●名誉革命と権利・権力の均衡
1658年にクロムウェルが病没すると、独立派と対立していた穏健な長老派が王党派と組み、前王の子チャールズ2世を迎えて、1660年にスチュアート朝への王政復古が行われた。 共和制も水平派も、歴史の一コマと化した。
チャールズ2世は、国民の権利を制限し、親カトリック政策を取った。続くジェームズ2世は、国王大権を乱用し、カトリック化を推進したため、国民の不満が高まった。1688年、議会のトーリー党(王権擁護派)とウイッグ党(王権制限派)が結束して、ジェームズ2世の娘メアリと、その夫のオランダ統領ウィレムに援助を要請した。ウィレムが軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世はフランスに亡命し、戦わずして革命が成し遂げられた。とはいえ、次期国王たる人物を外国から呼んだり、国王が外国に逃走したり、なんとも情けない話である。
ウィレム夫妻は、イギリスでそれぞれウィリアム3世、メアリ2世となり、共同統治者として王位に就いた。その時、議会は、即位の条件として、権利宣言を承認させ、これを権利章典として制定した。権利章典の正式名は「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」という。僧俗の貴族および庶民が祖先から継承した権利を確認するものであり、同時に、国王の権限をあらためて慣習法の制約のもとに置くものでもあった。段階的な展開によって、イギリスでは、議会を中心とする立憲君主制が確立した。この革命が、名誉革命と呼ばれる。こうしてイギリスでは、2度の市民革命によって、国家主権は君主の主権から君民共有の主権へと変化した。
名誉革命の時代にホッブスの理論を受けて、独自の社会契約説を説いたのが、ジョン・ロックである。ロックもまた政府が設立される以前に、自然状態を仮定したが、ホッブスのそれとは正反対に平和な社会を想定した。だが、相互の権利を防衛するために皆で合意して政府を作ったという理論を説いた。そして、名誉革命は人々の合意で新たな政府を形成したものとその意義を説明した。確かに、名誉革命で、議会は王を任免する権利を得て、王の権力を大きく制限した。ただし、人民による社会契約を実行したものではない。議会による王の交代は、王との統治契約であって全面的な社会契約ではない。契約の当事者も、当時の上院下院合同の仮議会(convention)の構成員であって、人民全体ではなかった。
名誉革命後の36年後となる1714年、スチュアート朝が絶え、開祖の血を引くドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として即位した。選帝侯とは、神聖ローマ帝国皇帝を選ぶ権限を持った上級貴族だった。皇帝の家臣がイギリスの王になったのである。ドイツ生まれのジョージ1世は英語を解さず、政治にも無関心だった。そのため、議会の多数派が内閣を形成して政治を行うようになった。1721年、内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う責任内閣制が確立した。イギリス独特の「君主は君臨すれども統治せず(The sovereign reigns but does not rule.)」という伝統が生まれた。これが伝統となったのだが、王朝が絶え、外国人を呼んで国王にしたものの、その国王が国家を統治できないので、こういう制度を作ったのである。栄光あるものとは言えない。ハノーヴァー朝は、イギリスがドイツと戦った第1次世界大戦中に、ドイツ風の名前を改め、ウインザー家と称するようになった。それが今日の英国王室である。これも名誉ある改名とは言えない。
イギリスでは、17世紀から18世紀にかけて、市民革命と議会政治を通じて、国王の主権がさらに制限され、国民の権利と権力が増大した。そして、国王の権力と貴族・僧侶・市民の権力の均衡が生まれ、制限君主制となった。
主権は最高統治権であり、理論的には無制限の権利であり、また無制限の権力である。だが、実際の歴史において、国王の権力はマグナ・カルタ等によって制限され、議会は、国王の権利・権力を協議的に制限する仕組みとして機能してきた。協議によって行使が制限され得るということは、そもそもその権利・権力は主権すなわち統治の最高権力ではなかったことを意味する。
イギリスは、17世紀後半からウェストファリア体制の西欧で覇権を目指すフランスの最大の競争相手となった。そして18世紀半ばにかけて、英仏は海外植民地の支配権をめぐって数次にわたる戦争を行った。総称して英仏植民地戦争という。英仏は、当時の二大植民地帝国として、勢力を争った。フランスより早く資本主義が発達したイギリスでは、1770年代から動力とエネルギーの大変革による産業革命が進んだ。それにより、イギリスは、経済力・技術力・軍事力において、フランスをはじめとする西欧諸国を圧倒する存在になっていった。そして、世界に冠たる大英帝国の繁栄を築いた。
ところで、私は、家族制度が価値観、法律、経済、イデオロギー等の違いにまで、深く影響しているというトッドの説を支持しており、イギリスの市民革命には、家族型的な価値観が影響していると考える。イングランドを中心とする地域では、絶対核家族が支配的である。絶対家族は遺産相続において、親が自由に遺産の分配を決定できる遺言の慣行があり、兄弟間の平等に無関心である。この型が生み出す価値観は自由である。自由のみで平等には無関心ゆえ、諸国民や人間の間の差異を信じる差異主義の傾向がある。そこに自由を中心とした思想が発達し、市民革命の推進力になった。ホッブスやロックは、こうした社会を背景に、自然権や社会契約論の思想を説いた。彼らの思想については、第9章で市民革命から20世紀初めまでの時代の思想を検討する際に述べる。
