イエスを見る

 「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
 イエスは「来なさい。」と言われた。
 そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:26-31)

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 水の上を歩くイエス。

 そのイエスに、ペテロは「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と願う。
 イエスの命令にはそれだけの力がある、そう信じてのことだろう。
 イエスは「来なさい」と言われ、実際、ペテロも水の上を歩いてイエスの方へ向かう。
 このときペテロはイエスだけを見ている。

 ところが、そのペテロは風を見てしまった。
 「沈む!」と恐れるペテロ。
 ペテロの目は、ふとイエスから離れてしまったのである。

 いつも何を見ているのか、ということの重要性について。

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隠された宝

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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 私はカネを求めていたかのようで、実はそうではなかった。
 人からの栄誉を求めていたかのようで、実はそうではなかった。
 ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書の中にあった。
 「 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
 まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!

 今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
 明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
 人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
 けれどもなんといっても、イエス、この宝を手にした満足感の大きさといったらない。

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[付記]
 本日の記事は、2006年9月2日付の記事をそのまま引用したものです。
 「いのちのパン」は無償ですが、それを見いだした喜びで、他の全てを犠牲にして入手する、そのようなものだと思います。

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イエスのくびき

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

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 この世で疲れた人々、また重荷を背負ってしまった人々への、イエスのメッセージ。

 真に得たいものがこの世のマテリアルなものではなく魂の平安であるならば、この世のくびきではなくイエスのくびきを負ってゆくことを、イエスは勧めている。
 くびきとは、ごく簡潔に書くと、負荷を自分に掛けてそれを動かすための道具。
 イエスのくびきは、世のそれに比べて負いやすく、そして軽い。
 そしてイエスと共に歩むのである。

 ちなみに、イエスのくびきというのは、言い換えると「イエスの焼き印」(ガラテヤ6:17)となる。

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