福井の寺に戻っています。お盆の行事に突入、ヒマ僅少。そこでまことにすみませんが、以前書いた拙文を転載して、今回の記事とさせて下さい。
以下は、6年前、当時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュがサダム・フセインのイラクに戦争を仕掛けた直後、宗門の青年会機関誌に寄稿を求められて書いたものです。この季節に便乗するようで恐縮です。
▼「反戦」と「非戦」の間
この度の戦争を簡単に言ってしまえば、危険きわまりない武器を隠し持つ疑いがある上に、ひそかに山賊海賊を煽って悪事の限りを尽くさせているらしい、極悪非道の「ならず者」を、自称「自由と民主主義」のチャンピオンが、圧倒的なハイテク暴力で抹殺する、ということだろう。
すると、この戦争を支持するか否かの議論は、結局「善い戦争」、あるいは少なくとも、「役に立つ戦争」があるのかないのか、という問題をめぐるものとなろう。
だとすれば、この議論は善悪や有益無益の根拠をめぐって、道徳的・政治的・経済的観点から、甲論乙駁、果てしない論争となるに違いない。この場合、「反戦」とは、論争の一方の当事者となることである。
もしこのように考えるならば、私が思うに、仏教のとる立場は「反戦」ではない。その立場は「非戦」である。
「非戦」は、何か根拠を挙げて戦争に反対する「反戦」とは違う。それは「戦わない」と決断することである。あるいは「殺さない」と決断することである。ゆえに、論理的に言えば、「反戦」で死刑支持はあり得ても、「非戦」で死刑支持はあり得ない。最も極端に言えば、虫も殺さないのが「非戦」の立場である。
したがって「不殺生戒」の立場で「反戦」だと言うのは、誤解である。何らかの理由で殺すことが悪いことだから、「不殺生」なのではなく、釈尊が「不殺生」と決めたから、その教えにしたがう者にとって、殺すことが悪いことになったのだ。「戦わない」「殺さない」は、論理の問題ではなく、決断の問題である。それが仏教の立場であり、その決断の責任をとるのが、仏教者の主体性の根拠である。
である以上、我々は、まず自ら殺さない、戦わないと誓い、その立場をあらゆる機会をとらえ、あらゆる手段を駆使して訴えなければならない。殺さず戦わずにすむように、持てるすべての方法を、戦いの前・中・後を問わず、動員しなければならない。
そして何よりも、戦争の原因となる格差・差別・対立、すなわち隠れた小さな戦争を除去する行動を、日常から積み上げていかなければならない。
その主張が社会から嘲笑され、時の権力から攻撃され、教団の存続と僧侶の生活が危険に瀕したとしても、互いに励まし合い、一丸となって非戦の立場を全うする覚悟と努力を持続することーーー我々のとるべき道はこれであろう。
敢えて言えば、仏教は「平和」を求めるのではない。「非戦」を貫くのだ。
道元禅師いわく、
「人は我を殺すとも我は報を加へじと思ひ定めつれば、用心もせられず盗賊も愁へられざるなり。時として安楽ならずと云ふことなし」(『正法眼蔵随聞記』)〈私訳:誰かが自分を殺そうとも、自分は報復を加えないと決めてしまえば、身を護る心配もしなくてすみ、盗賊に襲われる不安もなくなって、時として安らかな気持ちでいられない、ということもない〉
この「安楽」は、現在の我々にとって重く、厳しい。多分「平和」とは、ただの無戦状態の安逸ではなく、「非戦」の緊張の中で創造される過程だろうと、私は考える。(了)
当時の状況もあり、若い僧侶が読者であることもあり、読み直してみると、ずいぶん気負った文章になっていますが、私には今も思い入れのあるものです。
追記:7月13日付けの本ブログ記事でご案内した、恐山参禅修行の件、おかげさまにて定員に達しましたので、募集を終了します。なお、17日恐山着にてお申し込みの場合、定員オーバーでもお受けいたします。多くのお申し込み、ありがとうございました。
非戦の話し、私にとってはこの言葉は、力強く響いてきます。勇気も湧き上がってきます。新しい道が一本できたように思います。
客観的に見て南師の「対機説法」の奥深さを感じ取ってしまいました(汗)
仏教の教えでは虫も殺してはいけないのでしょうか。
自分は罪悪感を感じながらもゴキブリは殺してしまいます。
南さんはゴキブリも殺さないのでしょうか。
仏教では不殺生戒を説く以上、あらゆる生命を殺生してはいけませんね。
南さんもその立場だと思いますよ。
しかし、残念なことに人はこの世に生を受けた以上、罪・咎を犯さないと生きていけない存在ですからね・・・。
だから不殺生戒というものを説く必要があったのではないでしょうか。
ゆえに懺悔(布薩)といった生き方を説くのも仏教では必然です。
ゴキブリを殺してしまった場合には、まずその罪・咎を自覚してまずは至心に懺悔しましょう。そこから始まる仏教的な生き方があるはずです。
あ、「罪・咎を犯さないと生きていけない存在」という事実を盾に、開き直って戦争を肯定する立場には仏教では立ちません。一応、言葉尻を捉える方がいるので念のため。
因みに、こういう理解の仕方を仏教では「本末転倒」と呼んでいます。まぁ、一般社会でもその理解は通用しませんが(笑)
玄侑宗久さんとの対談「問いの問答」に感銘を受けました。玄侑さんのファンでもあります。臨済宗に人気の論客がおられる。曹洞宗からも誰か出でよと期待していたので南さんの活動に期待しております。実家は曹洞宗なので禅を理解したいと思います。
コメント拝読して、少し気持ちに違和感を感ました。ゴキブリの件です。ゴキブリを殺してしまった場合にも、罪を自覚して懺悔することから始まる仏教的な生き方があるという御意見だったと思います。
あえてお叱りを覚悟で質問させていただきますが、本当に仏教者の方は、ゴキブリや蚊をつぶす度に、毎度罪を自覚して生活されるのでしょうか?(確かに、昔の高僧が寝室の蚊帳に紛れ込んだ蚊をつぶさなかったというお話は聞いたことがありますが)
私が気になるところは、「ゴキブリを殺したこと」がいままでまるで何も罪を犯したことのない人が、さも命の尊さが分からずに初犯をやった、さあ反省しろというニュアンスで解釈されものでしたら、ちょっと違うのではないかと思ったのです。
御存じのとおり、人間は動物であれ、植物であれ、生きたものから栄養をいただかない限り、生きていけないものであり、さらに、それを消化吸収するためには、体内で微生物の力まで借りているのに、要らなくなるとトイレに排泄して結果的に殺してしまうどうしようもない生き物です。
ゴキブリを不本意ながら殺してしまったとき、その一匹のみならず、人間が生きていくうえでどうしても殺していかざるを得ないあまたの命について思いが及ぶ時に、そのゴキブリも浮かばれるということではないのかなあと。その罪が許されるというわけではなく、一人一人が背負っていかなけりゃいけないものと感じることが重要なのではないかと。
アースジェットでシュッとやる度に、あるいは、蚊をパチンとやるたびに、ムード的(擬人的)に罪悪感を感じましょうというのは話としては理解できるのですが、一般的世俗的に生きている、圧倒的多数の非宗教者にとっては、けっこう引いてしまう話のように思います。
かなり真面目な思考からのコメントです、あしからず。
求める心があれば得られる答えもありましょう。
幸せを望むならその状態を目指せばいい。「自分に素直になる」というのは、なかなか大変な作業です。自分で自分を生き辛くしている、自分を惑わす正体は己の心そのものだと気付く事が近道。
・・・だから仏陀は最初に不殺生を説いた、私には理解できました。
殺生した生きとし生けるもののためにも、その分も生きるべきと私は思います。
本当に仏教の教えは覚悟のいる据わる教えです。
罪を自覚して・・・という表現で誤解を招いたかもしれませんね。
まず、人はこの世に生を受けた以上罪を犯さないと生きていけないという前提に立つことを自覚すべきなのだと思います。私の言いたい罪の自覚とはそういう意味です。
人が社会の中で生きていく以上、衛生上ゴキブリを殺生することは当たり前のことと認知されております。しかし、私たちはそれをも「罪」と思う態度が求められるのではないでしょうか。そういう意味での罪の自覚から懺悔の精神はよりリアルなものになると思います。そういう意味では、まさささんの言う「背負うこと」と私の言う自覚と懺悔は似ていますね。
難しいのは、「罪を自覚して懺悔すりゃそれで万事全て良し」という思考回路とは異なるという点ですね。それは仏教で言うところの「自覚」であり「懺悔」ではないでしょう。単なる開き直りでしかありません。
要は、南さんの言うように、善か悪かという対極の価値観でこの種の問題を論じるのではなく、単に仏教者としての立場の問題なのではないでしょうか。立場が定まれば、殺生に対して真摯な態度で臨めるということです。殺生すべきか否かという是非の問題よりも、殺生せざるを得ないという立場を自覚した上で殺生すべきではないと誓うことが重要なのだと思います。そういう態度は殺生に対して真の懺悔を導き出すことでしょう。人は殺生せざるを得ない存在だからこそ、守れるか守れないかといった対極の価値観から離れた不殺生戒が必要で、罪・咎を犯したあとの懺悔が必要なのだと感じます。自覚とはその意味をも含みます。