内側は偽善

 「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27-28)

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 マタイ23章はまるごと、イエスによるパリサイ人批判。

 イエスはパリサイ人が「内側は偽善と不法でいっぱいです」と仰っている。
 しかし、そのことはどの人も変わるところはない。
 では何故パリサイ人が批判されるのかというと、外面を良くして人に正しいと見られようとしている、その偽善性にある。

 このことを言い換えると、人間は誰しもアダムの子孫であって「内側は偽善と不法でいっぱい」な存在にすぎない。
 すなわち、神の目に罪深い。
 ところがパリサイ人は、バステスマのヨハネやイエスが来てすら、そのことに気付かない。
 それどころか、もっぱら行いによって自分の義を立てている。
 ヨハネやイエスを全く認めず、悔い改めるところがまるでない。
 なので彼らパリサイ人には、つける薬がないのだ。

 誰もがアダムの子孫なのであり、イエスはその状態から救うために世に来られた。
 だが、そのイエスを前にして自分の義を立てるならば、つける薬のないパリサイ人の二の舞となってしまう。
 私たちは常にこのイエスを前にしている。
 そうすると、アダムからの脱却に必要なことは悔い改めようとすることだ。
 パリサイ人は悔い改めようともしないので、批判の的になった。

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礼服

 「そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:8-14)

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 イエスのたとえ話。長いので途中から。

 宴会に招待していた人たちは、どうにもそれにふさわしくなかった。
 それで、「良い人でも悪い人でも」誰かれ構わず宴会に招待した。
 ところがいっぱいの宴会場の中、「婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた」。
 婚礼の宴席といえば、礼服である。
 礼服が、婚礼にはどうしても欠かせない。
 王の問いかけはこの人にとっては拷問のようで、ひとり暗やみに投げ出される。

 「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」。
 この宴会は天の御国のことであり、もとから招待されていた人々も含めて、良い人も悪い人も実にたくさんの人々が招待されている。
 だが、どうしても欠かせないものがないために漏れ出てしまう人もいる。
 イエスが仰るには、選ばれる方が少ないという。
 天の御国にどうしても欠かせないもの、それは十字架の信仰だろう。

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権威

 「それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」(マタイ21:23-26)

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 祭司長たちは、「群衆がこわい」。
 群集の支持あってこその今の地位また権力なのだから無理もない。

 イエスが宮で教える権威というのは、同様に、単に群集の支持による権威にすぎない。
 だが、み教えの内容に、神の権威が内包されている。
 群集にはそのことを解せず、のちには「十字架につけろ」と掌をひっくり返すのである。

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即位式

 「シオンの娘に伝えなさい。
 『見よ。あなたの王が、
 あなたのところにお見えになる。
 柔和で、ろばの背に乗って、
 それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。
 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。
 「ダビデの子にホサナ。
 祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
 ホサナ。いと高き所に。」

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 上の聖書箇所は、いわば即位式といえようか。

 イエスはろばの子に乗った王として、エルサレムに入られる。
 群集の絶大な支持を得た柔和な王として、人々を統べるため。
 そして何より、自ら十字架へと歩を進めるためである。
 十字架でのイエスの罪状書きは、「これはユダヤ人の王イエスである」(マタイ27:37)である。

 この群集は、都合が悪くなるとイエスに対して「十字架につけろ」と叫ぶような輩だ。
 だが王を極刑に陥れるこのような人々の救いのために、イエスは十字架に架かるのである。

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贖いの代価

 「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)

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 イエスは「贖いの代価」として、自らの肉の命をお与えになる。
 では、「贖いの代価」とは何だろうか。

 私たちアダムの子孫は、そうであるが故に神の御前に罪深い存在である。
 どのような行いをもってしても、神は依然として私たちを罪深き者とご覧になる。
 つまり、私たちがその罪深さをどれだけあがなおうとしても、神の御前にそんなことは無効とされてしまう。
 人間には、罪を贖う能力が全くないのである。

 だから、イエスが私たちの代わりに贖ってくださるのである。
 イエスの肉の命というささげ物が神にささげられ、人を救うこの「贖いの代価」を神は良しとしてくださっておられる。
(それが十字架であり、マタイ福音書のもっと後の方に出てくる。)
 そのことを信じる人は、イエスという対価によって贖われたのだから罪赦されている。

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捨てる

 「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」(マタイ19:29)

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 イエスのために、「家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑」を捨てるということ。
 親から友人から財産から一切合財(いっさいがっさい)、要するに全てを捨ててイエスに従う。
 捨てる、という自律的な行為とは違う。
 イエスが捨ててしまわれる、という、あくまで他動的な一連の過程なのである。
 しかもこのお方は、有無をも言わさず次々にお捨てになる。

 それはひとえに、私たちがイエスと歩みを共にするためだ。
 その先には、約束された「永遠のいのち」がある。

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針の穴

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:23-26)

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 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。
 金持ちの青年が去ったあとに、イエスは上のように仰る。
 だから、「金持ちが」のところは話の流れでそうなったのであり、何であっても当てはまる。
 貧乏人。
 社長。
 平社員。
 夫。
 妻。
 子。
 なんであっても、「らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。
 天の御国に入るということは、誰にとっても針の穴を通るようなものだ。

 ところが、イエスを遣わした神には、どんなことでもおできになる。
 金持ちが針の穴を通ることすら、この神によってお出来になる。
 例えば、悔い改めた泥棒が、この神によって針の穴を通過したりする。
 その悔い改めもまた、神の御恵みによってである。

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金持ちの青年

 「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
……
 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」(マタイ19:16,20-22)

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 俗に「金持ちの青年」と呼ばれる箇所。
 途中省略した。

 イエスはこの青年に、全財産を喜捨した上で私に着いてきなさいと仰ったのだが、青年は財産が惜しくてイエスの下を去ってしまう。
 イエスがこの青年に言ったことというのは要するに、「死ね」ということだ。
 一番執着している財産を失うことが、この青年にとっては死なのであり、青年はとても死ぬことはできなかった。
 もし他の人ならば、イエスは他のことを仰ったに違いない。

 だが、そのように死んだ先、新たによみがえって、「永遠のいのち」を見いだすのである。

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全世界

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)

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 上の聖書箇所の前半は、今年7月30日付記事にもあったもの。

 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」。
 もし「全世界」に未練があるなら、「まことのいのち」はまだ無縁のものだ。
 ここでいう「全世界」というのは、サタンがイエスを誘惑したときの「この世のすべての国々とその栄華」(マタイ4:8)のこと。
 「まことのいのち」は、「全世界」とは対極の地点に存在する。

 つまり、こういうことである。
 「全世界」側か、「まことのいのち」側か。
 サタン寄りか、イエス寄りか。
 この位置取りは自分勝手に決める類のものではない。
 イエスは、少しでも多くの人に「まことのいのち」を与えたい。
 それで、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と招くのである。

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人を汚す

 「そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」
 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
 口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。
 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」(マタイ15:15-20)

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 「人を汚す」とは、その人がどうなることだろうか。
 イエスはここで、「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」と挙げている。
 これらは要するに、律法の規定により違反とされたことがらである。
 人間の心からそういったものが出てくると、イエスは仰る。

 「口から出るものは人を汚す」というのは、人間の言葉はそれを聞く人を律法から遠ざける、つまり神から遠ざけるということだろう。
 だから「人を汚す」というのは、不潔になるとかけがれるという意味とも、また違う。

 そんな人間の言葉とは異なって、イエスのお言葉はひとつひとつが人を洗い清めるいのちの水である。

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