某日、中学生男子と雑談。
「和尚さんさあ、オレさあ、ちっちゃい頃さ、一発でおぼえて、一発で嫌いになった歌があんだよね」
「歌?」
「ほら、ぼくらはみんな生きている・・・って歌」
「ああ、それ、どこが嫌いなのか当てようか? ミミズだって、オケラだって・・・・ってトコだろ?」
「そう! それ、それ!」
「余計なお世話だよなあ」
「なに勝手に比較してんだよ」
「ヒトの、いやミミズの気も知らないで」
「和尚さん、ミミズに気があるかどうかもわかんないだろ」
「そりゃそうだな。あとね、そういう話なら、ぼくにも嫌いというか、非常に苦手なことがあってね」
「どんな?」
「あの、テレビで、難病の人とか、いろいろハンディキャップのある人が出てくる番組あるでしょ」
「嫌いなの?」
「うーん。番組が嫌いというよりも、それを見てる人が、勇気をもらったとか、励まされた、みたいなことを言うじゃん。あれがイヤなの」
「わかる。家でああいうのを見ていると、親から『こういう人たちだってこんなに頑張ってるんだから・・・』っつーよーなこと、言われたりするもん」
「あんまり自分の思い込みで、・・・ダッテとか・・・サエとかは言わないほうがいいと思うんだな」
「あの人たちに比べれば・・・みたいな?」
「そうそう。ぼく、前に一度、生まれつき身体に障害のある人に向かって、何も考えないまま『いろいろ大変でしょうねえ』って言ったら、『よくそう言われるんですが、生まれてからずっとこれ以外のカラダ知らないんで、どう大変なのかわからないんです』って・・・・。聞いて体中から汗でた」
「スゲェな、それ。でもさあ、和尚さんさ、よくわかんねえけど、和尚さんがオレみたいな感じでいいのか?」
「どうかねえ。ただ、そもそもこういう感じだから、坊さんになっちまったのかもしれないね」
私の思いが文章になり、すっきりした気分です!!
人間は、男は、こうでなければならない。とか、宗教は、すべて同じ目標に向かっているとか、独りよがりの思想をぶつけてくる人たちには、本当に嫌気が差していました。
今の私の生き方を、どのように、説明すべきか苦しんでいました。
出家した後に、実家に帰省していたら、立正佼成会の中高年たちが訪問してきて、「出家という生き方は、間違っている。この親不孝者!!」と散々、言われました。
しかも、初対面の立正佼成会員にですよ。
宗教協力を全面に出して、接触してくるなら、他人の生き方を否定せず、自己を究明して欲しいと思います。
確かにそうですよね。いわゆる壮年部長や支部長や主任というのはボランティアスタッフですから、教団の教えを無視して、自分が信じている思想を周囲の人間にぶつける輩が多いですね。
本部の職員や地方の教会長というのは教団の養成機関で修行して、教団から給与を貰って活動している、いわゆるプロの宗教者ですから、強引な事はしませんね。
あまりにも無礼なら、メールでも良いので本部に苦情を通報すると、効きますよ。
私は、通報しました。
それは必ずしも 宗教組織という形態を採らないが。
神道や仏教やキリスト教などの伝統宗教の権威を利用し、それを意図的に歪曲させたものがカルト教義である。
よってそれは従来の教えよりも魅力的であり、同時に効果が大きいと謳われる。
反面その副作用も指摘され、依存症や強迫観念に悩む者が 多く発生している。
カルトは マルチ商法や詐欺の手口を集積させて、結果 人の脳を破壊し、組織に貢献させるロボットにしてしまう。
その手法を称してカルト ・マインドコントロールという。
その活動は以下の三つの実践に集約される。
A:集金 B:新たなメンバーの勧誘 C:グループの維持
そしてそれらを半端なく全うせねば永遠の命が貰えないなどと脅す。
カルト・マインドコントロールを仕掛けられたメンバーにとって、組織外で生命を維持することは ほとんど不可能に近い。
その醜悪さは、つまり聖なる神仏を装い、その実 中身は詐欺の集積であるところにある。
それに比べれば 一般の営利組織が持つ詐欺性は、カルト・マインドコントロールよりもはるかに清らかだと言えるだろう。
カルトは 一般社会や政界など あらゆるところにその菌糸を食い込ませ その病巣とし、また 法律も熟知しているので 追い詰めることは 困難を極める。
その実態を晒し 啓蒙し続けることこそが 社会健全化の一歩と成り得るだろう。
ご利益や利他や悟りというカルトの美しい罠に気を付けよう。
カルトとは、我々自身の心の、闇と欲望が生んだ、汚物なのである。
ワシやライオンと仲良くする幼稚園児はあまりいませんが、ミミズやオケラと仲良くする幼稚園児は珍しくないということと、ウサギや金魚では当たり前すぎるということで大人に嫌われそうな動物を選んだのだと思います。
「だって」にこだわる必要はないのでは?
でも、そう言えば、私の親も「手や足の不自由な人だって…」とよく言います。聞き流していますが。
偏見だがそういう人間に限って人を色眼鏡で判断し勝手なイメージを作り上げているように思われる。そしてそれが負の要因として働くならひどい場合「差別」につながるだろう(これまた本人の自覚なしに)。
皆さんはどう考えますか?
「負けるな、負けるな、和尚さんに負けるな」
のところを
「負けるな、負けるな、和尚さんには負けるな」と歌ったら、何か人狸関係に微妙な影が差してしまったので、
日本語は難しいなと思った次第でした、特に他意があったわけでもないのに。。。。。
こうしてできたのが「手のひらを太陽に」である。「彼」とはご存知の通り、アンパンマンで有名な「やなせたかし」氏。
私の主観であるが、やなせ氏と南氏は非常に似通った「闇」を抱えていると同時に、非常に異なった「闇の克服」の仕方をしてきたのではないか。その共通性と異質性が、南氏をして「やなせ」氏の作品に惹かれると同時に嫌悪するという、アンビバレントな思いを抱かせるのではないか。
私の個人的な希望ではあるが、両者の対談を読んでみたい。やなせ氏は90を超えており、実現の可能性は低いが。
やはり、伝統の神社や寺院じゃなきゃ駄目だ。