目をさましていなさい

 「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。」(マタイ24:40-45)

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 「あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」。
 このみ言葉は、重層的な意味を持つ。
 ここでは文脈上、もっぱらこの時代が過ぎ去る日(マタイ24:34)について。

 その日に備えて、「目をさましていなさい」。
 目を覚ましているとは、どういうことだろう。
 それは、主人が留守でも「食事時には彼らに食事をきちんと与える」ようなことだ。
 誰彼が見ている、見ていないにかかわらず、すべきことをし、すべきでないことをしないことである。
 誰彼が見ていなくとも、神がご覧になっておられる。
 それで「主人」は、思わぬ時に帰ってくるのである。

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