歯車

 「私は身を横たえて、眠る。
 私はまた目をさます。
 主がささえてくださるから。」(詩3:5)

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 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」。
 その営みはあたかも機械の歯車かのようだ。
 あわてずさわがず、声も出さず特に主張もしない。
 淡々とおんなじ速度で隣の歯車とかみ合いつつ、ごく自然と回り続ける。
 隣の歯車に歩調を乱されることも、ない。
 「主がささえてくださるから」。

 「この歯車」がないと、多分どこかしらが困り果てるだろう。
 けれども逆に、「この歯車」があるからといって「歯車さん、ありがとう」とありがたがられることは、まったくない。
 暗黙の内に、「そこ」できちんと役割を果たしてよしとされる、「この歯車」。
 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その繰り返し。
 「主がささえてくださるから」成り立つ営みだ。

 そして週に一度、主がグリスを丁寧に塗り込んでくれる。

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[注記]
 本日の記事は、2007年2月17日初出、同年9月23日再掲のものです。
 3度目の今回は、若干筆を入れました。

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