贖いの代価

 「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)

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 イエスは「贖いの代価」として、自らの肉の命をお与えになる。
 では、「贖いの代価」とは何だろうか。

 私たちアダムの子孫は、そうであるが故に神の御前に罪深い存在である。
 どのような行いをもってしても、神は依然として私たちを罪深き者とご覧になる。
 つまり、私たちがその罪深さをどれだけあがなおうとしても、神の御前にそんなことは無効とされてしまう。
 人間には、罪を贖う能力が全くないのである。

 だから、イエスが私たちの代わりに贖ってくださるのである。
 イエスの肉の命というささげ物が神にささげられ、人を救うこの「贖いの代価」を神は良しとしてくださっておられる。
(それが十字架であり、マタイ福音書のもっと後の方に出てくる。)
 そのことを信じる人は、イエスという対価によって贖われたのだから罪赦されている。

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