。

 しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
 私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(詩31:10-14)

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 ダビデの賛歌。

 ダビデの生涯については史書をご覧頂くとして、いつもサウル王に追いまとわれ、イスラエルの王となってからも裏切りに遭ったりと、波瀾万丈の生涯を送った。
 その波瀾万丈の生涯を支えたのが神への信仰で、ダビデはたくさんの信仰詩を残している。
 上の詩も、そのひとつ。
 四方八方が行き詰まったかのような詩だ。
 そうであってもダビデは言う。「あなたこそ私の神です」。

 四方八方が行き詰まったような境遇に置かれたとき、なんで神はこんな境遇に置くんだ、神なんかいるものか、という類をしばしば耳にする。
 だが、これは発想が逆さまで、神は自分の幸福のため「だけ」に存在し、そのような神だから信じる、という発想である。
 これでは御利益の神で、要は偶像だ。
 偶像、「いない神」なので、そのような「神」によりかかろうとしても、支えには全くならない。

 神が全世界を司っているので、ダビデが四方八方行き詰まっても、それすら神がなされたことであり、何かしらの意味と意義がある。
 私たちは、この神の支配の下にいる。
 それでダビデは、そうであっても「あなたこそ私の神です」と言ってはばからない。

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[付記]
 本日の記事は、2008年2月18日の記事に若干の修正を施したものです。

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歯車

 「私は身を横たえて、眠る。
 私はまた目をさます。
 主がささえてくださるから。」(詩3:5)

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 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」。
 その営みはあたかも機械の歯車かのようだ。
 あわてずさわがず、声も出さず特に主張もしない。
 淡々とおんなじ速度で隣の歯車とかみ合いつつ、ごく自然と回り続ける。
 隣の歯車に歩調を乱されることも、ない。
 「主がささえてくださるから」。

 「この歯車」がないと、多分どこかしらが困り果てるだろう。
 けれども逆に、「この歯車」があるからといって「歯車さん、ありがとう」とありがたがられることは、まったくない。
 暗黙の内に、「そこ」できちんと役割を果たしてよしとされる、「この歯車」。
 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その繰り返し。
 「主がささえてくださるから」成り立つ営みだ。

 そして週に一度、主がグリスを丁寧に塗り込んでくれる。

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[注記]
 本日の記事は、2007年2月17日初出、同年9月23日再掲のものです。
 3度目の今回は、若干筆を入れました。

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主を畏れる

 「主は御自分の民に贖いを送り
 契約をとこしえのものと定められた。
 御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
 主を畏れることは知恵の初め。
 これを行う人はすぐれた思慮を得る。
 主の賛美は永遠に続く。

 ハレルヤ。いかに幸いなことか
 主を畏れる人
 主の戒めを深く愛する人は。」(詩111:9-112:1新共同訳)

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 違う詩をまたがって引用するのも、どうかと思うが、どちらの詩にも「主を畏れる」とある。

 「主を畏れる人」、それは行いの人ではない。
 行わないことを恐れることは、「畏れる」とは似て非なるものだ。
 それどころか、行いの人が恐れているのは人の目にすぎない。

 では、主をなぜゆえに畏れるのか。
 それは、主が「お前は罪を犯した」と告げ知らせ、それどころか、いやが上にもそのことを自覚せざるをえない立場に追い込むからだ。
 そのために主がお使いになる道具が「戒め」、即ち律法である。
 律法群に追い込まれてここに至ると、もう逃げ場はない。主は恐ろしい。自分の義など、どこにも見出せない。

 ところが、この境遇に追い込むことは、人を「行い」へと走らせるのではなくて、神の「恵み」へと化す。

 「主は御自分の民に贖いを送り
 契約をとこしえのものと定められた。」

 すなわち、イエスの十字架というあがないだ。
 このあがないによって、罪赦される。

 「ハレルヤ。いかに幸いなことか
  主を畏れる人」

 このように、罪を赦してくださった方、このお方を畏れる。
 十字架の御業によって、心底助かったからだ。
 その恵みがあまりに大きい。
 「主を畏れる」とは、こういうことではないだろうか。

 その人はなおも「主の戒めを深く愛」し続ける。
 戒めを守ることなど、到底無理だ。そのことに心底気付かされて、そうしてあがなわれた。
 だからその人にとっての「戒め」というのは、なくてはならない大切なものなのだけれども、決して手の届かないものである。

 「主の賛美」は、いのちある限り「永遠に続く」。

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[お断り]
 本日の記事は、
  初出 2007年 6月10日
  改版 2007年 7月 7日 (大幅な修正)
 そして本日、さらに加筆修正を施したものです。

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新しいエルサレム

 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:1-4)

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 上の聖書箇所は、筆者ヨハネが見たままをそのまま記したもの、言い換えると黙示形式ではない箇所だと確信している。

 私たちは新しいエルサレムで神の民となる。
 すべては過ぎ去った。
 そのとき神は、今まで流し続けてきたぬぐいきれない程の涙を、すっかりぬぐい取ってくださる。
 悲しみも叫びも、苦しみも怒りも、そして死も、ここに至ってすべては過ぎ去った。

 では何故、神はアダムの違反をすぐにも快復なさらなかったのだろう。
 それはおそらく、悪が悪と明らかにされてさばきを受けるためなのではないだろうか。

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[付記]
 本日の記事で、ひととおり終わりました。
 しばらく休むかも知れませんし、明日もどこかの書物を取り上げて書くかもしれません。
 ちょっと考えてみましょう。

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いのちの書

 「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示20:12-15)

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 黙示形式で書かれている長大な箇所より。
 黙示なので、コメントできません。
 コメントよりも、聖書本文をお読み下さい。

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和解

 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:19-20)

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 キリストは、愛する者を格別にお取り扱いになり、そして、その人の戸を叩く。
 その人は、キリストが叩いたのだと分かるし、キリストの声をそうと聞き分けるので、戸を開けてキリストを迎える。
 そこでキリストと共に囲む食卓は、神との和解の場だ。
 なぜ和解に至るのかというと、その人がキリストをキリストと分かったからである。
 そうと分かるのは、ただ神の御恵みゆえだ。

 「わたしは、戸の外に立ってたたく」。
 こちらから出掛けていってキリストを見つけるのではない。
 キリストがやってきて戸を叩くのを、待ち続けるのである。
 神のわざは、どこまでも人間の側が受け身になる。
 懲らしめも、神がお与えになる。
 その懲らしめのない人は神から見放されている、ということをヒルティが書いているが、そのことは私もそう思う。

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『勝利』ということ

 「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」(黙示2:10-11)

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 苦しみ、というものは、避けて通ることができない。
 「好事魔多し」という言葉すらある。
 そういうものに対して、どこまでもキリストに忠実であることが、求められている。
 キリストも、十字架の苦難を忍耐された。
 私たちを牢に投げ入れようとする人々に対する忍耐が、そのキリストにより試されている。
 そのようにして忍耐し通すことが、「勝利」である。
 格闘技で相手を倒すことや、勢力が拡大することというのは、「勝利」でもなんでもない。

 そして、「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」という確約がある。
 この肉の身は、必ず一度死ぬ。
 避けて通れないこの死も恐いものだが、はるかに恐ろしいのは、ここでいう第二の死である。
 「勝利」とは、この第二の死を免れて永遠のいのちに生きることを指す。
 それは、自分たちを牢に投げ入れようとする人々に対する、最終的な勝利であるかも知れない。

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