恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ある惜別

2018年03月10日 | 日記
 義父はまだ67でした。やっぱり早いですよね。1年前から覚悟はしていたんですが、いざ本当にいなくなってしまうと、全然違うショックです。肺がんでしたけど。

 義父は誰にでも親切で、丁寧な人で、みなさん優しい良い人だったと言ってくれます。ですが、実は結構頑固で気が短くて、怖い人だったんですよ。昭和オヤジの生き残りですよね。うちのヨメもそうですが、娘四人、多少父の血を継いでるんじゃないですかね(笑)

 実は、私がまだ20歳の時の「できちゃった婚」でしてね。わかったときには、焦りまくりました。ええ、二人とも成人してて、結婚するつもりでしたから、基本、問題はなかったんですけど、お義父さんにどう言うかですよね。どれだけ怒られるかと。

 うちのオヤジに打ち明けたら、オヤジも結婚がどうかより、はやく先方のお父さんのところに行って怒られて来いと、慌てていましたよ。

 お願いに行った日の記憶はあんまりはっきりしないんです。それぐらい緊張して、帰って背広脱いだら、背中はワイシャツまで汗ビッショリだったですもん。

 その背広もまだしっくりこないような若造が、正座して石みたいに固まりながら、ようやく「〇〇さんと結婚させて下さい」と言ったんです。

 お義父さんは、やはり正座して腕組みしたまま、ひと言も発しません。本当にいたたまれないような沈黙でした。殴るなら早く殴ってくれと思ったほどです。

 見ていられなかったのか、途中でお義母さんが何事かお義父さんに話しかけて、助け船を出してくれました。すると、またしばらく沈黙が続いて、たった一言、

「それで、どうするつもりなんだ?」

 あ、もうダメだ、と思いましたね。お前みたい後先考えなヤツに、先の見通しなんか立たんだろう、そんな者に娘がやれるか、みたいな意味だろうと。だって、ちらっと上目遣いに顔見たら、顔、真っ赤でしたから。

 もう何も言えなくて、呆然としながら畳の目を見ていたら、またひと言、

「で、どう段取りするんだ? 式とか、いろいろ」

 体のどこかに穴が空いてガスが抜けるようでした。許してくれたんだと思うと、貧血のように目がくらんだことを覚えています。

 それからも、お義父さんの前では緊張しましたね。ずいぶん長い間、僕の方から話しかけたことがありませんでした。怖くて。

 でも、二番目の子が生まれたあたりから、いろいろと話せるようになりました。自分の経験をもとに、アドバイスもしてくれました。

 ああ、やっと一人前に認めてくれたんだな、これから一緒に酒を飲みながら、沢山話ができるかなと思っていたところでした。

 僕は36ですが、人が死ぬことの悲しみを、初めて身にしみて知りました。




 震災から7年。悲しみは静かに深く続いているでしょう。彼もまた、そうなっていくのでしょう。