リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

写真行為

2014-04-27 20:39:23 | その他
 こんばんは。スギ花粉を年齢抜けしたと思ったら、新たに罹っている4月なんだかアレルギー、鼻水症。ぜんぜん治る気配がありません、アレルギー薬はわけのわからない成分薬が強くていやで、風邪薬くらいの抗ヒスタミン剤がちょうどよいのですが、それも解熱剤も身体にわるそうで、、、困ったものだ。薬学部志望の若人は、つまんねえもん加えないで、抗ヒスタミン剤オンリーでアレルギー薬を作ってください。それじゃ売れねえ、って話なら、「元気になるアレルギー薬」で、ビタミン剤でも人参でもカフェインでも加えたらいいじゃないですか。
 以上、役に立つブログ終わり、、、いやあ、役に立つ可能性の低さといったら。

 さて、本日は(昨日か?)朝日新聞の人生相談で上野千鶴子が「介護保険があるおかげで老後は安泰」などと馬鹿げたチョウチン記事を。なんでもぺらぺらしゃべればいいというのは社会学者のすることじゃないんじゃないかね。介護労働者の構造的低賃金はどうしてくれるんだ。こんなもん(=介護作業)左翼にとっては、もとから「保険」などでやれる代物じゃないだろうが。まあもう本人(=上野氏)、左翼からは足を洗って、プチブル老人の代議人となってそれ以上の望みもないんだろうけどね。しかし、元左翼のくせに表現者を演じようなどという存在はともかく不快です。って要するにうさばらしばなし。先週に引き続く、いらいらストレスですが。
 
 というわけで、今回も役に立たないブログ。テーマはコンピュータ将棋。 
 ここでもお知らせのように、コンピューターに将棋棋士が負け続け。このことへの世の中の反応が、まあくだらない。いわく「コンピュータ将棋は、大変力は強いのだけれども時として粗暴で未完成な側面もみせるのである。それでも、圧倒的な力があるので結果的には勝ってしまうのだが。」系統。将棋趣味世界じゃあ有力なブログより。私はケチつけるだけだから、どこのブログとはいわないけど。
 コンピューターが将棋に勝つなんて、コンピュータがどう指せばいいか分からなくて適当にお茶を濁しているうちに人間が体力=時間負けして、ミスして結局負ける、それだけのことじゃないか。
 まだしも人間はこうやろうと思っているだけアホじゃないさ。
 わたしなんかよりコンピュータ問題に時間を投入しているはずの入れ込みアマチュアやプロフェッショナルの評論がどうしてそんな「自虐」をするんでしょうね。これもウヨがいうような日本文化なのかとは思います。それはそれで一種の気配りかも。ウヨは、不思議なことに、日本文化がお嫌いなようですが。
 前もちょっと述べたように、コンピューターが強ければ、本当の勝負は、詰みが見えた一瞬だけのはずです。「はじめの一手で詰みが見えるはずだ」 なんちゅうアホはいないでしょうね。
 つまりその分かれ目は、いってみれば、70手目でとりあえず2通り、71手目でとりあえず相手がどう指しても20通り、75手目で相手がどう指しても100通り、そのように必ずどう指しても詰む一瞬がある、その時点の見極めでコンピュータは勝つし、それ以前ではお茶を濁すに過ぎないのです。どんな場面でもとりあえずコンピューターも一手指す必要がありますからね。
 その分かれ目が10手目であればその時点で彼らが勝つし、現実は70手目以上なので、その時点までは決して彼らは勝ちはしない。
 しかも、現在の現実は、その分かれ目はコンピューターには読めない、という、はたしてそれでも機械か、と馬鹿にされる程度のものなのです。先の有名ブログでは、「コンピュータはそれにもまして中終盤が深くて、」 などという「褒め」言葉まで頂戴し。うそこけ。深いもへったくれも、読めねえでうろうろしてるだけのロボットにすぎないのです。そりゃロボットだし。
 
 「人間だっておんなじじゃないか」という反論?もあるでしょうね。
 しかし、人間は同じではない。
 人間は「こうしたら俺の思考と志向の好みが多い展開になる」方へ、自分の意識として指し手を作る。それが間違っていようと、間違っていることがどれほどのことか。
 間違ったら勝てない? 勝てないことがどれほどのことか。
 人間の人生とは、思い通りに自分の環境を作ることにあるのです。残念ながら他人の邪魔でそれを阻害される。そこでその阻害を取り除こうとする。そのスリルがあるから将棋は、普遍的に歴史を越える「ゲーム」と呼ばれるものなのです。将棋とは、勝つことではない、自分の意思で世界を作ることに本質があるのです。
 ま、人間のすることは何でも一緒。田中長徳(写真評論家)の本で、以前は『「我らの周囲を取り巻くこの世界とはなんぞや?」が写真の武器だったのが、いまでは「猫の可愛さを1人でも多くの皆さんに知ってもらおうと思って撮りました」だってさ。幼稚園児だってもっとまともなこといいますよ。』 だってさ。まあ、過激な。
 しかしそのとおり、人生を写真に捧げる人間には先鋭にわかるように、写真を撮ることに意思を持ちつづけるということは、私という行為者を取り巻く環境を私の感じたとおりに眼前に作り上げることにある。子猫を撮るおばさんにしてもそれは同様。それを表現するてだてがないだけで。
 
 元左翼だったらこのくらいなこといえよ、上野センセ。あんた、世間をばかにしてるよ。世間はあんたが思っているように、操作するようなもんじゃないんだよ。
 (とはいえ上記、上野氏に100人の弟子がいても、まあ、認識できてるのは1人だね。1人でもいれば先生冥利じゃないかね。かたやおいらよくわかってんだろ。30年前から本質的に知ってるからね。)
 
 まあまあ
 かわいそうに、まねっこぐまのこんぴゅーたー。
 おいらはものまねきゅうかんちょ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする