今年5月で齢60を迎えるから、というわけでもありませんが、長年懸案としていた課題に取り組むことにしました。それは『正法眼蔵』の全巻講義です。まあ、ライフワークみたいなもので、運よく命があれば完結するでしょうが、先のことはわかりません。
実は、第一回目を、昨日(29日)夜、大本山永平寺で行ってきました。これには経緯があります。
昨年か一昨年、永平寺で運営の最高責任者の任にある僧侶(これが私の旧知の友)から依頼がありました。
「直哉さんも、そろそろ本丸を攻める頃合いじゃないですか?」
「なんだよ、本丸って?」
「眼蔵ですよ、眼蔵。もう始めてもいいでしょ。永平寺で修行僧に眼蔵の講義、やってくださいよ」
「やだよ。本山でやるなら、オレみたいな傍流はだめだよ。本流・王道の老師を頼みなよ」
「え~っ、いいじゃないですか。本流を引き立てるのも傍流ですよ」
「失礼だな。オレは引き立て役か?!」
「怒らないでください。ぜひお願いしたい一心ですよ」
「じゃあねー、クラブ活動ならやる」
「え?」
「参加不参加は自由。中途参加も退会も自由。有志のみ、参加したい者だけ。その人たちだけでやる。」
「なるほどね。本山正式の講義ではなく、ですね。つまり、課外活動」
「そう。だから、ただの講義にしない。ゼミナール方式にする。自分の意見を言い合い、質問しあって、参加者が眼蔵にアプローチする自分なりの道筋を見つけられような、そういう講義をしたい。前半を各自の見解を述べた上での討論、後半をぼくの解釈に対する質問と討議の時間にする」
「直哉さんらしいですね」
「ぼくにとっては、自分の解釈がどう受け止められるかの実験として有意義だし、参加する修行僧にとっては、この勉強を通じて、自分は何をテーマにして僧侶、就中道元禅師門下の僧侶であろうとしているのかを、深く考える機会になればよいと思っている」
「希望者多数ならどうします」
「大丈夫。せいぜい数年程度の修行歴で、眼蔵に真っ向から挑戦、なんて威勢のいい修行僧がそう多くいるわけはない。あと、南さんは『参加する以上は、脳から血が出るまでやる』と言ってると宣伝してくれよ。オレの過去が過去だから、未だに真に受ける修行僧も多いだろ」
・・・というやりとりから、まさか実現しないだろうと思って高を括っていたら、本当にすることになってしまいました。
で、行ってみたら15人の参加者がいました。一人でもいるなら結構だと思っていたので、数の多さに驚いてしまいました。今後どうなるかわかりませんが、とりあえずスタートです。
追記:10年にわたって釈尊から道元禅師までの仏教思想を講義した「仏教・私流」が、『超越と実存』(新潮社)と題して書籍化され、先日発売となりました。編集者の指示でプロローグとエピローグを書き下ろしで付け加えています。ある友人には、そこだけ褒められました。やれやれ。
実は、第一回目を、昨日(29日)夜、大本山永平寺で行ってきました。これには経緯があります。
昨年か一昨年、永平寺で運営の最高責任者の任にある僧侶(これが私の旧知の友)から依頼がありました。
「直哉さんも、そろそろ本丸を攻める頃合いじゃないですか?」
「なんだよ、本丸って?」
「眼蔵ですよ、眼蔵。もう始めてもいいでしょ。永平寺で修行僧に眼蔵の講義、やってくださいよ」
「やだよ。本山でやるなら、オレみたいな傍流はだめだよ。本流・王道の老師を頼みなよ」
「え~っ、いいじゃないですか。本流を引き立てるのも傍流ですよ」
「失礼だな。オレは引き立て役か?!」
「怒らないでください。ぜひお願いしたい一心ですよ」
「じゃあねー、クラブ活動ならやる」
「え?」
「参加不参加は自由。中途参加も退会も自由。有志のみ、参加したい者だけ。その人たちだけでやる。」
「なるほどね。本山正式の講義ではなく、ですね。つまり、課外活動」
「そう。だから、ただの講義にしない。ゼミナール方式にする。自分の意見を言い合い、質問しあって、参加者が眼蔵にアプローチする自分なりの道筋を見つけられような、そういう講義をしたい。前半を各自の見解を述べた上での討論、後半をぼくの解釈に対する質問と討議の時間にする」
「直哉さんらしいですね」
