リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

集団理論の成立根拠

2015-09-26 13:46:32 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。はやばやとキンモクセイの匂いがまわりだした今日この頃、涼しいですね。とはいえ、みなさん背広にノーネクタイという私の嫌いな無文化ファッションを実施されているので、欧米文化のネクタイ派的に困ります。アルバイトなので場は乱さないようにいまだ半袖開襟。早く衣替えにならないでしょうか。
 
 さて、安倍の得意顔にむかつく今日この頃ですが、今日は社会学に特化。前回記載の反省の下に、1話でまとまりをつけつつ、しかし、本旨は次回以降ということで。
 
 さて、集団とはなにか、を時間の節約でウィキペディア。
 「集団は一般的には2人以上の組織のような人間の集まりであるが、厳密には共通の目的を持ち、目的と目標を共有し、目的と目標達成の為に互助しようと努力し、役割の分担が集団の中に定め、振る舞い方の一定の基準が存在し、集団自己同一視する、と社会心理学においては定義されてお」るそうです。注によれば、南博のもよう。1914年生まれ。
 
 まあこれは私などの戦後世代には、細かいことをいわなければ普通の定義ですが、元はといえば、「集団」なる幻想を、あるいは「同じことですが」「概念」を、夢想できる世代の生産物です。
 と、のっけからケンカ腰。隈はその社会学基礎理論において、「集団」など定義しておりません。
 
 では、およそ「概念」とはなにか。と、さらに社会学研究者としてはすごい踏み込みようですが、この際、社会科学は哲学なるものには決定的に三行半を突きつけておく必要があります。(あ、三行半などは、もちろん差別用語であり、このコトバを先進資本主義国内以外で使う気持ちはございません。この点、日本人の若い女性のあなたも、考慮いただきたい。なんちゅうて、おばさんでこのコトバに突っかかれる人生を持った人間なんぞおるまい、とタカをくくっているわけで。)まあどうでもいい。
 ともかく、若い方にとって、「概念」とは何か。
 概念とは、行為者が頭の中に構成する事実認知である。
 ここまではまだ誰も問題に気づかないでしょう。「そんな言い方もあろう」てなもんです。
 さて、行為者は、自己の行為に資するために、認知した自己の環境を「過去の行為の重要性に即して」 種々に分類し、これに反応する。
 ここまでなら批難する方もいないでしょう。もちろん筆者のイヤミ癖を知っている読者の方は、なんじゃ、このカギ括弧は、と思われるかもしれませんが。
 すなわち、行為者は自己の経験に即して自己の環境を整理する。「したがって」、「自己が集団構成員であること」 を、「勝手に認識してそれに感激した者のみが」、集団理論を展開する。よくいえば、「しうる」。
 だから世代が違う若い社会学研究者は、次のように反応するはずです。
 「かんけえねえよ、なにそれ、集団? そういや百年前に聞いたよ」。
 反応しない? それはおかしい。すこし精神年齢を調べてみなければ。キミは大人すぎる。

 というわけで、これは問題点がわかりやすくない? もっともこんなことを書いて社会学教科書ですといったら、出版社員に怒られるだろうねえ。そういう事態も上部過程論の対象ですが、それは今はおいて。
 さて、これが真実。隈栄二郎から真実を取ったら、何一つ残るものはない。 それとも60歳以下の出版社員Aの方は、自分が集団員だと思ったことでもあるのかしら。(またまたトゲのある言い方を。)
 
 「集団」などは、資本主義日本の中高年には関係はありません。私だって、中学校で物理気象班・生物部で、その他クラブ活動は人並みにして、さらに何十年もサラリーマン組織に所属しましたが、それらが「集団」であったことは、ゼロ。なに、集団て。デモの隊列のことか。それなら何度も経験したぞ。
 他方、1904年生まれの広島市生まれの士官学校志向者の社会学研究者には、「集団」という概念はアタボウの概念だ。知らない奴は非国民だ、とも思わないほど当たり前。彼の過去の行為と、彼が過去を引き受けるはずの親や周りの彼の進学応援者の重要性において、集団は、「彼の脳内の行為者にとって」 必須のはずのものなのです。
 と、上記の念頭はだれかというと、清水盛光氏。『集団の一般理論』 の作者。と名前を出しても決して清水さんをばかにしているわけではありません、だいたい知らないし。しかも少なくとも晩年は流行からはずれ孤高でしょうから嫌いなわけがない。(もっとも、読んでると秋元律郎氏が(世代が少し若いですが) 線対称に思えてきました。こちらは積極的に好きです)。清水さんもマンハイムはご存知のはず。ただ、理解されなかったこれが、社会拘束性、というものです。
 
 さて、では、「関係ない」はずの「集団」概念なるものが、そもそもなぜ人間の間に生まれてきたか。
 人間にとって、行為世界は2通りに存在するからです。
 第1に、主体的行為にとっての行為世界。中学生物部部長である私は、部長の職責も知らず、ただ単にトノサマガエルの餌のハエを取る。私Aにとって部活動とはそれです。
 第2に、中学2年の少年Bにとって、、、少年がいた記憶がない、少女Bにとって生物部とはこれから加入すべき「なにものか」である部である。Bは顧問教師Cに、生物部は気持ち悪いカエルの飼育をやめて、鶏の孵化の観察等をさせるべきだ、と訴える。ここでは生物部は、私の行為を超えたなにものかです。
 すなわち、第1に、主体的行為の過程たる社会関係と、第2に、「外部の」社会過程から見た観念とは、「同一」であるはずだが、決して一致しない2通りのものなのです。後者の観念が、この場合、「社会集団」であり、先に述べた「概念」の領域なのです。
 
 同様なものが「家族」。生きている人間が失われている、いわゆる「家族」観念とは、共同体権力なり、政府権力なりの言葉(から発生したもの)です。
 それが無意味というわけではありません。村長や行政にはとても有益、なくてはならないから作られたわけで。
 つまり、諸観念は、権力体制なり生産様式を離れて存在することなどできないし、それにとどまらず、積極的に、支配社会の支配要素が使用するそれらは、個人を支配するための観念なのです。もっとも、支配するための観念でも、使いたい人はそう思って使えばいいわけです。

 というわけで、今回は社会学の定義への批難ではなく、その学的特徴への一般論的見方。
 
 じゃあ、そんな見方にどんな意味があるか、というふうに、移りますが、それは次回。
 
コメント
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