リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

茶飲み話

2010-06-12 22:43:41 | その他
 こんばんは。まだまだよい気候で。って思うたび、自分がどれだけ夏を恐れているかがわかります。なんせ、時間の無駄の日々。

 さて、どうでもいい話には、つまんない題で。
 今週は、菅の「最小不幸の社会」なる標語に一言書かなきゃいけないよな、と思って、しかし、私にしては出遅れな今日、誰か書いてんだろうなと検索したら社民党党首がはじめにでてきました。
 あ、そうすか。ごめんなさい。
 こんなことは社民党でも分かるようで(発言の詳細はでませんでしたが)。
 
 ま、私の趣旨は「こんなもんスローガンにはならん」、ということですが、みんな反対ならどうでもいいや。
 (といってもこっから下は独り言になってしまったので、ためになるブログ、ちょっとまとめておきます;標語は他者の行為をイメージさせなきゃならんのだよ、と一言。「最大幸福」の追加的作成は行為の目標となるが、「最小不幸」は、目の前のたった一人の不幸を見ても昼寝しとっていい、ということだ。こりゃ標語作成者のやる気がゼロといわれて当然。)
 
 そんなことよりも自分的に、菅ならもう少しましな標語が出せるはず、という幻想を持っていることに気づいて、ああ、わたし、いい人だねえ、といつものように自分に感心しました。政治家ふぜいに期待すんなよ。
 
 だいたい、国家権力の動員力は、基本的に、国家に関わって初めて生きるんだよね、あたりまえだけど。
 徴兵とか国家治安とか国家象徴保全とかね。
 そうでないことには誰も行為の将来に立てることができないから、いっても無駄。基本的に。
 
 で、何が基本でないかというと、相手が子供の場合。
 教育だね。
 教育は万能だから。やる気になれば。
 ところが、さいわい、左翼も創価学会もクリスチャンも国家権力もやる気にならん、あれはどうしたことかねえ。
 日教組がどうとかいって、うそつくなよ、誰もかれもやる気になっとらんじゃないか、って敵を含めて叱咤してもしょうがないが。
 北海道の教育勅語、じゃない、君が代礼拝がどうのというのは組合対策という話もあるが、ああゆう制度権力を使えることしか今の日本人にはできんのさ。だからどうといって、もともとガキは聞く耳もたんし。よいことか悪いことか。
 
 こうした現象は、あれがこうでこれがこうでと、社会学的に踏み込んでいくのは、宇野経済学でいうと段階論を作ることなのだけれど、どうしようかねえ、あんまし面白くないし。実も少なそうな。職業生活での資本家の攻撃にどう反撃するか、というテーマのほうが男らしいよねえ。
コメント
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