「ぼくにとっては、自分の解釈がどう受け止められるかの実験として有意義だし、参加する修行僧にとっては、この勉強を通じて、自分は何をテーマにして僧侶、就中道元禅師門下の僧侶であろうとしているのかを、深く考える機会になればよいと思っている」
「希望者多数ならどうします」
「大丈夫。せいぜい数年程度の修行歴で、眼蔵に真っ向から挑戦、なんて威勢のいい修行僧がそう多くいるわけはない。あと、南さんは『参加する以上は、脳から血が出るまでやる』と言ってると宣伝してくれよ。オレの過去が過去だから、未だに真に受ける修行僧も多いだろ」
・・・というやりとりから、まさか実現しないだろうと思って高を括っていたら、本当にすることになってしまいました。
で、行ってみたら15人の参加者がいました。一人でもいるなら結構だと思っていたので、数の多さに驚いてしまいました。今後どうなるかわかりませんが、とりあえずスタートです。
追記:10年にわたって釈尊から道元禅師までの仏教思想を講義した「仏教・私流」が、『超越と実存』(新潮社)と題して書籍化され、先日発売となりました。編集者の指示でプロローグとエピローグを書き下ろしで付け加えています。ある友人には、そこだけ褒められました。やれやれ。
懐かしい 僧堂での緊張した所作 食べたと言うより燕下し 沈黙道場 無の領域
遠い日の思いで 凍りつく朝 未だ迷える己
叶うことなら レジュメをwebで
御著楽しみに拝読させて頂きたいと思います。青空に陽射しが明るくありますが寒さの厳しい折、どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
赤いチャンチャンコをお召しになられると、脳から血を出さずとも、クラブ活動も赤く染まり熱くなるかもしれませんね。
修行僧しか参加できない講義を打ち明けられましても、参加希望の一般人は出家するしか手立てはないのでしょうか。
思いの外、参加者が多いとのことですので、南さんのような一風変わった(失礼)テーマに忠実な姿勢を引き継げるような修行僧が現れることを、明るい未来に期待しております。
脳から血が出る程の御講義を受けたい❗
という志の高い修行僧がおられるとは❗
はたまた
実体を御存知ないだけか・・・
|д゚)
嘆息がでます。
「法を伝える・聞く」の「真剣さ」こそが命!
かつて、コンピュータ業界は、
超厳しい仕事集団であって、長期休暇を取るなど、皆に迷惑がかかるので、不可能だった。
その中で、勤続xx年の「褒章の休暇」で、正々堂々と休んだ。
念願の大本山永平寺の「眼蔵会」に、7泊8日で参加した。
「僧侶」と一緒に「在家」でも講義・提唱が聞けるという恩恵。
(更に、三食と宿泊とで、一日たったの千円。ただし作務がある。確か、早朝にトイレ掃除もした。)
素晴らしいものと長年期待して行った。
(難しい『正法眼蔵』がスラスラ理解できるようになるのでは…)
提唱の場は、高いところに登っての広間だった。期待して急な階段を登っていった。
しかし、肝腎の『正法眼蔵』の提唱は、テキストの内容の話ではなく、自分自身の若い頃の修行時代の苦労話だけであった。所謂、雑談に終始していた。
(本文そのものが理解できないのかも知れない)
他方、僧侶はみんな寝ていて、「誰も」提唱を聞いていなかった。
(寝ていても起こさない不文律がある。しかし、「聞くに値しない内容」だからか?)
この現実を見て、完全に裏切られた・騙されたと感じた。
(地方の寺院なら仕方がないが、大本山だけは「純粋なもの」が残っていると信じていた。)
しかし、その場には「法を伝える・聞く」の「真剣さ」がなくなっていた。
もしも、道元和尚自身が『正法眼蔵』を提唱していたのならば、
「提唱する・所謂、老師」も「僧侶・修行僧」も、こんな態度をとるのだろうか?
NHKでは「立派な修行の様子」を放映するが、
地元の人々は、修行僧の「裏の実態」を知っている。
「表と裏」「建前と本音」使い分けるのが大人の証。
それに異議を唱えるのは「子供の考え」。
やっと「本来に」戻った・・・
「あと、南さんは『参加する以上は、脳から血が出るまでやる』と言ってると宣伝してくれよ。オレの過去が過去だから、未だに真に受ける修行僧も多いだろ」
しかし、私には遅すぎた。
でしょう。
本気でやるなら出家しないと。
なんで出家しなかったの?