恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

網をくぐった魚は

2018年08月30日 | 日記
 打ち続く暑さの中、思いつき禅問答シリーズ。

 ある修行僧が老師に問いました。

「どんな網にもかからないすばらしい魚は、いったい何を食べるんですか?」

 老師は答えます。

「お前が網をくぐって出てきたら、教えてやろう」

 すると修行僧は

「あなたは1500人の修行僧の指導者ということですが、問答の仕方も知らないんですね」

 老師は言いました。

「私は住職の仕事が忙しくてな」


 この問答を、私はこう解釈すると面白い気がします。

「どんな網にもかからないすばらしい魚」とは、あらゆる煩悩から解脱した覚者のことでしょう。修行僧は、そういう者にも、なお何らかの欲望があるのか(何を食べるのか)、問うているのです。

 老師は、そんなことは自分が解脱してから訊いてこいと、修行僧に不愛想な答えをします。

 カチンときた修行僧が答えられないのかと詰め寄ると、老師は正面から答えずに、自分は忙しんだとはぐらかします。なぜでしょうか。

 それは、煩悩の根絶などという事態が、本当に起こっているのかどうか、本人だろうが他人だろうが、誰にもわからないからです。事実として「煩悩を根絶している」のか、「煩悩を根絶したと一時的に思い込んでいる」のか、これを判別するいかなる基準もありません。

 もしこの判別が可能とすれば、根絶が一時的なのか否か、未来を見通す予知能力が必要です。悟った者の「神通力」を肯定せざるを得ないでしょう。

 つまり、「悟り」だの「解脱」だのを、誰であれ「わかった」話にまとめようすると、結局は「超能力」みたいなSF的与太話を持ち出すことになるわけで、だからこそ、老師は修行僧の短兵急な追求をはぐらかしたのです。

追記:私の受賞について、お祝いのコメントを賜り、ありがとうございました。意外なことで驚きましたが、売りにくい私の本を世に出してくれた編集者の尽力と、インパクト十分の印象深いカバー絵を提供してくださった画伯のご厚意に、多少の恩返しができたかなと思っています。

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45 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2018-08-30 00:18:15
コメント、読んで下さったのですね。
出来れば受賞記念講演もお考え下さい。次は「刺さる言葉」の続編などはいかがでしょう?
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Unknown (Unknown)
2018-08-30 00:26:58
とりあえず、受賞のお慶び申し上げます。表紙絵の合掌は、本物よりリアルな仕上がりで、骨太な中身の力強さを現されていると思います。

㊗おめでとうございます🎉✨🎊
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受賞作品 (Unknown)
2018-08-30 00:59:36
「超越と実存」は、無明を破りそうな、純粋な仏教書でしょう。もしかすると、あなたの仏教を裏切るかもしれませんが、関心がありますなら是非お買い求め下さい。
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大切なことは大抵めんどくさい (ノリィ)
2018-08-30 01:03:16
生徒「学問の王道を教えてください」
教師「君が学問の王様になったら教えよう。
   王道なら王になってから通るのが筋だろう」
生徒「あなたは教師なのに教え方も知らないんですね」
教師「研究で忙しくてね」

みたいなことでしょうか。
楽をするなと。
もっと短くすると
インタビュアー「人気作品を書く秘訣は!?」
人気作家「いやこっちが知りたいわ」
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Unknown (Unknown)
2018-08-30 01:06:50
だからこそ、「仏教に輪廻は不要」と言われるのですね!
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Unknown (Unknown)
2018-08-30 01:08:39
はぐれ住職純情派。
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Unknown (Unknown)
2018-08-30 02:59:07
だからね、
悟った人っちゅうのは、
することなす事は全て「無価値」だからと、
何んにもせずに飲まず喰わずでボケェ~ってしてるヒトなんだっちゅうの。
見たらわかるよ。
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形式論理学の外へ (榮久)
2018-08-30 03:12:33
いまここに、「居る」という端的にして目をそむけ得ない事実を、そのまま不思議と問い始めるならば
次々と展かれゆく不可解なことどもに、しばし茫然自失するだろう。
何故、考えられるのか。何を、考えているのか。
考えているそのことは、考えられているそのことなのかと、形式論理学の網の目を潜り抜け矛盾律の外へと向かう。

西洋哲学史の「存在論」の流れを決定付けた、パルメニデス( Parmenide-s )「あるものはある」「ないものはない」
という「存在のテーゼ」。
あるもののみがあり、ないものはない。何故そうなのか。気に入らない。

考えられることしか考えられないというこの論理この思考形式を不自由と感じるとき
考えられないことをも考えてしまったかのように、見えないものをも見てしまったかのように
そこに表象しえるのは、おそらく詩学のみだろう。

だが西暦150年頃~250年頃。すでに龍樹は「中論」で、あるとないとの「中」の構造こそが実在なすと
「中」に着目するところでこそ「無化の思考」が「空の思想」を
存在や時間などを含む一切のものは他との相関・相依の関係(縁起)の上に成り立ち、
その相関関係はいずれも独立するものはない(空である)。

この、転換に、あるいはここに気づくことで外の世界が僅かに望める。
せめひしぎ合っている諸現象の背後に、それらがそこから派生し来たったところの統一的な一を、
再び透親し得るのだ。一即多即一とはまやかしではない。明晰の極みである。
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Unknown (Unknown)
2018-08-30 04:39:50
なぜ、大乗仏教の僧侶が軽々しく悟ったなどと言わないのか。

悟った、と語ることがどんな結果を生むのか。

結局、言葉は言葉にすぎず、悟り、も言葉にすぎない。

きちんと学んだ大乗仏教僧侶の悟りのスタンスは、この辺りのニュアンスで組み立てられている、と思っています。

大乗仏教では悟れない、とか、大乗仏教僧侶は悟った、というと、面倒な責任が発生するから言わない、などと見当違いの非難をする、自称釈尊直伝の人たちには、わからないニュアンスなんだろうな、と思います。

まずは網をくぐってから、ですね。
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Unknown (Unknown)
2018-08-30 04:53:53
カバーの絵はどなたが描かれたのですか?
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