次回に続く。
1658年にクロムウェルが病没すると、独立派と対立していた穏健な長老派が王党派と組み、前王の子チャールズ2世を迎えて、1660年にスチュアート朝への王政復古が行われた。 共和制も水平派も、歴史の一コマと化した。
チャールズ2世は、国民の権利を制限し、親カトリック政策を取った。続くジェームズ2世は、国王大権を乱用し、カトリック化を推進したため、国民の不満が高まった。1688年、議会のトーリー党(王権擁護派)とウイッグ党(王権制限派)が結束して、ジェームズ2世の娘メアリと、その夫のオランダ統領ウィレムに援助を要請した。ウィレムが軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世はフランスに亡命し、戦わずして革命が成し遂げられた。とはいえ、次期国王たる人物を外国から呼んだり、国王が外国に逃走したり、なんとも情けない話である。
ウィレム夫妻は、イギリスでそれぞれウィリアム3世、メアリ2世となり、共同統治者として王位に就いた。その時、議会は、即位の条件として、権利宣言を承認させ、これを権利章典として制定した。権利章典の正式名は「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」という。僧俗の貴族および庶民が祖先から継承した権利を確認するものであり、同時に、国王の権限をあらためて慣習法の制約のもとに置くものでもあった。段階的な展開によって、イギリスでは、議会を中心とする立憲君主制が確立した。この革命が、名誉革命と呼ばれる。こうしてイギリスでは、2度の市民革命によって、国家主権は君主の主権から君民共有の主権へと変化した。
名誉革命の時代にホッブスの理論を受けて、独自の社会契約説を説いたのが、ジョン・ロックである。ロックもまた政府が設立される以前に、自然状態を仮定したが、ホッブスのそれとは正反対に平和な社会を想定した。だが、相互の権利を防衛するために皆で合意して政府を作ったという理論を説いた。そして、名誉革命は人々の合意で新たな政府を形成したものとその意義を説明した。確かに、名誉革命で、議会は王を任免する権利を得て、王の権力を大きく制限した。ただし、人民による社会契約を実行したものではない。議会による王の交代は、王との統治契約であって全面的な社会契約ではない。契約の当事者も、当時の上院下院合同の仮議会(convention)の構成員であって、人民全体ではなかった。
名誉革命後の36年後となる1714年、スチュアート朝が絶え、開祖の血を引くドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として即位した。選帝侯とは、神聖ローマ帝国皇帝を選ぶ権限を持った上級貴族だった。皇帝の家臣がイギリスの王になったのである。ドイツ生まれのジョージ1世は英語を解さず、政治にも無関心だった。そのため、議会の多数派が内閣を形成して政治を行うようになった。1721年、内閣が国王ではなく議会に対して責任を負う責任内閣制が確立した。イギリス独特の「君主は君臨すれども統治せず(The sovereign reigns but does not rule.)」という伝統が生まれた。これが伝統となったのだが、王朝が絶え、外国人を呼んで国王にしたものの、その国王が国家を統治できないので、こういう制度を作ったのである。栄光あるものとは言えない。ハノーヴァー朝は、イギリスがドイツと戦った第1次世界大戦中に、ドイツ風の名前を改め、ウインザー家と称するようになった。それが今日の英国王室である。これも名誉ある改名とは言えない。
イギリスでは、17世紀から18世紀にかけて、市民革命と議会政治を通じて、国王の主権がさらに制限され、国民の権利と権力が増大した。そして、国王の権力と貴族・僧侶・市民の権力の均衡が生まれ、制限君主制となった。
主権は最高統治権であり、理論的には無制限の権利であり、また無制限の権力である。だが、実際の歴史において、国王の権力はマグナ・カルタ等によって制限され、議会は、国王の権利・権力を協議的に制限する仕組みとして機能してきた。協議によって行使が制限され得るということは、そもそもその権利・権力は主権すなわち統治の最高権力ではなかったことを意味する。
イギリスは、17世紀後半からウェストファリア体制の西欧で覇権を目指すフランスの最大の競争相手となった。そして18世紀半ばにかけて、英仏は海外植民地の支配権をめぐって数次にわたる戦争を行った。総称して英仏植民地戦争という。英仏は、当時の二大植民地帝国として、勢力を争った。フランスより早く資本主義が発達したイギリスでは、1770年代から動力とエネルギーの大変革による産業革命が進んだ。それにより、イギリスは、経済力・技術力・軍事力において、フランスをはじめとする西欧諸国を圧倒する存在になっていった。そして、世界に冠たる大英帝国の繁栄を築いた。
ところで、私は、家族制度が価値観、法律、経済、イデオロギー等の違いにまで、深く影響しているというトッドの説を支持しており、イギリスの市民革命には、家族型的な価値観が影響していると考える。イングランドを中心とする地域では、絶対核家族が支配的である。絶対家族は遺産相続において、親が自由に遺産の分配を決定できる遺言の慣行があり、兄弟間の平等に無関心である。この型が生み出す価値観は自由である。自由のみで平等には無関心ゆえ、諸国民や人間の間の差異を信じる差異主義の傾向がある。そこに自由を中心とした思想が発達し、市民革命の推進力になった。ホッブスやロックは、こうした社会を背景に、自然権や社会契約論の思想を説いた。彼らの思想については、第9章で市民革命から20世紀初めまでの時代の思想を検討する際に述べる。
次回に続く。