罪への悟り

 「だれが自分の数々のあやまちを
 悟ることができましょう。
 どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」(詩19:12)

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 ダビデの賛歌。

 アダムの違反以来、人間の肉に罪が入ってしまった。
 この罪の厄介なところは、なかなか悟ることができないところにある。

 この罪は、自分自身の価値判断とは全く異なる基準による。
 ではどのような基準に依るのかというと、神が与えられた律法である。
 律法は、人に罪を悟らせるためにもっぱら存在するといってもいい。
 だからといって、律法に精通すればそれで罪を悟ることができる、ということもない。
 まさに「だれが自分の数々のあやまちを 悟ることができましょう。」ということになる。

 しかし、律法に無知でも精通していても、ただ神の御恵みによって自身の罪を悟ってもんどり打つということがある。
 その人は、細き救いの道、その入り口に立ったのである。
 罪を悟った苦しみの果てに、復活のキリストが彼に現れ、「隠れている私の罪をお赦し」くださるのである。
 このキリストの赦しが、救いのすべてであり、「いのち」の回復なのである。

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