河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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2383- マーラー、葬礼、大地の歌、ラーション、キルヒ、インバル、都響、2017.7.16

2017-07-16 18:29:04 | コンサート

2017年7月16日(日) 2:00pm 東京芸術劇場

マーラー 交響詩 葬礼  22′

Int

マーラー 大地の歌 9-9-3-6-4-27′
  コントラルト、アンナ・ラーション
  テノール、ダニエル・キルヒ

エリアフ・インバル 指揮 東京都交響楽団


前日、ノット&東響による復活を聴いたばかりで今日はインバル&都響による葬礼からスタート。ほぼ、復活第1楽章のまま。細かく見ると少し違いはあるようだけれども、それよりもなによりも昨日の今日で、演奏の違いを感じるところが大きい。
インバル&都響のマーラーを観てるとインバルは特に何もしてないんじゃないか、などと思うことが常々あったのだが、こうやって並べてみると、そんなことはまるで無くて、リハまでのインバルの意図が克明に投影され、都響の表現を思うと意思が明確に反映されているといたく思った。
この80を越えた指揮者のポーディアムへ向かう足取りは速い。快速だ。いったん振り始めるとスパッスパッとなぎなた振り回すしぐさも鮮やかに余計な尾ひれはひれはワイプアウトされ、むしろ齢を重ねるごとにテンポはそう快、切れ味は鋭く、耽溺は不要、埋没は悪、みたいな世界観がより濃く出てきたような気さえする。それやこれや全部その場で出来る話でもない。入念なリハというよりは都響との長年にわたる結びつきの強さ、阿吽の呼吸の深さ。そういったことが綯い交ぜになってこのような驚嘆すべき演奏をサラリと事も無げに出来てしまうという思いの方が強い。インバル、都響、マーラーはまさにwin-win-winの関係。

マーラー安定の歌い口。まずこれが一番。あまりに自然すぎるというのも変だが、各セクション、ソロの節回しの自然な見事さ。これ、ほかの演奏を聴けばいかに自然に奏されているかよくわかる。
セクションのまとまりがいいのでステージでのパースペクティヴ感も手に取るようにわかる。配置ポジション通りのところから音が出てくるのだが、彫りが深い。立体的です。
その出てくる音はクリアで精度が高い。透明。ピッチの事もあるし、セクション同士のバランスの良さもある。インバルがそこにいるから、的な都市伝説であったとしても彼らの関係を思うにつけ、それもありかな。
モタモタしないベース開始から湧き上がり、スパッと切っていく葬礼は克明で明快。ノット東響の冒頭に見られたような緊張感や慎重さは、インバル都響にとっては過ぎ去りし過去の話であって、それはもはや忘れ去られたようにみえるぐらい骨身に染みついたもの、隠れ基本なのであって、今このマーラー演奏会では、その先の事を表現している。これはたいしたものだと納得。お見事な葬礼でした。


後半は大地の歌。
1977年、同指揮&フランクフルト放送響の音源を持っているが、その時の演奏よりもスピード感が増している。この齢にしてというよりも、上記のような指揮ぶりだから当然だ。深彫りされた内容は圧倒的で、立体感が増した分、時間が削られた。
インバル都響、ロマン性を排し、明るく美しい。死は暗いかもしれないが生は明るいものだと、そして暗い死のあとに訪れるものは明るい事なのかもしれない。

奇数楽章はテノールにありがちな指向性のあるもので、身体が動くと音源の放射角度が変化するのがよくわかる。よく聴こえたり聴こえなかったり。冒頭楽章はもっと馬力でかましてほしかったですね。
これに比して偶数楽章の長身痩躯ラーションはホールに満遍なく響き渡る声。オペラ風に殊更傾斜せず、あでやかな歌曲集歌唱の趣き。広がりが美しい。
インバルはこの場で特別何かをしているようには見えないのだが前述したとおりのもので、決まり具合が尋常でない。見事な演奏を醸し出しているのは間違いなく彼だ。
イーヴィヒは耽溺せず、クルッと終わる。このさばき。いや、終わりではない。と、まだ80ぐらいはいけそうだと。異色のシンフォニー。インバルにとってはポーズなのだろう。
鮮やかで残像消えやらぬ美しい大地の歌。ありがとうございました。
おわり


あのうまいhr3番さんが、大地の歌で2番席に移動していましたが、そういう曲なのかしら。