十字架につけろ

 「しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」(マタイ27:21-24)

---

 年に一度の大きな祭りの日には、群集が望む囚人を一人だけ釈放するならわしになっていた(マタイ27:15)。
 総督は、イエスかバラバを釈放する、という。
 バラバは、名の知れた囚人(マタイ27:16)。

 彼ら群集は、イエスではなくバラバを釈放するよう要求する。
 少し前まで、「ダビデの子にホサナ」とか言っていた連中だ。
 バラバを釈放して欲しいからではない。
 イエスを十字架につけたいからだ。
 「十字架につけろ」。

 ピラトは翻意を促す。「あの人がどんな悪い事をしたというのか」。
 しかし群集は構わず、「十字架につけろ。」と叫び続ける。
 イエスを十字架につけたいのは、具体的にイエスが何をしでかしたかではなく、単にイエスを憎悪しているからに他ならない。
 繰り返すと、少し前までは「ダビデの子にホサナ」とか言っていた連中だ。
 そして重罪人バラバの釈放を、躊躇なく良しとしてしまう。

 ピラトは、暴動が起きてカイザルから統治能力を問われることを恐れ、もはや審理を放棄してしまう。
 「私には責任がない。」などと言っているが、この審理放棄の責任は、やはり統治能力の欠如に他ならない。

 十字架を前に、群集は理屈を越えて憎悪だけで動く。
 総督ピラトは職務放棄と責任のなすりつけ。
 全ての秩序が音を立てて崩れる。
 そのことを、十字架の道を歩むイエスは無言で受け入れている。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )