「恐山の大祭が終わったはずなのに、報告をしないとは何事か!」と、ある筋から叱られてしまいました。実は恐山の名カメラマン・木村さんが終了直後から所用で外出中で、彼が見事に撮影したはずの写真が入手できていません。ここはもうしばらくご海容を願い、後日を期して写真付のご報告をしたいと思います。そこで今回も、徒然なるままに駄文をひとつ。
まだ中学生の頃だったと思いますから、たぶん1970年代なかば、「ノストラダムスの大予言」というのが、たいへんなブームになりました。その騒ぎの最中、友達のひとりが言いました。
「1999年に本当に人類が滅亡するなら、それを今知ろうと、前日に知ろうと、5分前に知ろうと、知らないまま死のうと、同じだろ」
なんて頭のよいヤツだろうと、私はすっかり感心してしまいました。そして同時に、この類の話は、びっくりしたり面白がったりしていればよい、所詮は全部「娯楽」なんだなと、妙に腑に落ちたものです。
超能力や霊能力の話も同じことで、すべからく「娯楽」の範疇で扱うのが穏当なところであって、人生の一大事のごとく「真面目」に取り組むのは、害のほうが大きいでしょう。
だいたい、念力でスプーンを曲げても傍目にはつまらぬイタズラでしょうし、時速60キロで水平移動できるならいざしらず、漠然と人が空中浮遊しているのは、ただの邪魔でしょう。
前世がエジプトの女王だとわかっても、当人の毎日のOL暮らしがどうにかなるわけでもなく、明日の予定さえ予定通りにならないのが市井の我らの日常なら、来世が見えても仕方ないでしょう。夏定番の怪談とまったく同様、こういう話は基本的に「娯楽」にしておけばよいのです。
ただし、そういう能力があるのか無いのか、そういう事実があったのか無かったのかという不毛で無駄な議論とは別に、そのような話がどういう意味を持つかについては、考えなければならないときがあります。つまり、その話が、どういう状況で、どういう人たちの間で、どういうふうに語られるのかよっては、「娯楽」ではすまず、「真面目」に考えざるを得ないときがあるのです。
たとえば、急に難病に罹って気落ちしている人に、もっともらしく「前世のタタリ」を持ち出す不逞の輩が登場すると、普段は「娯楽」ですませる人でも、「真面目」になってしまうかもしれません。要は、話の扱い方です。
先般、宿坊に泊まった中年のご婦人が私のところにやって来ました。
「和尚さん、すみませんが、ちょっとだけお話いいですか?」
顔は笑顔でしたが、目が笑っていません。
「わたし、最近に娘を亡くしてしまって、それから毎日お墓参りしてるんですけど・・・。どうにも悲しくて・・・。そしたら・・・、ご近所の霊を見る人に、あんまりお墓参りに行くと娘が成仏できないって言われて・・・。そうなんでしょうか。よくないんでしょうか」
すでに彼女は涙目です。
「ねえ、お母さん。あなた、お墓参りしたいんでしょう。ね?」
「そうなんです! しないではいられないんです! でも、よくないって言うから・・・」
「お参りすればいいよ。悲しいのは当たり前だよ。悲しいときんはちゃんと悲しまないとダメだよ。簡単にお母さんがケロリとなったら、それこそ娘さんガッカリだよ」
「あ、うふふふ・・・、そうですね」
「成仏できないと言うんなら、娘さん、成仏したくないんだよ。お母さんのそばにいたいのさ。あなたの気持ちが落ち着いて静まったそのころには、きっと自然に成仏するよ」
「そうですよね、そうですよね」
「そうさ。お墓参りするほうがずっといいさ」
もしこのご婦人が朝から晩まで食べるものも食べずにお墓にかじり付き、家族一同困り果てているというなら、私は真逆なことを言うでしょう。
「そうだよ。そんなに悲しんでいるお母さんの姿を見たら、娘さん、成仏したくてもできないよ」
まさに「ご都合主義」。しかし、確たる信念を持つ「霊実在主義」者の話とくらべて、「ご利益」は少ないかもしれませんが、害も圧倒的に少ないでしょう。
追記: 7月13日付の当ブログでご案内した参禅修行の件、お蔭様であと数人で定員に達します。関心のおありの方、お急ぎ下さい。なお、次の参禅許可証発送は8月18日以降になりますので、8月17日までに到着したお申し込みについては、定員オーバーの場合でも、お受けいたします。
その場ではいいかもしれませんが、そのようなその場を取り繕うだけの態度が、仏教を「ご利益」「慰霊」宗教にしてしまっているのです。他よりマシとかマシでないという問題ではありません。
それを肯定するなら、ただの仏教僧の格好をした外道です。
>その場を取り繕う――
いいえ、そうは思いません。
何故なら霊や前世の類に話を摩り替えるより現実と向き合い、自分の足元に視線を落とす事ができるからです。時間の解決もあるでしょう、しかし呪縛のような苦しみを自ら解放出来た時、全ての縁に感謝が込み上げた私自身の切実な思いがあります。
ブログを読むも読まぬも自由。「外道」の言葉を吐き捨てる程なら、あえてコメントをしないという対応も選べるはずでは?と哀しくなります・・・。
方丈様、「対機説法」と「ご都合主義」は違うのですか?(悩)。
対機説法とご都合主義は同じであり違うもの・・・。
その答えは今回の記事に現れており、その答えを今回の記事では触れていると思います。
同じ和尚の立場からもそう思います。
>00:37分 様
悩み苦しんでいらっしゃる方へ良いお導きがありますよう、祈らずにはいられません・・・。
コメントにふれてくださり有難うございました。
けれど、今この世を生きている人の苦は多少なりとも和らげてあげる事は可能でしょう。
お経とは「生きる為の発想の転換法がといてある」と聞いた事があります。
ならばその時のお母さんに必要だったのは南さんが言ったお墓参りをしていいという事と、悲しい時は悲しんでいい(当分は)と言う言葉に他ならないと私は思います。
死者に対する一番の供養は、忘れない事と、のこされた生きている人の生きる姿勢と幸せであるとスピリチュアルではいいます。(なぜか仏教関係者には毛嫌いされているようですが)
「信仰はあくまでも個人のものであり、釈尊の教えを直接自分個人の人生に反映させていく事だと思う」と言われた方がいらっしゃいますが、それではいけないのでしょうか?
苦に対する発想の転換の機会をあたえてくれる教えが仏教なのではないのでしょうか?
スピリチュアルの本に書かれている事も四苦八苦に対してのさまざまな発想の転換方法であり、前世の話しは、「何者であったか」が重要ではなく今回生まれてきた「持ち越された課題、新たに学ぶ課題が何であるか」その話の中に出てくるだけの話で、前世は今回の人生の苦しみのヒントに過ぎません。
仏教にしろスピリチュアルにしろ、いかに生きるかがテーマであるなら人それぞれその時々に応じて苦を救う手立ては違ってもかまわないと思います。
苦しいからここにいるんでしょ。
初めて南さんの講義を聞きに行った時の言葉。
苦しくても乗り越えて頑張れと言う人は数多くいますが、苦しみの部分を見てそれを認めてくれる人はなかなかいないように思います。
苦しくてもいいんだ・・・という安心感。
教えや考えを押し付けるのではなくて、その時の苦しい存在をありのまま認めてくれるのが南さんのような気がします。
ノストラダムスの予言、わたしは信じたかったタイプです。
極めて身勝手な考えではありますが、生きているのがしんどくてたまらないので、不可抗力で終わるのなら早く終わってほしい、と。
南さんの本の「人は死ぬから生きられる」というタイトルの言葉は、わたしには最初「あなたも必ず死ねるから」という意味が入っているように聞こえて、それで何だか一息つけて「よし。それまでやるだけやってやろう」という気持ちになれたのを覚えています。
(本の中で読んだ感じでは、そういう意味ではなかったような感じでしたけど)
とりとめのない文章ですみません。おかげ様でずいぶん助かっています。
また、その霊長類の最上位に位置する人間の生命の営み(40兆もの細胞を全体系として調和させてコントロールさせる営み)の不可思議さを考えれば、やはり背後の力は感ぜずにはおれないのではないでしょうか。村上光 照和尚は、京都大学大学院で湯川秀樹博士の指導を受け原子物理学を研究されていた方ですが、原子核の構造の美しさや人智を超えると思えるような振る舞いに感動し、仏法を研究され、物理学を捨てて出家してしまいました。
つまり、我々は人間には理解できない不可思議な、しかし完全に完成された非常に精緻な体系の中に組み込まれて生きている、と考える方が自然なんです。その体系こそが、法界と言われているものではないでしょうか。その法界の姿を人間にわかりやすく説いた経が華厳教だと思っています。
そうした生命の営みの不思議さを考えれば、およそ人間のはからいなど取るに足らない浅知恵であり、人間の死もあまり合理的に考えることは、良くないと思います。つまり、「成仏」ということや、「霊界に旅立った」と考える方が自然であれば、それが人間的な受け入れ方だと思います。
現実なんかには向き合ってないでしょう。
偉い和尚さんが「娘は成仏している」と言ったから、
それを信じて安心しているだけです。
ここで使われている「成仏」は、まさに「霊」や「前世」の類と同じです。
>禅師
という言葉は使わないように、とか言っておられたと思いますよ。きちんと話を聞いていないのは貴方ですw