すでに何度か述べたとおり、「ニルヴァーナ」について、それが何であるかという説明は、仏典にありません。それが何でないかは、説かれていますが。
「無上の安らぎ」みたいな表現は出てきますが、その具体的な境地が小春日和のうたた寝(かなり多くの人にとって、「無上の安らぎ」でしょう)とどうちがうのか、誰にもわかりません。
それもそのはず、仏典における「ニルヴァーナ」の具体的現象は、ブッダの死だからです。死が何かわからないのは当然で、したがって「ニルヴァーナ」にまともな説明が何もないのです。
すると、「ニルヴァーナ」は仏教の最終目標であるにしても、それが何だか定義されないのですから、我々にとっては「達成」すべき対象になりません。
わけのわからないものを目標にするなら、それは「受容」という方法でアプローチされるほかないでしょう。つまり、この「目標」は我々の能動的行為の対象とはなりようがなく、結果的に、その根本において受動態で応接するしかありません。
つまり、我々は死に対して何もできない以上(「終活」とは、自分がかってに設定した「死」までの心配に過ぎない)、いかにそれを受け容れるか以外、考えることはないわけです。
このとき、「わからないこと」を受け容れるのに一番「ラク」な方法は、それを考えることを止めることでしょうから、だったら考える主体を解体してしまえという発想は、ラジカルであると同時に、実に利口なやり方でしょう。
ということは、「ニルヴァーナ」を様々にデザインして語れば、それに応じてロマンティックなストーリーの仏教や仏教型宗教は何種類もできるでしょう(このうち、『だったら、さっさと死んでしまえば、その方がイイだろう』というのは、最も愚かなストーリーです。それは『死ねば今よりラクになる』という妄想で行う能動的行為にすぎませんから、ニルヴァーナの誤解以外の何ものでもありません)。
言うまでもなく、それのどれが「真実の教え」かなど、決めようがありません。結局、自分はどれを気に入るか・支持するかだけの問題です。
「無上の安らぎ」みたいな表現は出てきますが、その具体的な境地が小春日和のうたた寝(かなり多くの人にとって、「無上の安らぎ」でしょう)とどうちがうのか、誰にもわかりません。
それもそのはず、仏典における「ニルヴァーナ」の具体的現象は、ブッダの死だからです。死が何かわからないのは当然で、したがって「ニルヴァーナ」にまともな説明が何もないのです。
すると、「ニルヴァーナ」は仏教の最終目標であるにしても、それが何だか定義されないのですから、我々にとっては「達成」すべき対象になりません。
わけのわからないものを目標にするなら、それは「受容」という方法でアプローチされるほかないでしょう。つまり、この「目標」は我々の能動的行為の対象とはなりようがなく、結果的に、その根本において受動態で応接するしかありません。
つまり、我々は死に対して何もできない以上(「終活」とは、自分がかってに設定した「死」までの心配に過ぎない)、いかにそれを受け容れるか以外、考えることはないわけです。
このとき、「わからないこと」を受け容れるのに一番「ラク」な方法は、それを考えることを止めることでしょうから、だったら考える主体を解体してしまえという発想は、ラジカルであると同時に、実に利口なやり方でしょう。
ということは、「ニルヴァーナ」を様々にデザインして語れば、それに応じてロマンティックなストーリーの仏教や仏教型宗教は何種類もできるでしょう(このうち、『だったら、さっさと死んでしまえば、その方がイイだろう』というのは、最も愚かなストーリーです。それは『死ねば今よりラクになる』という妄想で行う能動的行為にすぎませんから、ニルヴァーナの誤解以外の何ものでもありません)。
言うまでもなく、それのどれが「真実の教え」かなど、決めようがありません。結局、自分はどれを気に入るか・支持するかだけの問題です。