リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

外部視点の解消の努力

2015-10-10 11:20:16 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。花粉以外には文句のつけようのない気候の今日この頃、また連休です。政府がいくつも連休を作った時期はあまり連休にあずからない仕事だったので良さがわかりませんでしたが、有ってみるとやっぱり良いものです。労働者政党は、連休は国民の義務にして(その分日給が減るので)最低賃金を上げるよう公約して欲しいものです。
 
 さて、ノーベル賞が地方国立大卒業者に。よかったよかった。昨今で一番良いニュース。以下、しばらくはお金のない意欲はある高校生テーマ。
 なんといってもおかげで勉学をしたい人間が自宅から通える可能性が増えたのは一番良い。下宿代は大変です。
 しかも、教育学部を出ても、授業料が最悪の医者以上に世界の人々を助けられる、という、ほんとに良いニュース。
 勉学の好きな方はお金がなくともがんばればだいじょうぶです、と無責任にいえることはうれしい。
   まあ、それでも大変ですが。
 
 ただ、彼らの頃はもっと条件が良くて、国立の授業料はずうっと安いし、しかも育英会の奨学金も、教師を3年もすれば返還義務は消えたはず。
 なんでだ、って、過去の経緯というものでしょうね。知りませんが。
 昔(戦前)から貧乏でも学校の教師にはなれたのです。授業料なしで、寮で生活すれば飯つきで、大学も高等師範にいけば実質大学ですし。(wikiに、さらに文理大へくのもタダ、みたいに読めますが、これは知らない。)私らの頃も、東京教育大(=高等師範・文理大)は貧乏な学生が集まってましたし。
 なので、地方大の教育学部や学芸大(=地方でいう教育大)は、勉強の好きな人は誰でも行けたのです。それでも、女だと行かしてもらえなかった人も知ってますが。

 なお、さらに、財務省はもっと国立の授業料を高くするとか。何が一億総活躍だよ。貧乏人はどうでもいいのか。なんのための消費税だ。
 (あ、いちおう。国立は授業料半額免除の制度があります。「全免もある」って、そりゃ生保レベルだよ。農家の方とかだと活用されている方も皆無ではないでしょうが)
 なお、東京に出てくる方は、学生寮のある出身県もかなりあるはず。時代で多少贅沢化していそうですが、勉強のために大学へ行きたい方はご利用されたらと思います。
 
 以上、ただの解説でした。じゃね、また。
 
 といいながら、本日の話題。実は、社会学の視角の続き。ちょっと難しいので、普通の方には失礼。
 社会の外部から、社会の内部の社会行動を見る視点として、現実の社会関係と行為者が抱く(はずの)行為の意味をむりやり連動させようという試みがあります。理解社会学のことです。
 隈がいつも批判する、行為を他人ごととして解釈する方法です。
 これはもちろん研究者の人生そのものへの無知とかその時代の価値規範とかの反映になるにすぎず、あとから物笑いの種になるだけなので無視すればよいのですが、しかし、研究者とは、所詮外部の人間ではあります。その人間が内部のことをどうわかろうかという方法論上の問題は何百年経とうと残るわけで、おかげさまで「ウェーバー方法論の研究」などというものが今でも繰り返されるわけです。
 で、このときどうするか。
 まずは、人間にとって確かに正しいものは、何か。デカルトですね。
 「我思う、ゆえに我あり」
 社会学も同様です。
 「他人が何をどう行動するかは不明でも、少なくとも、私の行為は(正しく把握さえできれば)確かに存する」。かくて、現象学的社会学です。 (あ、ここ難しいですが、それが分かる人あてで、すいません。)。
 といいたいところですが、そうではない。
 残念ながら、フッサールの立場とは異なり、いわばフッサールの言葉を引き継いだ現象学的社会学は、行為者の主観しか問題にし得せんでした。たかだかの、「私」の主観から何が分かろう? 人はそこまで天才か?
 これではダメです。
 私から他者へ理解を進めるためには、人は誰にでも通ずる行為の一般理論を定式化しなければなりません。(無論、その後の他者による彫琢がなければ一般的真実には近づきません。)
 これが(( )内を除き)この文脈でパーソンズ(とシルズ)が試みた仕事です。
 もちろん、個人行為者から社会体系へは進めないので、パーソンズは、個人と社会を折衷した巨大な誤謬の理論を残したわけですが、意図は正しかったのです。
 
 ということを、追加しておきます。
 
コメント
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