全世界

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)

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 上の聖書箇所の前半は、今年7月30日付記事にもあったもの。

 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」。
 もし「全世界」に未練があるなら、「まことのいのち」はまだ無縁のものだ。
 ここでいう「全世界」というのは、サタンがイエスを誘惑したときの「この世のすべての国々とその栄華」(マタイ4:8)のこと。
 「まことのいのち」は、「全世界」とは対極の地点に存在する。

 つまり、こういうことである。
 「全世界」側か、「まことのいのち」側か。
 サタン寄りか、イエス寄りか。
 この位置取りは自分勝手に決める類のものではない。
 イエスは、少しでも多くの人に「まことのいのち」を与えたい。
 それで、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と招くのである。

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